第16話:近衛隊の抱き込み
夜会の熱気も冷めやらぬ深夜、王太子府の執務室には重い沈黙が満ちていた。卓上には王宮の見取り図と、近衛隊および城外駐屯軍の配置図が広げられ、燭台の炎が書類を覗き込むアルベルトの横顔を照らしている。東屋で刃を受けた感触は、まだアデルの若い身体に冷たく残っていた。夜会の招待客たちは、何も知らぬまま眠りについている頃だろう。
「ジュリアンの焦りが、目に見えて粗くなっている」
アルベルトは見取り図の一点を指で押さえた。
「和平工作と関税凍結で、じわじわと奴の首を絞めてきた。だからこそ、刺客などという乱暴な手に出たのだろう」
「ですが、刺客を取り逃がした以上、ジュリアン殿下を直接追及する証拠にはなりません」
エレノアが静かに言葉を継いだ。
「それに、フィンレイから聞いた話では、薬草を揃えるだけでも、かなりの時間がかかるそうです」
「気長に構えるしかないか」
「はい。ですが、時間をかけるほど、ジュリアン殿下に動く隙を与えることにもなります」
アルベルトは腕を組んで考え込んだ。薬草の手配は、エレノアとヴィクトリアの手で少しずつ進みつつある。だが、問題はその先にあった。いつ来るとも知れぬ機会に備え、ジュリアンの暗部を長く抑え込み、なおかつ玉座で暴れる暴君、アデルの身体そのものも押さえ込み続けねばならない。それを同時にこなすには、今の手駒ではあまりに心許なかった。
「今、わしらの手にある護衛だけでは、とても足りぬ」
「密かに信を置ける者は、十数名といったところでしょうか」
エレノアが指を折りながら答えた。
「その程度では、近衛の全面展開にも、ジュリアンの私兵にも太刀打ちできぬ」
「近衛隊の掌握が、絶対に必要です」
アルベルトはしばし考え込んだ。
「近衛が動けば、ジュリアンの私兵も、そう自由には動けなくなる」
「ですが、扱いを誤れば、こちらの動きごと筒抜けになります。近衛隊は本来、国王陛下の直属です」
「諸刃の剣だな」
エレノアの言葉に、アルベルトは頷いた。
「それでも、賭けるしかない」
「近衛隊長、ランバート・ヴァルハイト」
「あの方を、動かすのですか」
「動かす」
ランバートは幼い頃から王家に仕える家に生まれ、剣の腕と忠誠心を買われ、アルベルト自らが隊長に取り立てた男だった。かつての親征では、幾度となく共に死線を越えてきた仲でもある。近衛の中でも人望は厚く、彼が首を縦に振れば、隊のほとんどが従うだろう。
「ランバート隊長は、国王陛下への忠誠が誰より篤いお方です」
エレノアが声を落とした。
「それだけに、近頃の陛下の乱心には深く傷ついておられます。忠臣が次々と退けられていくのを、黙って見ているしかない立場ですから」
「それに」
エレノアは一拍置いて続けた。
「もともと、王太子アデル殿下のことは快く思っておられません。執務を放り出し、放蕩に耽るお方だと」
「知っている」
アルベルトは自嘲するように口の端を歪めた。
「アデルを厳しく律するよう、わし自身があやつに命じていたのだからな」
あの頃は、まさか自分がアデルの身体に押し込まれる日が来るとは思いもしなかった。あの命令が、今は自分自身へ跳ね返ってきている。今の姿で「わしはアルベルトだ」と名乗ったところで、正気を疑われるだけだろう。むしろ、アデルが乱心の果てに妄言を吐き始めたと取られる方が、まだ自然かもしれない。
「言葉で説けぬなら」
アルベルトは立ち上がった。
「それ以外の方法で示すまでだ」
「お一人で行かれるのですか」
「ランバートは、群れて来る者に心を開く男ではない」
アルベルトは、銀灰色の地味な上着を羽織った。
「一人で十分だ。あやつが一人で汗を流す時間は、昔から決まっている」
王宮裏手、近衛隊の修練場。真夜中を過ぎても、木剣を打ち合う音が絶えず響いていた。月明かりだけが石畳を白く照らす中、汗に濡れた上半身をさらし、木剣を振り続けているのは近衛隊長ランバートだった。剣を握る腕には戦場で刻まれた古い傷跡がいくつも残り、鍛え抜かれた体軀とは裏腹に、削ぎ落とされた頬と落ち窪んだ目元には重い疲労が張り付いている。ここ数日、まともに眠れていなかった。
