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月の下、見えない茜色の影  作者: 柊夕
『十五年前、六十年後』〜白砂寧々編〜
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8/15

十五年後に辿り着きましたか?

諦めちゃダメ 頑張ろうね 巡

 家に着いた頃には、すっかり夜も更けていた。

 冷静に考えれば、バイクを回収しに戻るべきだったのだろう。だが、今の俺にはどうしても、もう一度夏小町に入る勇気が持てなかった。

 だから俺は、一日中どんよりと曇っていた空と賭けをした。雨は降らない、という賭けだ。

 久々の徒歩は、ひどく時間がかかった。けれど、今の俺には一人で静かに考えるための、この時間が必要だった。

 歩みを進めるにつれて、俺の頭の中は、姉貴の放ったいくつかの言葉で満たされていった。


『舞台が大事なの?』


 当たり前だ。


『舞台が必要不可欠だって言うの?』


 当たり前だろ。あそこは、寧々の約束の場所なんだから。


『なら、あんたはもう依頼を果たしたじゃない。写真、撮ったんでしょ? それを思い出の形として寧々ちゃんに渡せば、あんたの役目は終わりよ』


 俺は……。


『巡、あんたって肝心なところでいつも分からず屋なんだから。寧々ちゃんは、あの古い舞台そのものを愛しているからあんたに依頼したの? もしそうなら、もうすべては終わり。舞台が壊された時点で、依頼の前提は消え去ったわ。でも、もし違うなら――形が失われたからって、それで失敗だなんて言えるの? あんたはただのカメラマンなの?』


 俺は……。


 玄関の前に立つと、ドアの隙間からかすかな明かりが漏れているのに気づいた。鍵を差し込んで回した瞬間、中からバタバタと慌ただしい足音が近づいてくる。

「どこに行ってたの! なんで電話に出ないのよ!」

 俺がドアを開けるより早く、内側から勢いよく扉が開かれた。まだお互いの姿は見えていない。けれど、切羽詰まった声が真っ先に鼓膜を震わせた。

 心配というよりは、怒っているような口調と表情。いや、正確には「心配が行き過ぎて怒りに変わった」と言うべきだろう。

 心身ともに限界まで疲れ果てていた俺は、自分を問い詰める澪の姿を見て、逆にふっと、力なく笑ってしまった。

「ただいま、澪」

 澪は一瞬、呆気に取られたようだった。俺のやつれた様子に気づいたのか、尖らせていた表情がみるみるうちに和らいでいく。澪は俺の目の前まで歩み寄ると、背伸びをして、俺の頬についていた土汚れをそっと指で拭った。

「おかえり、巡」

 軽く顔を洗い、食卓につく。澪が俺のためにラップをかけて残しておいてくれた夕食を口に運んだ。澪は何も訊かず、ただ静かに俺の向かい側に座っている。

「あ……『いただきます』って言うの、忘れてた。ごめん」

「いいよ。後でちゃんと『ごちそうさま』を言ってくれれば」

 澪の優しい微笑みにつられて、俺の口元も自然と緩む。もし、以前のように俺が一人きりだったなら、今頃は電気も点けずに床に転がっていただろう。

 美味しいな。澪の作ってくれたご飯は。

「……ごちそうさま」

「お粗末さまでした」

 澪の顔を見つめるものの、何をどう話せばいいのか分からなかった。澪は俺の気持ちを察して、あえて何も訊かないでいてくれている。

「あのさ……」

「ん?」

「……いや、なんでもない。姉貴が見ておけって言ってたものがあるんだ」

 パソコンを立ち上げる。あのメッセージを最後に、寧々からの連絡は途絶えていた。

 姉貴から教えられたアカウントを入力しようとする。そこには、姉貴が俺に見せたいものがあるらしい。だが、疲弊しきった精神のせいで、どうしても意識が散漫になってしまう。水を飲もうと立ち上がろうとした瞬間、足の力がふっと抜け、俺はそのままフローリングの床へと倒れ込んだ。

「巡!? 大丈夫!?」

 ――あぁ、気持ちいい。全身の力を完全に抜いても、床がすべてを受け止めてくれる。

「大丈夫、大丈夫だから心配しないで……。ちょっと疲れだけ。このまま少し休ませて。澪はパソコンでも見て退屈しのぎしてて……」

 最後まで言い切る前に、俺のまぶたは重力に負けて閉じてしまった。

 ……。

 …………。

 幼い頃の夢を見た。

 山の中で遊び呆けて足を挫いてしまい、姉貴に見つけられた時のこと。

 背丈はまだ姉貴より低かったけれど、体重はすでに追い抜いていた気がする。

 それなのに、姉貴は俺を背中におんぶしてくれた。「バカね」と呆れながらも、ずっと優しく慰めてくれた。

 また、幼い頃の記憶のようだった。

 今度は俺が姉貴のように、誰かを背負って夜道を歩いている。

 ……誰だったっけ?

