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愚息と体が入れ替わった王ですが、どうやら我が国は崩壊寸前らしい  作者: あずきまんま
第2部:危機回避と外交・軍事の掌握編

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第12話:秘密外交の使者

翌朝。


まだ日も昇りきらぬうちに、エレノアは王太子府を出た。


懐には、昨夜のうちにアルベルトが眠りに落ちる直前まで口述し、エレノアが書き取った一枚の私案がある。


侍女の外套を借り、髪を布で覆う。


見慣れた公爵令嬢の姿は、どこにもなかった。


供は、王太子府に仕えるクララ一人だけを連れていく。


ヴィクトリア付きと思われがちだが、実際は両家の間を行き来する、数少ない信頼できる使用人だった。


「本当に、お一人で大丈夫ですか」


クララの声には、隠しきれない不安があった。


「一人でなければ、意味がありません」


エレノアは、静かに答えた。


「大人数で動けば、それだけ目立ちます」


行き先は、貴族街の外れにある古い礼拝堂だった。


グラナダ大使館の使用人たちが、日曜の礼拝に通うことで知られている。


平民の姿に紛れれば、誰にも怪しまれない。


とはいえ、油断はできなかった。


ジュリアンの目が、どこに潜んでいるか分からない。


裏通りを選び、遠回りに遠回りを重ねながら、二人は歩いた。


朝市の喧騒が、少しずつ遠ざかっていく。


パン屋の焼く匂いと、荷馬車の車輪の音だけが、通りに満ちていた。


石造りの礼拝堂は、朝の光の中でひっそりと佇んでいた。


蝋燭の匂いと、湿った石の匂いが入り混じっている。


長椅子の一番奥、柱の陰になった席に、その人物はすでに座っていた。


黒髪を後ろへ撫でつけた、実直そうな青年だった。


「……ディエゴ殿」


エレノアは、囁くように名を呼んだ。


「エレノア様」


ディエゴは振り返らないまま、小さく頭を下げた。


「これほど早くお会いできるとは思っておりませんでした」


「時間がありません」


エレノアは、彼の隣へ静かに腰を下ろした。


祈るように両手を組む。


傍から見れば、ただの礼拝者が二人、並んで座っているだけに見えるはずだ。


「本国からの正式な国書は、もうお手元に?」


「はい」


ディエゴの声が、わずかに硬くなった。


「三日以内に、正式な謝罪と関税の撤回。それがなければ、開戦。国王陛下の御意志です」


「その三日で、事態を収めることは難しいでしょう」


エレノアは、率直に切り出した。


「国王陛下ご自身が、お認めにならない限り」


ディエゴは、しばらく黙り込んだ。


「察してはおりました」


低い声だった。


「王太子殿下は、あの方を止められないのですね」


「止めることと、頭を下げさせることは、別の話です」


エレノアは、懐から一枚の書状を取り出した。


封蝋はない。


差出人の名も記されていない。


「これは」


「王太子殿下からの、私案です」


エレノアは、それをディエゴの膝の上へそっと滑らせた。


「正式な謝罪ではありません。ですが」


ディエゴが、書状を素早く開く。


目が、文面を追っていく。


「関税の……即時停止?」


「三倍への引き上げは、法の不備を突いた強行措置でした」


エレノアは静かに続けた。


「王太子府の権限で、施行を一時差し止めます。今日、財務卿の名で通達が出るはずです」


「国王陛下の署名なしに、そのようなことが」


「軍を動かす権限は、陛下おひとりのものです。ですが、財の運用には、王太子府にもわずかな裁量が残されています」


エレノアは、静かに補った。


「今回は、その裁量の範囲内で収まる話です」


「表向きは、新税の審査に伴う一時停止、ということにいたします」


エレノアの声は、揺るがなかった。


「グラナダに対する譲歩とは、決して呼ばせません」


ディエゴの目に、驚きの色が浮かんだ。


「もう一つ」


エレノアは続けた。


「追放された大使閣下には、非公式に、王太子府から謝意を表す使者を送ります。閣下の名誉を損なうことのないよう、慎重に」


「具体的には、どのような……」


ディエゴが、慎重に問い返す。


「大使閣下がお持ちだった屋敷は、まだ手つかずのままです。そちらを、閣下の名で改めてお預かりいただく形にいたします」


「屋敷を、そのままに」


「他国の目には、単なる手違いだったと映るはずです。ですが、閣下ご自身には、我が国の意志が伝わるでしょう」


ディエゴの表情に、初めて感心したような色が浮かんだ。


「非公式に……」


「表立った謝罪ではない。ですが、何もしないよりは、遥かにましなはずです」


ディエゴは、しばらく書状を見つめたまま動かなかった。


「エレノア様」


やがて、静かに口を開く。


「これを本国へ伝えれば、私の立場も、無事では済まないかもしれません」


エレノアの表情が、わずかに翳った。


「グラナダの中にも、主戦論を唱える者がおります。弱腰と取られれば、私自身が糾弾されましょう」


「承知の上で、お願いしています」


エレノアは、彼の目をまっすぐに見た。


「無理にとは申しません。ですが、あなたが動いてくださらなければ、次に届くのは、書状ではなく剣です」


ディエゴは、目を伏せた。


長い沈黙が、二人の間に落ちた。


「……分かりました」


ディエゴは、書状を丁寧に折り畳んだ。


