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月の下、見えない茜色の影  作者: 柊夕
『十五年前、六十年後』〜白砂寧々編〜
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7/15

活気と希望に満ちた未来へって?

ちょっと重くなるかも

 ある日の夜、眠りの中で、リビングからかすかな物音が聞こえたような気がした。

 少し怖かったけれど、私は勇気を振り絞って、そっと部屋を抜け出した。

 音の主は父さんだった。昼間、父さんは「今日は付き合いがあるから遅くなる」と言っていた。階段を下りようとしたその時、私は思わず足を止めた。

 なぜなら。

 父さんが、泣いていたからだ。

 神主としての父さんは、いつも頼もしく、誰からも信頼され、尊敬されるような人だった。

 電気の消えた暗い家の中、唯一の光源は、窓からおぼろげに差し込む月明かりだけ。リビングにぽつんと一人で座る父さんの啜り泣きは、静まり返った家の中で、あまりにも鮮明に響いていた。

 私は父さんの背後に近づいたが、父さんは私に気づかなかった。

「あかね……あかね……」

 それは、母さんの名前だった。

 父さんはうつむき、涙を流しながら、何度も母さんの名前を愛おしそうに呟いていた。

 胸が締め付けられるように痛み、私の目にも涙がじんわりと浮かんできた。私はもう子供じゃない。「母さんは仕事が忙しくて、まだ帰れないんだ」なんて言葉で誤魔化せる年齢は、とうに過ぎている。

 幼い頃、父さんが一人で泣いているのを見ても理由が分からなかった。けれど、大きくなった今なら分かる。父さんがどれほどのものを背負ってきたのかを。

 ある年の誕生日、私は父さんにこう言ったんだ。

「私が大きくなったら、母さんを捜しに行って連れて帰ってくるよ。父さんもあいたいでしょ!」

 あの時、私の言葉を聞いた父さんは――一体、どんな顔をしていただろうか。



「へえ、そんな仕事をしてるんだ? すごいじゃん、天野くん」

「ありがとう。よかったら今川さんも見てみてよ」

 青羽神社で澪を待つ間、俺と梨衣は石のベンチに腰掛け、俺の仕事について他愛のない話をしていた。梨衣は少し考え込むような仕草を見せた後、口を開いた。

「困っている人を助ける記録写真家、か……。私でも依頼ってできる?」

「え? できることはできるけど……今はスケジュールがいっぱいなんだ」

「へえ、大人気じゃん」

「いや、俺一人でやってるからってだけだよ。……まあ、今は澪も手伝ってくれてるんだけど」

 しばらくすると、澪がこちらに向かって走ってきた。梨衣に別れを告げ、俺たちは夏小町へと向かった。

 遠くに「活気と希望に満ちた未来へ」と書かれた看板が見えてくると、俺の気分も自然と上向いてくる。寧々さんの依頼も、まさに希望に満ちた未来へと進みつつあった。

 安田さんというプロの手を借りたおかげで、舞台の修繕はほとんど単純な力仕事へと変わっていた。あのじいさん、途中で仕事を全部俺に丸投げしてきたけれど、一応指導はしてくれたわけだし、そこまで大きな问题じゃない。

 舞台の上にポツンと一人で立っている寧々に向かって、俺の後ろから澪が手を振った。

「寧々ちゃーーん!」

 舞台の上の寧々は俺たちに気づくと、小さく手を振り返してくれた。

「『Aoi』さん、澪さん。お……おはようございます。ありが……」

「ストーーップ! ありがとうは禁止!」

 澪は一歩前に踏み出すと、寧々の頬をむにゅっと抓んで言葉を遮った。

「うわぁ……寧々ちゃんのほっぺ、すっごく柔らかい」

「やめなって……泣きそうになってるから……」

「あ、ごめん!」

 軽い挨拶を済ませると、俺はすぐに作業にとりかかった。完成が目の前に迫っているという高揚感は、日に日に厳しくなる暑さを一時的に忘れさせてくれるには十分だった。

 一方、澪は寧々から出し物についての話を聞く係に回っていた。

 現在、俺と澪はそれぞれ、いつでも本番に臨めるような出し物を準備していた。澪は歌も歌えるし、ダンスも踊れる。俺の方はというと、少し変化球で、お話会のようにこれまでの記録写真家としての経験を語るというものだ。