(なぜ、こうも国が壊れていく)
歯を食いしばり、木剣を力任せに振り抜く。かつて敬愛した主君は、ここ数週間でまるで別人のようになってしまった。忠臣を退け、無謀な戦を叫び、国庫にまで手を伸ばそうとする「王」。異を唱えれば、次に飛ぶのは自分の首かもしれない。それでも、王命という絶対の壁の前では、ただ城の警護を回ることしかできなかった。守るべきものが国なのか、狂ってしまった主君なのか、答えの出ない問いが、稽古のたびに胸の奥で渦を巻いた。その異変を前に、ただ剣を振ることしかできない自分が、ひどく歯がゆかった。
「太刀筋が乱れているぞ、ランバート」
闇の奥から呼びかけられ、ランバートは木剣を構え直した。現れたのは、フードを払った王太子アデルだった。
「……殿下」
ランバートは声に隠しきれない苛立ちをにじませ、最低限の礼だけを執って木剣を下げた。目の前の男を、「国を蝕む放蕩者」以外の何かとして見る気は、これっぽっちもなかった。
「このような夜更けに、何のご用でしょう。ここは酔狂で立ち寄るような場所ではございません。お戻りください」
突き放すような言葉にも、アルベルトは足を止めなかった。壁の武器棚から、木剣を一本取る。
「口の悪さは、昔から変わらぬな」
「……何をおっしゃっているのか。私は殿下のお相手をしている暇はございません」
ランバートが眉をひそめたその時、アルベルトは足元の木剣を跳ね上げ、片手で受け止めた。切っ先を、まっすぐランバートへ向ける。
「構えよ、ランバート」
「その曇った目を、叩き起こしてやる」
言うが早いか、アルベルトは木剣を横薙ぎに払った。ランバートは危なげなく受け止めたが、その一撃の重さに片眉を上げる。
(この身体で、この太刀筋か)
鍛えていないはずの腕から放たれた一撃には、素人の粗さがなかった。むしろ、無駄のない、教科書のような剣筋だった。
「……本気でやるおつもりですか」
「本気でなければ、剣など抜かぬ」
アルベルトは、二撃目を放った。防がれる。三撃目も、四撃目も。体力はすぐに底をつき始めた。アルベルトは息を切らしながら、もつれる足で立ち続けた。それでも、剣先だけは最後まで狙いを外さなかった。
幾度となく打ち込まれても、ランバートは崩れない。だが、防ぐたびに違和感が募っていく。
(この動き、まさか……)
かつて幾度となく手合わせした、あの人の剣筋に、あまりにも似ていた。
やがて、アルベルトの膝が折れた。木剣を杖代わりに、荒い息を吐きながらも、なお顔を上げる。
「まだだ」
「殿下……」
ランバートは、初めて声を揺らした。
「なぜ、そこまでなさるのですか。負けを認めれば、それで済む話です」
「認めれば、それで終わりだからだ」
アルベルトは、震える脚で立ち上がった。
「わしは、退くわけにはいかぬ。この国のために、まだやらねばならぬことがある」
その言葉に、驕りも、酔いもなかった。ランバートは木剣を下ろした。
「……お見それいたしました」
深く、頭を下げる。
「その様子、とても遊び半分とは思えません」
「これで、少しは信じる気になったか」
「まだ、すべてを、とは申しません」
ランバートは表情を引き締めた。
「ですが、今の殿下のお言葉になら、耳を傾ける用意はございます」
アルベルトは、木剣を布に包みながら小さく笑った。
「十分だ」
「して、御用向きは」
「近衛隊の力を、貸してほしい」
アルベルトは静かに続けた。
「ジュリアンは、遠からず動く」
ランバートは表情を険しくした。
「……お聞かせください」
東の空が、わずかに白みはじめていた。
(第17話へ続く)
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