第18話:民の失望と王太子の評価
王太子府の執務室に、財務卿エドワードが青ざめた顔で駆け込んできた。
「殿下、王都の各所で、陛下への不満が噴き出しております」
「詳しく話せ」
アルベルトは、書類を置いた。
「先日の増税の触れ、宝物庫からの持ち出し未遂、それに酒宴のたびの散財。市井では、陛下を『愚王』と陰で呼ぶ声まで出ているとか」
エドワードは、声を落とした。
「畏れ多いことですが、耳に入った以上、お伝えせねばと」
「よく言った」
アルベルトは、窓の外へ目をやった。王都の屋根が、午後の光の下で静かに並んでいる。
「一方で」
エドワードは、少しだけ言いにくそうに続けた。
「王太子殿下のお噂は、悪くないようです。グラナダとの和平、国庫の防衛、先だっての夜会での機転。市井でも、殿下を頼もしいと評する声が増えております。以前は素行を危ぶむ声も多かっただけに、近頃は人が変わられたようだ、改心されたのではと、そういう噂も出ているようで」
アルベルトは、しばし黙り込んだ。悪い話ではない。だが、手放しで喜べる話でもなかった。
エドワードが下がると、エレノアが入れ違いに姿を見せた。
「聞いていたか」
「はい」
エレノアは、静かに頷いた。
「実際に、市中の様子を見てまいります」
「一人でか」
「平民の姿に紛れれば、誰にも怪しまれません。それに、噂というものは、書面より生の声を聞くほうが正確です」
アルベルトは、少し考えてから頷いた。
「気をつけろ。ジュリアンの目が、どこに潜んでいるか分からぬ」
「心得ております」
エレノアは、一礼して部屋を出た。扉が閉まると、アルベルトは一人、椅子に深く座り直した。
王太子としての評判が上がるのは、悪いことではない。だが、その裏で陛下の座――本来は自分自身のものだったはずの位置――の評判が落ちていく。二人分の重みが、一人の肩にのしかかっている。
その日の夕方、質素な外套を纏ったエレノアは、朝市の名残が残る広場を歩いていた。
露店の片付けをする商人たちの間を、ゆっくりと縫っていく。夕暮れ時のこの時間なら、日中よりも人の口が軽くなる。それは、これまでの潜入でエレノアが掴んできた経験則だった。
「聞いたかい、また税の触れが出るってさ」
パン屋の女将らしき女が、隣の店主へ話しかけていた。
「今度は何のためだい」
「知らないよ。どうせまた、陛下の道楽だろう」
女は、うんざりしたように肩をすくめた。
「以前の陛下は、こんなことはなかったのに、どうされたんだろうね」
女は、腕を組んでため息をついた。
「その点、王太子殿下は違うね。この間のグラナダの一件、あれのおかげで関税が落ち着いて、うちも仕入れが楽になったよ」
「ああ、最近の殿下は評判いいもんな。夜会で刺客から婚約者様を守ったって話も聞いたぜ」
隣の店主が、声を弾ませた。
「前は素行が悪いだの、婚約者様を蔑ろにしてるだの、色々言われてたのにな。ここ最近は、まるで人が変わったみたいだ」
「改心でもされたんじゃないか。だとしたら、悪い話じゃない」
「陛下が殿下みたいだったら、こっちも安心なんだけどねえ」
エレノアは、聞こえないふりをして通り過ぎた。胸の内で、複雑な感情が渦を巻く。喜んでいい話のはずが、素直には喜べなかった。
少し先の露店では、老いた行商人が荷をまとめながら、若い連れにこぼしていた。
「近頃の陛下は、次から次へと税を上げなさる。少し前までは、こんなじゃなかったのに」
「王太子殿下が代わりに立ってくれりゃいいのに、なんて言う奴もいるくらいだ」
「馬鹿を言うな。次期国王がお決まりになる前から、そんなことを口にするもんじゃない」
老人は、周囲を気にしながら声を落とした。だが、その目には、隠しきれない期待の色があった。
エレノアは、足を止めずにその場を離れた。民の失望は、思っていた以上に深い。そして、王太子への期待も、思っていた以上に大きい。どちらも、扱いを誤れば刃になる。
広場を抜けたところで、別の一団の話し声が耳に入った。
「近頃、陛下の様子がおかしいって噂、聞いたか」
人相の悪い男が、仲間らしき者へ声を潜めていた。
「殿下が全部やってて、陛下は名ばかりなんじゃないかって話もあるぜ」
「まさか」
「いや、洒落にならねえ話かもしれねえぞ」
男たちは、それ以上は語らず、足早に人混みへ紛れていった。
エレノアは、その背を目で追った。何者かは分からない。だが、口ぶりは、ただの噂話にしては踏み込みすぎていた。
王太子府へ戻ると、エレノアはすぐにアルベルトへ報告した。
「市井の声は、概ねエドワード卿の言う通りでした。陛下への不満と、殿下への期待、両方とも本物です」
「それだけか」
「もう一つ。陛下の異変を、探るような口ぶりの者たちがいました。物取りにしては、言葉が妙に的を射ていました」
アルベルトは、表情を険しくした。
「ジュリアンの手の者か」
「断定はできません。ですが、可能性は高いかと」
エレノアは、静かに続けた。
「殿下の評判が上がるほど、陛下との落差が際立ちます。それは、こちらに味方を呼び込む一方で」
「あやつの警戒も、呼び込むということだな」
アルベルトは、椅子の背にもたれた。
「諸刃の剣、また一つ増えたか」
「はい」
エレノアは、少し間を置いてから続けた。
「老いた行商人が、殿下を次期国王に、と口にしていました。まだ小さな声ですが、そうした声は、確実に増えています」
「早すぎる話だ」
アルベルトは、低く呟いた。
「今、あの玉座に座っているのは、わしの息子――アデルだ。わしが望んで、あの座を奪おうとしているわけではない」
「分かっております。ですが、民の期待は、こちらの都合を待ってはくれません」
エレノアの言葉に、アルベルトは短く息を吐いた。望んだ地位ではない。だが、期待をかけられている以上、応えないわけにはいかなかった。
窓の外では、夕暮れの光が、王都の屋根を赤く染めていた。
民の声は、確かに変わり始めている。だが、それに気づいているのは、味方だけとは限らなかった。
(第19話へ続く)
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