 文字通りの「依頼を果たす」という観点だけで言えば、もうほぼ完成しているようなものだ。だが、肝心なのはそこじゃない――寧々の『約束』だ。

 この舞台が取り壊される前に、もう一度だけ演出があること。そして最後に一枚、写真を撮りたい。寧々はそんな方法で、ある約束を果たそうとしていた。けれど、その約束の具体的な中身を、寧々は俺に教えてくれていない。

 寧々の力になれないかもしれないという不安から、俺は機会を見計らって白砂さんにこっそり尋ねてみた。しかし意外なことに、白砂さんでさえ、寧々の約束が何なのかを知らないという。

「おや、この前のな兄ちゃんじゃないか」

 ハキハキとした、いかにも元気そうな中年男性が俺に声をかけてきた。

「武井さん、こんにちは!」

 やってきたのは、先日町内会で見かけた武井さんだ。彼は次期町長候補であり、噂ではすでに実質的な町长としてこの町を取り仕切っているらしい。四十歳手前という若さは、夏小町においては歴代最年少の町長ということになる。

「写真撮影だったかね? まさかそのためにわざわざ修繕までしているとは。古い建築物なんかを専門に撮っているカメラマンなのかい?」

「まあ、自分にできることがあれば、お手伝いも兼ねて、という感じですから」

「これだけ綺麗に直したんだ、きっと満足のいく写真が撮れるだろうね」

「ええ、きっと」

 武井さんの言葉はお世辞、いわゆる社交辞令というやつだ。実際のところ、この舞台はどれだけ修繕したところで、見違えるほど美しくなるわけではない。俺はただ、これが崩壊しないように補強しているだけに過ぎないのだから。

「時に、撮影はいつ頃を予定しているんだい?」

「今日中には修繕が終わるので、おそらく今夜になると思います」

 武井さんは小さく頷くと、にやりと笑って俺の肩をぽんと叩いた。

「我々夏小町にとっても、君が直してくれたこの舞台は、記念すべき場所になるよ」

「え?」

 武井さんはそれ以上何も語らず、含みを持たせた笑みを浮かべたまま、その場を去っていった。

 正午近くになると、もはや気合いだけで乗り切れるような暑さではなくなっていた。俺は素直に工具を片付け、まずは木陰で一休みすることにした。休憩の度にこの木陰で涼ませてもらっているので、この大木はもう俺の相棒だ。

「澪と寧々、どうしてるかな。そういえば、どこに行くかも言わずに出ていっちゃったし」

 スマホを開き、いつものようにメッセージをチェックする。


『名前を入力してください』:舞台に、立ちたいです。


「寧々……?」

 いやいや、さすがに現実的じゃないだろう。観客の数なんて考慮に入れないとしても、俺と澪、白砂さん、安田さんの数人に見られるだけでも、今の寧々には無理なはずだ。

 だとしたら、観客の数を徹底的に絞るしかない。白砂さんと安田さんだけに見てもらう。俺と澪は、興味本位で近づいてくる町の人たちを遠ざける役に徹するんだ――。

 ――そこで俺はハッと気づき、慌てて自分の両頬をパチンと叩いて思考を遮断した。

 寧々がこの言葉を口にするのに、どれほどの勇気を振り絞ったか、自分がよく分かっているはずじゃないか。今考えるべきなのは、実現可能性なんかじゃない。そう、今の俺がすべきなのは――。

 俺は寧々のメッセージに返信を打った。


『Aoi』:分かりました。安心してください、俺と澪で、絶対に叶えてみせますから。


 すぐさま立ち上がって白砂さんの家に向かおうとした途中、一人で戻ってきた澪とばったり出くわした。

「寧々ちゃんに、少しだけ時間をあげて。あの子、本当に一生懸命頑張ってるから」

「分かった」

 昼、俺は澪を連れて外で昼食を済ませ、軽く休んでから再び夏小町へと戻った。午後はうだるような暑さだったが、成功が目の前に迫っているという事実が、俺の足を動かし続けさせた。

 澪は黙って俺の隣に寄り添い、最後の仕上げとなる修繕を一緒に手伝ってくれた。全身汗だくになりながらも健気に動く澪の姿を見て、俺の胸の奥になんだか名付けようのない感情が込み上げてくる。