 ……。

 …………。

『夏が、夏があなたを連れてきた。そよ風、そよ風、優しく囁く……』

 再び微睡みから意識が浮上した時、頭を優しく撫でる温かい感触があった。耳元で、聞き覚えのある子守唄が流れている。これは……昔、母さんがよく歌ってくれた曲だ。

「あ、起きた?」

 視線を上げると、真上に澪の顔があった。けれど、眼鏡を外されているらしく、その輪郭はぼやけてよく見えない。

「澪……」

「お疲れ様、巡」

「頭の下の、この柔らかくて温かい感触は……」

「ふふん、膝枕だよ。代償は高いだからね? でも、巡がこれだけ頑張ったんだから、今回は特別に無料サービスってことで」

 代償……なんだか恐ろしいワードが聞こえた気がする。とはいえ、やっぱりもう少しだけ、このままでいさせてもらおう。

「ちょっと、なんでまた目を閉じるの! 私、もう足が痺れちゃっているんだけど!」

「あ……ごめん!」

 慌てて体を起こし、机の上に置かれていた眼鏡を探してかける。向き直ってお礼を言おうとしたその時、澪の目元が赤くなっていることに気づいた。

「澪?」

 ハッと何かに思い至り、視線を向けると、案の定パソコンの画面は寧々とのチャット画面のまま止まっていた。

「……知ったのか?」

「うん……さっき、白砂さんにも確認させてもらったから……」

 一時、沈黙が流れる。

「ごめん」

「巡のせいじゃないよ、そんなに自分を責めないで。今日こんなに遅くなったのって、もしかして夏小町から一人で歩いて帰ってきたから?」

「あぁ……」

「バカ。なんで私に言ってくれなかったの? 言ってくれたら、一緒に歩いたのに」

 澪の言葉に対して、「ありがとう」の一言だけではどうしても足りない気がした。けれど、他にどんな言葉を紡げばいいのかも分からず、俺は今日の出来事を包み隠さず、一から十まで話し始めた。

「やっぱり、そうだったんだ……。白砂さんが言ってたのも、大体そんな感じだった。訊いたところによると、寧々ちゃんは今、病院で安田さんの看病をしてるんだって。巡、これからどうするの?」

「まだ諦めるわけにはいかない。姉貴に電話したら、あるアカウントを教えてくれたんだ。その中を探せって」

「暁姉さんに電話する余裕はあって、私の着信履歴が三件もあったことには気づかなかったんだ?」

 背筋にゾクッと冷たいものが走り、俺は慌てて画面に向き直った。

「と、とにかく……まずはこれを見てみよう」

 パソコンに姉貴から送られてきたアカウントを入力すると、一列の文字列が目に飛び込んできた。


 ――おかえりなさい、天野葵様


「これって……母さんのアカウント? あれ?『Aoi』じゃなくて、別のアカウントか?」

 今まで見たこともない記事アカウントを、俺は貪るようにスクロールしていった。見覚えのないタイトルが次々と流れていく中、突如、一つのタイトルが俺の目を釘付けにした。

「十五年後の約束……十五年?」

「どうしたの?」

「確か、俺が初めて安田さんのところを訪ねた時も、十五年後がどうのこうのって言ってたんだ。詳しい意味を聞こうとしたら、追い出されちゃったんだけど」

 深呼吸をして、俺は『十五年後の約束』と題された記事をクリックした。

 これは――十五年前、母さんが夏小町に滞在していた頃の記事だ。当時の町長に招かれ、夏小町の宣伝写真を撮影するために訪れたものの、台風のせいで足止めを食らい、身を寄せていたのが……。

「白砂……家」

「まさか、葵さんはずっと昔に、寧々ちゃんと会っていたの?」

 俺と澪は先を読み進めた。台風が去った後、本来なら出発するはずだった母さんだが、白砂のおばあちゃんの看病のために残ることにしたらしい。おばあちゃんの息子夫婦は会社のトラブルで出張したまま戻れず、家には人見知りで臆病な、小さな孫娘だけが残されていた。