「本国へ、すぐにお伝えします」


「猶予は」


エレノアが問う。


「三日では、あまりに短すぎます」


「私の一存では、お約束できかねます」


ディエゴは、正直に答えた。


「ですが」


一拍、間を置く。


「これだけの譲歩があったと知れば、陛下……我が国王も、無下にはなさらないはずです」


「頼みます」


エレノアは、深く頭を下げた。


「戦になれば、双方の民が死にます。それだけは、避けたい」


「同じ思いです」


ディエゴの声にも、初めて温かみが滲んだ。


「私も、故郷の家族に、戦場から手紙を書きたくはありません」


しばしの沈黙が、礼拝堂に落ちた。


朝の光が、ステンドグラスを透かして、二人の足元に色とりどりの影を落としている。


「十日」


ディエゴが、ようやく口を開いた。


「私の裁量で稼げるのは、そこまでです。本国への往復に、それだけかかります」


「十分です」


エレノアは、初めて表情を緩めた。


「感謝します」


「礼には及びません」


ディエゴは立ち上がり、深く一礼した。


「私も、戦を望んではおりませんので」


彼は、足音を立てずに礼拝堂を出ていった。


一人残されたエレノアは、しばらく祈るように座ったままでいた。


(十日……)


三日から、十日へ。


わずかな延命に過ぎない。


だが、それだけあれば、次の一手を打てる。


エレノアは、静かに立ち上がった。


外套の頭巾を、深く被り直す。


礼拝堂の外では、クララが柱の陰に隠れるようにして待っていた。


「エレノア様……! ご無事で」


「ええ」


エレノアは、小さく頷いた。


「十日、稼げました」


「十日……」


クララの表情に、安堵と、それでも消えない不安が同居していた。


「それだけあれば、殿下は」


「分からない」


エレノアは、正直に答えた。


「ですが、諦める理由にはなりません」


二人は、来た時と同じように、裏通りを選んで歩き出した。


朝の陽射しが、少しずつ強さを増していく。


普段どおりの喧騒が、遠くから聞こえてきていた。


何も知らない民たちの、いつも通りの朝が。


同じ頃。


王宮、ジュリアンの私室。


灰衣の男が、片膝をついていた。


「昨夜、殿下と陛下が二人だけでお会いになった件、調べがつきました」


「誰の差し金だ」


「エレノア様が、殿下に耳打ちしていたのを、女官の一人が見ております」


ジュリアンの指先が、机の上で止まった。


「エレノア嬢か」


呟く声に、これまでとは違う響きがあった。


面白がるような、それでいて、どこか苛立ったような。


「あの女、婚約破棄されてもなお、兄上のために動いているというわけか」


灰衣の男は、答えなかった。


「もう一つ、ございます」


「言え」


「本日、財務卿の名で、対グラナダ関税の一時停止が通達されました」


ジュリアンの笑みが、初めて止まった。


「……停止だと? 誰の許可で」


「王太子府の権限、とのことです」


長い沈黙が落ちた。


「兄上が、また余計なことを」


ジュリアンは、窓の外へ視線を移した。


王都の空は、憎らしいほど晴れ渡っている。


「戦を長引かせるどころか、火種そのものを消しにかかったか」


その声には、初めて焦りに似たものが滲んでいた。


「おい」


「はい」


「エレノア嬢を、見張れ。それと」


ジュリアンの瞳が、昏く光った。


「兄上の身辺も、これまで以上に、な」


灰衣の男が、音もなく姿を消す。


一人残されたジュリアンは、しばらく窓の外を見つめ続けていた。


王太子府、執務室。


夕刻。


戻ったエレノアから報告を受け、アルベルトはしばし目を閉じた。


「十日、か」


「精一杯でした」


「十分だ」


アルベルトは頷いた。


「よくやってくれた」


「関税の停止は、エドワードが」


「ああ」


アルベルトは、卓上の書類を一瞥した。


「あやつも、腹を括ったようだ」


エレノアが、疲れの滲む顔で椅子に腰を下ろした。


「ディエゴ殿は、危険を承知で引き受けてくれました」


「借りができたな」


「いずれ、返す機会もございましょう」


ヴィクトリアが、窓辺から振り返る。


「これで、当面の戦は避けられました」


「当面は、な」


アルベルトの声に、油断はなかった。


「グラナダの件が収まれば、次はジュリアンだ」


「陛下の身辺を、探られ始めているようです」


エレノアが、硬い声で言った。


「灰衣の男が、王宮のあちこちで聞き込みをしているとの報せが」


部屋の空気が、静かに冷えた。


「来るか」


アルベルトは、低く呟いた。


「あやつが、ただ探るだけで終わるとは思えぬ」


ヴィクトリアが、扇を握る手に力を込めた。


「備えは」


「近衛の中に、信の置ける者を増やしておけ。数は少なくてよい。質が要る」


「承知しました」


エレノアが、静かに立ち上がった。


「私は、しばらく人前に出ぬようにいたします。これ以上、陛下に疑いが向かぬように」


「無理はするな」


「無理をしているのは、陛下の方です」


エレノアの声に、わずかな棘があった。


だが、その目には、隠しきれない気遣いがあった。


アルベルトは、何も言い返せなかった。


窓の外、夕陽が王都を赤く染めていく。


その色が、なぜか血の色に見えた。


(第13話「第2王子の暗躍」へ続く)


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