「……ありがとう、澪」

「じゃあ、帰り道は、お姫様抱っこをお願いしちゃおうかな?」

「……人がいない場所なら」

 澪は信じられないといった様子で、目を丸くして俺を見た。

「えっ? オッケーってこと?」

「澪にはこんなことをする義務なんてないのに、この猛暑の中で力仕事をさせてしまって、申し訳ないと思ってるからさ。それに……紫外線って、女の子の敵だって言うだろ。俺としても、君に無理はさせたくないんだ」

「……バーカー!」

 夕暮れ時、最後の一枚の木板がしっかりと固定されているのを確認した俺は、両手を高く突き上げて歓声をあげた。

「かーーん、せーーいっ!」

「いぇーーい!」

 澪も俺の真似をして両手を大きくあげる。大はしゃぎする俺たちの姿を見ていた寧々も、おずおずと、ゆっくりと両手をあげると、必死に声を絞り出した。

「い、いぇ……いぇーーい!」

 六月二十一日。十五日間に及ぶ無休の作業を経て、ついに取り壊し予定日の四日前に舞台の修缮が完了した。そして今日、俺たちはこの半ヶ月間、朝夕を共にしてきた中で、寧々の一番大きな声を耳にすることができたのだ。

「本当に……ありがとうございます。私のために、本当に舞台を……直してくれて」

 澪はすかさず駆け寄り、微かに震える寧々の身体を優しく抱きしめた。

「泣かないで、寧々ちゃん! 私たちも寧々ちゃんの手助けができて本当に嬉しいんだから! それにこれは巡の仕事でもあるし……ね、泣かないで」

 寧々は涙を拭うと、初めて自分から俺たちの目を真っ直ぐに見つめ、愛らしい笑みを浮かべた。

「これからは、私のするべきことです。おばあちゃんとの約束を、果たします。ありがとう、澪さん。ありがとう、Ao……巡さん」

「どういたしまして。さあ、写真を撮ろう」

 俺たち三人は、自分たちの手で修繕した舞台の前で写真を撮った。寧々は少しカメラを怖がって、澪の背後に半分隠れるようにして体の一部だけを覗かせていた。

 ――でも、それこそが、寧々らしかった。



 せっかくの休日。急に暇ができると、かえって何をすればいいのか分からなくなる。

 いつも通りに朝寝坊をして、いつも通りに出かけて日用品を買う。部屋の掃除でもしようかと思ったけれど、特に片付けるような場所もない。

 ベッドに横たわり、天井をじっと見つめる。時間を潰そうにも、その効率は異常なほど悪かった。やることがない時ほど、人間の脳は余計なことばかり考えてしまうものだ。

 俺は机の前に座り、引き出しから出会った日に澪がくれた封筒を取り出した。中には、あの可愛らしい写真と、彼女の連絡先が書かれた便箋が入っている。

「……何やってんだろ。依頼を確認しようと思ったじゃないか」

 写真と便箋を丁寧にしまい直し、ノートパソコンを開いた。寧々からのメッセージはまだない。きっと、まだ準備中なのだろう。

 念のため、坂井先生の依頼場所が『長河町』であることを再確認する。

 姉貴から送られてきた地図と照らし合わせながら、長河町の大体の位置を把握する。実際にどうやって向かうかは、その時に残された时间を見て決めることにしよう。

「寧々の依頼が終われば、俺は陽原町を離れる。ということは……澪とも、お別れになるのか……」

 ――澪の約束、俺が叶えるのを手伝うよ

 あの夜、俺は澪にそんな言葉を口にした。

「……衝動の代償、か」

 気がつけば頭の中が澪のことばっかり考えている。俺は諦めたようにパソコンを閉じると、気分転換を兼ねて神田さんのところへと向かった。何かお手伝いできることはないかと思ったからだ。

 こうして、久しぶりの休日は、ひたすらに怠惰なまま過ぎ去っていった。

 翌日は自然に目が覚めた。窓の外はどんよりとした曇り空で、近いうちに一雨来そうな気配がしている。

 起きて朝食を済ませ、コップに水を一杯注ぐ。寧々に出し物が決まったかどうか、メッセージを送ってみようと思った。

 パソコンを立ち上げると、チャット画面には意外にも寧々の方からメッセージが届いていた。

 きっと、心の準備ができたのだろう。俺はコップを口元へ運びながら、はやる心を抑えてメッセージをクリックした。

「…………」

 コップを持った手が、空中で凍りついた。

 俺は目を見開いた。一瞬にして思考が真っ白に染まっていく。

 これは……? 見間違い、か……? 寧々じゃない、のか?