「やっぱり、寧々だ……」

 滞在期間中、母さんは多くの友人を作った。その中には安田さんも含まれていた。七月二十二日の夜、白砂のおばあちゃんは町内にある古い舞台の上で、みんなのために歌を歌った。

 そこには一枚の写真が添えられていた。優しそうなおばあちゃんが舞台の上に立ち、まだ幼い寧々が、その足にしがみつくようにして後ろに隠れている。

「やっぱり、十五年前からあの舞台はボロボロだったんだな」

「そこ気にするところじゃないってば」

「ごめん」


『寧々ちゃんはすごく人見知りなのに、おばあちゃんと一緒に舞台に立つって言い張ったの。でも、いざ舞台に上がるとおばあちゃんの後ろに隠れてばかりで、人を見ることもできなかった。それでも、あの子は一生懸命頑張ったわ。戻ってきた二人にさっき撮った写真を見せたら、寧々ちゃんは写真に写る自分の姿を見て、ものすごく悲しそうな顔をしていたの』


『「大きくなったら……こんな風にならないもん! そ、その時は、おばちゃん、また私の写真を撮ってね」って寧々ちゃんが言った時、私たちはみんな笑っちゃった。白砂のおばあちゃんが「じゃあ、寧々が大きくなったら、また葵ちゃんに新しい写真を撮ってもらいましょうね」って』


『子供の成長を見守るのって、私たち大人の役目よね。寧々ちゃんもいつか大きくなって、強くて勇敢な女の子になる。その瞬間を見届けることが、私たち三人だけの小さな約束』


『寧々ちゃんに、あとどれくらいで大きくなるの?って訊いたら、指折り数えて少し考えてから「十五年」って答えたの。私と寧々ちゃんは指切りをしたわ。十五年後、私は必ず約束を果たしに来るね、って』


「約束……守らなきゃいけない、約束」


 日記の最後には、一言が添えられていた。それは記事のまとめでも結びの言葉でもなく、母さんが俺と姉貴に宛てて残した、明確なメッセージだった。


『暁、巡。あんたたちはまだ小さいけれど、いつかきっとここを見る日が来るわ。もし十五年後、お母さんが自分で行くことができなかったら――その時は、私の代わりに寧々ちゃんの成長を見届けてあげてね。そしてあの約束を果たして、もう一度寧々ちゃんの写真を撮るのよ。それが私から、ううん、私たちから寧々ちゃんへの成人祝いだから』


 そうか。そういうことだったのか。

 姉貴はこれを知っていたから、あんな問いかけをしてきたのか。

 寧々が必要としていたのは、舞台の上で歌うことじゃない。おばあちゃんとの約束の場所を守ることですらなかったんだ。寧々が本当に求めていたのは――『成長の証明』だ。

 たとえおばあちゃんがもうこの世にいなくても、寧々はこの約束を果たしたかった。

 そして、おばあちゃんに伝えたかったんだ。


 ――『私、もう大きくなったよ。だから安心して!』って。


 澪は目元を真っ赤にしながら、俺の後ろから離れてベッドに腰掛け、夕の頭を優しく撫でた。俺も大きく息を吐き出し、小さくため息をついて呆然とする。

 記事の最後には、一枚の集合写真が添付されていた。

 白砂のおばあちゃん、寧々、安田さん。それから母さんと――もう一人、見覚えのない人物。

「この人……誰だ?」

 俺の呟きに、澪が立ち上がって近寄ってきた。

「どうしたの? 何か見つか――えっ!?」

 澪は目を見張り、微かに開いた口からは何の言葉も出てこなかった。

「どうしたんだ、澪? 震えてるぞ……?」

 澪の目から大粒の涙が二滴、ハラハラと零れ落ちた。そこから、彼女は堰を切ったように泣き出してしまった。震える声で、辛うじて紡ぎ出されたのはたった一言だった。

「お母……さん……」

「お母さん!? え? ええっ!? この人が、澪のお母さんなのか!?」

 澪が正人さんと二人暮らしなのは、ずっと前から知っていた。それに、彼女が母親の話を一度もしないことから、俺もあえてその話題を避けるようにしてきたのだ。まさかこんな形で、澪の母親が母さんの記事に登場するなんて思いもしなかった。

 澪のしゃくり上げる声が大きくなり、迷子のような、助けを求めるような目で俺を見つめてくる。

「巡……」

「分かった。今すぐ姉貴に連絡する。澪、泣かないで。まずは座ろう、な?」

 俺がそっと手を引くと、澪は大人しく従い、ベッドの端に腰掛けた。俺は慌てて姉貴の携帯に発信した。コール音が鳴り響く一秒一秒が、ひどくもどかしく、焦れったい。

「クソッ、出ない! 姉貴の奴、何やってんだよ!」

 もう一度かけ直そうとしたその時、今度は澪のスマホが鳴り響いた。画面には『お父さん』の文字。慌てて時計を確認すると、すでに夜の十一時十三分だった。寧々の依頼に没頭するあまり、完全に時間を忘れていた。

