第19話:ジュリアンの挑発
王宮、ジュリアンの私室。
灰衣の男が、跪いたまま報告を続けていた。
「市井では、王太子殿下を次期国王にと望む声が、目に見えて増えております。国王陛下への不満と、対になる形で」
「ほう」
ジュリアンは、書類から顔を上げないまま応じた。声には、さほどの驚きもない。
「予想の範囲内だ。愚かな王に、賢い王太子。民が比べたがるのは当然だろう」
「殿下は、それを楽観しておられるのですか」
「楽観ではない」
ジュリアンは、そこでようやく顔を上げた。
「警戒だ。あの評判の上がり方は、少し出来すぎている」
脳裏に、以前の記憶がよみがえる。
以前より鋭くなった兄上。まるで別人のような立ち居振る舞い。あの時は、馬鹿げた想像だと笑って片付けた。だが、あれから今日まで、兄上の変化は一度も元に戻っていない。
「調べは進んでいるか」
「殿下の身辺、これといって不審な点は見当たりません。ですが」
灰衣の男は、わずかに声を落とした。
「王太子妃候補のエレノア嬢が、以前にも増して殿下のお側を離れなくなっております」
「エレノアか」
ジュリアンは、指先で顎を撫でた。
「あの女は、昔から兄上に忠実だった。今更、驚くようなことでもない」
「ですが、以前とは、忠実さの質が違って見えるとの声も」
灰衣の男は、淡々と続けた。
「質が違う、とは」
「まるで、秘密を共有する共犯者のような――そういう印象を受ける、と」
ジュリアンは、しばし黙り込んだ。
窓の外、庭園の木々が風に揺れている。
「面白い」
ジュリアンは、口の端を上げた。
「ならば、直接確かめてみるとしよう」
「直接、ですか」
「兄上を、茶会に招く。私的な席でな」
灰衣の男が、わずかに眉を動かした。
「警戒されるのでは」
「だからこそ、意味がある」
ジュリアンは立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。
「何も知らぬ顔で、探りを入れる。反応を見れば、大抵のことは分かる」
「かしこまりました」
「日取りは三日後。場所は、東屋がいい」
ジュリアンは、静かに続けた。
「人払いをしておけ。私と兄上、二人だけの席にする」
三日後、東屋には、二人分の茶が用意されていた。
アルベルトは、招待状を受け取った時から、この席の意味を察していた。ジュリアンが単独で会いたいと言ってくることなど、これまでほとんどなかったからだ。
「兄上、お忙しい中、お時間をいただきありがとうございます」
ジュリアンは、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
「珍しいな、お前から誘うとは」
アルベルトは、努めて平静に応じた。腰を下ろし、茶に口をつける。
「たまには、兄弟らしい時間があってもいいと思いまして」
「兄弟らしい、か」
アルベルトは、短く笑った。
「お前とそんな時間を持った記憶は、あまりないが」
「だからこそ、今からでもと」
ジュリアンは、茶器を静かに置いた。
「最近の兄上は、まるで人が変わられたようですね」
核心を、いきなり突いてきた。
アルベルトは、内心で身構えながらも、表情には出さなかった。
「人が変わった、とはよく言われる。悪い意味ではないと思いたいがな」
「もちろん、良い意味です。国庫を守り、グラナダとの和平を進め、民の信頼まで得ておられる。以前の兄上からは、想像もつかなかった」
ジュリアンは、声に称賛の響きを乗せていた。だが、目だけは笑っていないように見えた。
「何か、心境の変化でも」
「変化というほどのことではない」
アルベルトは、茶器を口元に運びながら答えた。
「父上の不甲斐なさを見ていれば、誰でも危機感を持つ。それだけのことだ」
「なるほど」
ジュリアンは、しばし黙って庭を眺めた。
「エレノア嬢も、随分と兄上に信頼を寄せているようで」
話題が変わる。
「彼女とは、婚約者だ。信頼するのは当然だろう」
「ええ。ただ、以前とは違う種類の信頼に見えます。まるで、二人だけの秘密でも共有しているような」
アルベルトの心臓が、一瞬強く跳ねた。だが、顔には出さなかった。
「勘繰りすぎだ」
「そうかもしれません」
ジュリアンは、あっさりと引いた。だが、その笑みは、少しも崩れていなかった。
「一つ、お聞かせください」
「なんだ」
「兄上は、今の自分を――王太子としての立場を、心から望んでおられますか」
妙な質問だった。
アルベルトは、一拍置いてから答えた。
「望む望まぬの話ではない。与えられた立場で、できることをやっているだけだ」
「実に、模範的なお答えですね」
ジュリアンは、微笑んだまま立ち上がった。
「今日は、良い話ができました。また、機会があれば」
アルベルトも席を立った。
東屋を去りながら、背中に視線を感じていた。振り返らなかったが、その視線が消えることはなかった。
王太子府に戻ると、エレノアが待っていた。
「いかがでしたか」
「探られた」
アルベルトは、椅子に腰を下ろしながら答えた。
「お前のことにも、探りを入れてきた。以前とは違う信頼を寄せているように見える、と」
エレノアは、表情をわずかに強張らせた。
「気づかれた、ということでしょうか」
「確信には至っていないはずだ。だが、疑いは確実に濃くなっている」
アルベルトは、窓の外へ目をやった。
「あやつは、勘がいい。証拠がなくとも、違和感だけで真相に近づいてくる」
「今後、どうされますか」
「油断はできぬ。だが、過剰に警戒すれば、それ自体が答えになる」
アルベルトは、静かに息を吐いた。
「これまで通り、振る舞うしかない」
窓の外、東屋のあたりに、まだジュリアンの姿があった。
こちらを見ているのかは、遠すぎて分からない。だが、その視線の重さだけは、確かに感じ取れた。
(第20話へ続く)
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