 液晶画面には、短く、そしてあまりにも冷徹な一言だけが浮かんでいた。


『名前を入力してください』:ご依頼は終了いたしました。お疲れ様でした。本当にありがとうございました。


 表示された履歴は、無機質に現実を突きつけていた。これは、紛れもなく寧々だ。

 なんて返せばいい。何を言えばいい。

 指をキーボードに乗せたまま、俺はただの一文字も打ち込むことができなかった。

 絶対に、何かが起きた。俺たちが顔を合わせなかったこの一日半の間に、一体何があったというんだ。

 俺は鍵を掴み取ると部屋を飛び出し、夏小町を目指して全速力で駆け出した。

 どういうわけか、今日の夏小町はいつもより明らかに人通りが多かった。しかも、誰も彼もが舞台のある方向へと歩いている。

 本来なら白砂さんの家へ向かうつもりだったが、俺は足を反転させ、人の波の行く先へと向かった。

 远目からでも、舞台の前に町の人々が群がっているのが分かった。まさか、寧々がそこで出し物を披露しているのだろうか。少しでも自分を安心させたくて、そんな都合のいい淡い期待を抱く。

 スピーカーから、聞き覚えのある声が響いてきた。

「――つい先日のことです。町外から来られたあるカメラマンの方が、わざわざこの場所を修繕し、素晴らしい写真を収めてくれました」

 次期町長候補、武井さんの声だった。

「私も深く胸を打たれました。ですから! この古い舞台を、我が夏小町が輝かしい未来へ歩み出すための『第一歩』とすることに決めたのです!」

 町民たちが一斉に拍手を湧き起こした。

 一体、何が起きているんだ。

 わけが分からないまま、俺はふらふらと前へ進んだ。武井さんの演説はまだ続いている。人混みをかき分けた先で、巨大な横断幕が俺の視界に飛び込んできた。


『祝・夏小町再開発事業 第一段階始動!』


「きっと、あのカメラマンくんも、自分が直して記念に写真を撮った古い舞台が、我が町の歴史的な改修工事の第一歩になったと知れば、さぞかし喜んでくれることでしょう! 後ほど彼に連絡を入れ、この朗報を伝えるつもりです!」