 だが、今の澪はどう見ても電話に出られる状態じゃない。

 俺は意を決して、澪のスマホを手に取り、正人さんからの電話に出た。

「も、もしもし。巡です」

『巡くん? 俺、澪の携帯にかけてるんだよな? お前……まさか……?』

「何もしてません! 何もしてませんって! ただちょっと特殊な事情がありまして……澪は、その、今ちょっと手が離せないんです!」

 電話の向こうから、ガシャーンと何かが激しくひっくり返るような、あるいは派手に転んだような音が響いた。

『葵さんの息子なら……葵さんの息子なら……いや、ダメだダメだ。俺、葵さんに電話しなきゃ……』

 正人さんの声はすっかりうわ言のようになっていたが、幸いなことにそこで一方的に通話は切れた。俺は慌てて姉貴への発信を再開する。その傍らで、澪はどこか虚ろな足取りでパソコンの前へと歩み寄り、その写真をじっと見つめて立ち尽くしていた。

 結局、姉貴への電話はまたも繋がらなかった。

 けれど、澪はいつの間にか涙を拭っていた。俺に向ける彼女の瞳からは脆さが消え、代わりに強い決意が宿っている。

「私、お母さんを見つける」

「うん! うちの母さんの知り合いなら、絶対に手がかりはあるはずだ」

「ごめんね、さっきは取り乱しちゃって。でも心配しないで、私、すごく嬉しいの」

「嬉しい?」

 澪はもう一度写真に視線を落とし、まるでそこにいる人に触れようとするかのように、そっと画面に指先を這わせた。

「お母さん、本当にいたんだ……」

 だが、これは十五年前の写真だ――俺はハッとその事実に気づく。

 けれど、それを口にしてはならないし、できるはずもなかった。俺には同じ経験がないし、彼女の気持ちに完全に共感できるなんて傲慢なことは言えない。それでも、わずか一パーセントにも満たない微かな希望が、今の澪にとってどれほど大きな意味を持つか、想像くらいはできた。

 澪はゴシゴシと目元の涙を拭うと、この上なく眩しい笑顔を咲かせた。

「本当に、本当に嬉しい。ありがとう、巡。私、絶対にお母さんを見つけるから!」

 一日中どんよりと曇っていた空から、ついにポツポツと雨が降り出した。それから間もなく、雨足は激しさを増していく。

 これは困ったな、と時計に目をやると、時刻はすでに午前零時二十三分を回っていた。

 切り出すべきだろうか……。

 澪はいまだに写真を繰り返し眺めていて、現状に全く気づいていない。

「あ……あのさ、澪」

「ん?」

「今夜……泊まっていくか?」

「えっ?」

 澪の顔が瞬時に真っ赤に染まる。きこちない手つきで、髪の毛の先をいじりはじめた。

「わ、私……まだ、心の準備が……その――」

「違う――! もう夜中の零時半だし、外は大雨だから、そういう意味で言ったんだよ! まったく、親子揃ってそっくりだな!」

「う、うるさーーーーい!」


 写真を澪の端末に転送し、俺はもう一度寧々とのチャット画面を開いた。


「Aoi」:申し訳ありません。ご依頼内容の約束が未だ果たされていないため、このご依頼を終了することはできません。


「堅い」

「仕事だからね」

 パソコンを閉じようとしたその瞬間、予想外の返信が届いた。


「お名前を入力してください」:ごめんなさい、依頼を終わらせないでください。


 その一文を見た瞬間、俺は口元の笑みをどうしても抑えきれなくなった。澪に至っては、待ちきれないとばかりに俺を押し退け、自分で寧々へのメッセージを打ち込み始める。

「Aoi」:寧々ちゃん! 私だよ! 「Aoi」じゃなくて「Mio」だよ! 私と巡で、絶対絶対、約束を叶えてあげるからね!

 次に返ってきたのは、いかもしれない、寧々らしい言葉だった。

 ――澪さん、巡さん、本当にありがとうございます!

 ただ、一つだけ違うところがあった。


「白砂寧々」:澪さん、巡さん、本当にありがとうございます!

成長したね 巡も 寧々も


次のエピソードは前編と後編に分けます

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