第17話:愛妾マリアの焦り
王太子府の執務室に、クララが早足で入ってきた。
「殿下、妙な噂が耳に入りました」
「妙な噂?」
「国王陛下の愛妾、マリア様のご様子がおかしいと、女官たちの間で囁かれております」
アルベルトは、書類から顔を上げた。
「どうおかしい」
「以前は足繁く通っておられた陛下が、ここのところ急に呼びつけたかと思えば、何日も放っておかれたりするそうです」
「気まぐれ、というやつか」
アルベルトは、苦い顔をした。アデルらしいと言えばそれまでだが、今は事情が違う。国政を放り出して女のもとへ通う余裕など、あるはずがなかった。
クララが下がると、アルベルトはしばらく黙り込んだ。
(そういえば、あの女に話したと言っていたな)
あの日、アデルから聞き出した数少ない手がかりの一つ。秘蔵酒のことを、マリアに話したと、確かに本人の口から聞いた。
「エレノア」
「はい」
「マリアという女、秘蔵酒の一件を知っている可能性がある」
エレノアは、表情をわずかに硬くした。
「あの女なら、よく覚えています」
その声には、隠しきれない棘があった。婚約破棄の宣言の場で、腕に絡みつきながらエレノアを嘲った女だ。忘れられるはずがない。
「頼みにくいことは分かっている」
「いいえ」
エレノアは、すぐに表情を整えた。
「私情を挟む余裕は、今の状況にはございません」
「無理はするな」
「無理ではなく、割り切っているだけです」
エレノアは、静かに続けた。
「あの女は、自分が可愛いだけの人間です。危なくなれば、誰よりも早く逃げ出すでしょう。だからこそ、扱いようはあります」
アルベルトは、その言葉に頷いた。
「信用は求めるな。ただ、使えるところだけ使え」
「承知しました」
三日後、離宮の外れにある屋敷を、エレノアは供も連れずに訪れた。マリアの住まいは、王宮の華やかさとは無縁の、質素な佇まいをしていた。
通された部屋で、マリアは長椅子に脚を組んで座っていた。エレノアの姿を認めると、形ばかりの笑みを浮かべる。
「あら、エレノア様。婚約者様に捨てられた元婚約者様が、私に何のご用でしょう」
嫌味には、慣れていた。エレノアは表情を変えずに、向かいの椅子へ腰を下ろす。
「陛下のご様子について、伺いたいことがあります」
「陛下の?」
マリアの目つきが変わった。
「私に聞くより、ご自分でお尋ねになればいいのでは」
「あなたにしか分からないことです」
エレノアは、机の上に小さな包みを置いた。金貨の重みが、布越しにも分かる大きさだった。
「答えていただければ、それなりのお礼はいたします」
マリアは、包みへちらりと視線を落とした。値踏みするような間があった。
「……何をお知りになりたいのですか」
「最近の陛下は、以前と違うと聞きました。具体的に、どう違うのです」
「そうですね」
マリアは、指先で髪を弄びながら答えた。
「少し前までは、何を考えているかすぐ分かるお方でした。ここ最近は、急に黙り込んで静かになったかと思えば、苛立って当たり散らされることも」
「黙り込む、というのは」
エレノアは、慎重に言葉を選んだ。核心に踏み込みすぎれば、知らないはずのことを教えてしまいかねない。
「上の空になって、こちらの話をまるで聞いていないことがあります。かと思えば、些細なことで急に声を荒げたり」
マリアは、少し眉をひそめた。
「何か、思い通りにならないことでもあるのかと、内心では思っています。ですが、恐ろしくて誰にも聞けません」
その反応に、エレノアはひとまず胸を撫で下ろした。少なくとも、入れ替わりの事実にまでは辿り着いていない。
マリアは、そこでふいに笑みを消した。
「このまま陛下がおかしくなっていったら、私、どうなるんでしょう」
その声から、先ほどまでの余裕が消えていた。
「寵愛を失うだけならまだしも……もし陛下が本当に何か大変なことになったら、そばにいた女というだけで、私まで一緒に切り捨てられるんじゃないかって」
単純だが、切実な怯えだった。エレノアは、この女への見方を、少しだけ改めた。
「一つだけ、確かめさせてください。以前、アデル殿下から預かった酒の話をされたことは」
「ああ、その話」
マリアは、わずかに声を落とした。
「ひと月ほど前、急に、誰にも話すなと釘を刺されました。それきり、あの酒の話には一切触れられなくなりました」
エレノアの目つきが鋭くなった。ジュリアンが動き始めた時期と、符合する。
「他には」
「それだけです。深追いする気は、私にはありませんので」
マリアは、包みを引き寄せた。
「これで、お役に立てましたか」
「ええ、十分に」
エレノアは立ち上がった。
「もう一つ。今後、誰かにこの件を聞かれても、話さないでいただけますか」
「口の堅さには自信がありますの。金払いの良いお客様の頼みなら、なおさら」
マリアは、艶やかに微笑んだ。信用できる笑みではなかったが、金の力は少なくとも今は効いている。それで十分だった。
屋敷を出ると、日はすでに傾いていた。エレノアは、王太子府への帰路を急ぎながら、先ほどの言葉を反芻していた。
(ひと月前、口止めをした。上の空になり、些細なことで声を荒げる。思い通りにならず、苛立っている)
アデルは、少なくとも自分と父の中身が入れ替わっているという事実までは、話していない。だが、綻びは、確実に外へ漏れ始めている。
その夜、エレノアはアルベルトへ報告した。
「入れ替わりの事実までは、知らないようです。ですが」
「ですが?」
「あの怯えようでは、誰かに縋りたくなって、酒の一件まで余計に話してしまうかもしれません」
アルベルトは、眉を寄せた。
「時間の問題か」
「はい。それに、あの女は進んで話す性分ではありませんが、頑なに黙り通す人間でもありません。金次第で、いくらでも傾くでしょう」
「ジュリアンが、同じ手を使わないとも限らんな」
アルベルトは、窓の外へ目をやった。
「引き続き、見張っておいてくれ」
「承知しました」
窓の外、王都の灯りが一つ、また一つと消えていく。
この国を覆う霧は、まだ晴れる気配を見せなかった。
(第18話へ続く)
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