 ……。

 …………。

 耳鳴りがした。

 耳の奥で、不快な雑音が絶え間なく鳴り響いている。

 俺は何度も何度も瞬きを繰り返した。目の前にある光景が、酷い錯覚なのか現実なのかを確かめるために。

 舞台が。

 寧々、安田さん、それに俺と澪が直した、あの舞台が。

 寧々の依頼であり、寧々の約束の場所だったそこが――。


 ――消えていた。


 足元がふらつき、隣にいた人にぶつかってしまう。

「……大丈夫か、兄ちゃん」

「あ……す、すみません。ごめんなさい……」

 俺は謝罪を口にしながら、狂ったように後ずさりした。まるで、途方もなく悍ましい怪物に追われているかのように、その場から逃げ出した。

 五感が急速に混濁していく。方向感覚さえも、ひどく曖昧なフィルターに覆われたように狂っていった。

 白砂さんの家には誰もいなかった。白砂さんはまだ仕事から戻っておらず、寧々の姿もどこにもない。

 俺は安田さんの修理屋へ走ったが、やはりそこにあったのは、固く閉ざされたシャッターだった。

 門前で呆然と立ち尽くしていると、通りかかった近所のおばさんが心配そうに声をかけてくれた。

「ありがとうございます、俺は大丈夫です。……あの、安田さんがどこに行ったか、ご存じないですか?」

「安田さんかい? ――昨日、倒れちゃってねえ」

「えっ――!?」

「あのじいさんももう高齢だからね。確か去年も一度、倒れて入院したことがあったのよ」

 俺は頭を強く押さえた。そのおばさんにまともにお礼を言えたのかすら記憶にない。ただ衝動に突き動かされるように、再び両足に力を込めて走り出した。


『活気と希望に満ちた未来へ』


 その看板の下を通り過ぎていくのは、無様に、ただひたすらに逃げ出す俺の姿だった。

 どれほど走り続けたか分からない。疲れ果てて、そこからどれほど歩いたかも。

 俺は道端のベンチに、崩れ落ちるように腰掛けした。

 思考が完全にフリーズし、脳内は真っ白に染まっている。俺はただ、焦点の合わない目で、目の前を行き交う車や人波を眺めていた。

 俺は眼鏡を外し、そっと横に置いた。

 ――やっぱり、何も見えない。

 けれど、今の俺にはそれが妙にしっくりときた。何も見えないということは、自分だけが世界の境界から外れ、別の場所に身を隠しているような錯覚を覚える。不思議なほどの安堵感が、胸の奥に広がっていった。

 そうして一人、どれほどの時間をベンチで過ごしただろう。いくらか冷静さを取り戻した頭で、現実を整理する。

 舞台は取り壊された。予定よりも三日早く。

 誰もそれを止めず、町の人々は舞台の下で拍手を送っていた。

「失敗したんだな、俺は……」

 これからどうすればいいのか、皆目見当もつかない。今の俺には、もう寧々に合わせる顔なんてなかった。

 そうだ。あんなふうにのんびり過ごしている場合じゃなかった。俺は夏小町に住んでいるわけじゃない。何か起きても、すぐに気づける立場じゃなかったんだ。

 そのくらい、考えておくべきだった。

 スマートフォンの画面を見ると、三件の着信履歴が残っていた。すべて澪からだった。

 俺は彼女に折り返すことはせず、少しだけ躊躇ってから、別の番号へと発信した。この旅に出てからというもの、この番号を発信に用いたのは片手で数えるほどしかない。

 コール音が途切れ、繋がった瞬間、俺の唇は微かに動いた。けれど、最初の一文字がどうしても喉に引っかかって出てこない。

『どうしたの? お姉ちゃんが恋しくなっちゃった?』

「……姉貴。俺、やらかした」

『じゃあ、諦めるの?』

「諦めるわけには、いけないんだ」

 姉貴は受話器の向こうで少しの間を置き、静かに告げた。

『巡。私が聞いてるのは――あなたが諦めるか、どうかよ』

「俺は……」

 かつて、母さんが教えてくれた言葉が脳裏をよぎる。

 ――誰かの依頼を引き受けると決めたなら、最後の瞬間まで決して諦めてはならない。

 見ず知らずの私たちに助けを求めたということは、彼らが勇気を振り絞り、自らの脆さや無力さ、そして一筋の希望のすべてを俺たちに委ねてくれたということだから。

 その想いに真っ正面から応えることこそが、『記録写真家』の果たすべき責務。

 それは母さんの信条であり、母さんの跡を継いで旅に出て以来、俺が片時も忘れず胸に刻んできた絶対のルールだった。

「……俺は、諦めない」

『どうして? また私たちの『信条』だから?』

「うん」

 瞬間、寧々の姿が鮮明に脳裏へ浮かび上がった。

 小さくて、どこか放っておけない少女。誰かに話しかけられれば、信じられないほどの速度で逃げ出してしまう。他人の言葉を拒絶できず、何を言われても従順に従ってしまう――そんな、見落とされてしまいそうなほど大人しい女の子が。

 最後の瞬間が訪れる前に、おばあちゃんとの約束を叶えようと、あんなにも必死になっていたんだ。

 俺は深く息を吐き出し、言葉を紡いだ。

「それが、今の俺がすべきことだ。……でも、俺は寧々の約束を一緒に叶えたい。あの子は頑張ったんだ。必死に頑張った。ここで諦めたら、彼女の努力に顔向けできない。俺は……まだ、諦めたくないんだ」

『ふふっ……可愛い弟のお願いなら、お姉ちゃんも放っておかいないわね』

 空は朝と変わらず、どんよりとした歪な曇り空のままだった。けれど、まだ雨が降る気配はない。

 俺は眼鏡をかけ直し、再びこの世界を視界に捉える。どこから話すべきか、数秒の思考を巡らせた後。

 俺は姉貴に向かって、今起きている状況を、一つずつ説明し始めた。

これから情報量アップするぞ

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