特別になってるって、わかるでしょ?
エピソードタイトルを言った人は誰だ?
夢を見た。
嵐の夜、一人で泣きじゃくる澪の夢だ。
でも、どうしても何かが違うような、どこか違和感を拭いきれない。あの女の子は、本当に澪……だったのだろうか。
夢から覚め、俺はしばらくの間、ベッドの上でぼんやりと過ごした。
「やっぱり、あの夜のことが夢に出ちゃったか。あんな状態の澪を見ちまったら、夢に見ない方が無理って話だけどな……」
澪がどう思っているのかは分からないが、俺はずっとあの夜の出来事を避けていた。まるで何もなかったかのように振る舞ってきた。あの夜の澪は酷く脆く、それゆえに普段とはまったく違う様子だった。つまりは『非常事態』だ。
ただ寄り添うだけで、何もしない。後になってその件を蒸し返すこともしない。弱みに付け込むような真似をしないことこそが、正しい選択のはずだ。
ベッドから這い出し、簡単な朝食を済ませると、夕に水とキャットフードを用意して、俺は今日の仕事のためにバッグを担いだ。
「夕、行ってくるな」
「ニャー……」
青羽神社の前に差し掛かると、澪がすでにそこで待っていた。
「おはよう」
「おはよう。ちゃんと朝ご飯食べた?」
「食べたよ、安心しろって」
澪が慣れた手つきでバイクのタンデムシートに腰掛け、俺たちは夏小町へと向けて出発した。朝の光を浴びながらバイクを疾走させる。向かい風が心地よく肌を撫修していった。
「澪、出し物について何かいい案は浮かんだか?」
澪は小さくため息をつくと、俺の背中をポンと軽く叩いた。
「寧々さんがあれほど大切にしている舞台なんだから、たとえ彼女から指定がなかったとしても、こっちが適当に準備するわけにはいかないでしょ。そんな打算的で現実的なことばっかり言ってないで、もう少し寄り添ってあげてよ、巡!」
「……俺だって適当に準備するつもりはないさ」
「口ではそう言ってたけど?」
「コホン。まあ、言葉の綾っていうかさ。でも、色々と考慮しなきゃいけないのは事実だろ。寧々さんの気持ちを考えたら、ふざけたものや、お笑い系の軽い出し物にするわけにはいかないし」
「巡、出し物については、どこかのタイミングで直接寧々さんの意向を聞いてみた方がいいと思うな」
確かにそうだ。俺は依頼の完遂を第一に考えていたため、舞台の修繕や演出の準備が、自ずと最優先事項になっていた。打算的とまでは言わなくとも、現実的すぎたのは否めない。
夏小町の入り口には、すでに新しい看板が設置されていた。そこにはこう書かれている。
『活気と希望に満ちた未来へ』
俺たちはその新しい看板の下を通り抜け、白砂家へと向かった。時間を無駄にしたくなかったため、正式に依頼が始まってから、俺は毎日ここに通って作業を続けている。澪が休んだのもたったの二日だけだ。その甲斐あって、依頼が順調に進んでいるだけでなく、何よりも嬉しいことに、寧々との関係が劇的な進展を遂げていた。
なんと——今の寧々は、俺たちの姿を突如見かけると、条件反射で二十メートルほど逃げ出すものの、その後は自分で大人しく引き返してくるようになったのだ!
白砂さんに挨拶を済ませ、いつものようにバイクを白砂家に停めさせてもらうと、道具を抱えて舞台へと向かう。今日は観客エリアを整備する最後の日だ。
雑草、ゴミ、石ころの除去はすでに終わっている。今日はできる限り土地を平らにならし、あとは不要になった布切れなどを敷き詰めれば、他の場所とは一線を画すエリアを作り出せるはずだ。
寧々はすでに作業を始めていた。俺と澪は、いつものようにかなり離れた場所で足を止める。
「『お名前を入力してください』さーん、来ましたよ!」
「寧々さんー、そっちに行っても大丈夫?」
寧々もまた、いつものようにその場にペタンと尻餅をつき、怯えたような視線を俺たちに向けてきた。なんというか……申し訳ない。俺たちが寧々を呼ぶたびに、白砂家の洗濯物が一枚増えている気がする。
「あ、『Aoi』さん、青羽さん、お、おは……おはようございます。そ、その、本当にありがとうございます!」
「だから、毎日お礼を言う必要は無いって。これは俺の仕事なんだから。計画通りにいけば、今日で観客エリアは完全に完成するよ。土地を平らにならした後は、町民の人たちからいらなくなった布を分けてもらって敷くだけだから」
「そうそう、お礼なんていいんだよ、寧々さん! 一緒に頑張ろうね!」
作業中、寧々に気を遣って、俺と澪も滅多に口を利かなかった。正午を迎える前には、あの荒涼としていた場所に、およそ十五人ほどを収容できる平らな土地が出来上がっていた。
澪と寧々が木陰で休む中、俺はこれからの作業に思考を巡らせていた。
これなら、午後から何か敷き詰めるだけで、観客エリアの土台は解決する。視線を舞台へと移す。あそこが一番の肝だ。俺の最初の見立てでは、床板をすべて張り替える必要がある。しかし、それでは作業量も時間も頭の痛いことになる。
だが、細かく観察していくうちに、ある修缮の跡に気づいた。簡単な応急処置に過ぎないものの、そのおかげでこの舞台は何とか形を保ち続けている。
「待てよ……実は、舞台の全範囲を使う必要なんてないんじゃないか? 出し物が歌や朗読劇なら、実際には一人が立つスペースさえあれば十分だろ?」
他の部分は何かで目隠しでもしておけば、全体的な見栄えも悪くないはずだ。これなら、作業量も時間的コストも、ぐっと現実的な範囲に収まる。
「巡——!」
澪が手を振って俺を呼んでいる。白砂さんが来てくれたようだ。どうやら昼食の時間らしい。こうして依頼人の家で食事をご馳走になったり、居候させてもらったりすることにはとっくに慣れているが、今回の依頼は毎回全身泥だらけになるため、少し申し訳ない気持ちになる。
「今行く——!」
最後に舞台と、俺たちが整えた観客エリアを一瞥し、俺は彼女たちの元へと歩き出した。
昼食後、澪と寧々が昼寝をしている時間を利用して、俺は白砂さんに勧められた、夏小町一の修理屋を訪ねることにした。
「ごめんください!」
「入りな!」
太く、どこか聞き覚えのある声。修理屋の中に一歩足を踏み入れると、体格の良い頑固そうなお爺さんが、上半身裸のまま椅子に寝そべっていた。
「安田さん!?」
「おや、葵ちゃんじゃねぇか!」
「違います。俺は葵ちゃんじゃなくて、『Aoi』です」
「ん? お前、巡じゃねぇのか?」
この爺さん……わざと言ってやがったな。年長者のからかいに対し、俺は大人しく応じるしかなかった。
「……はい、天野巡です」
「何の用だ?」
「修理道具を借りたいんです。それと、もし使っていない木材や床板があれば、それも一緒に分けていただけないかと。もちろん、安田さんが指導してくださるならそれが一番ありがたいです。白砂さんが、夏小町で一番の職人だって教えてくれたので」
「お前と寧々、それにもう一人の嬢ちゃんで、あのボロ舞台を弄くり回して何をする気だ? そんな物を要求して、一体何を企んでやがる」
安田さんの修理屋は狭く、密閉されており、様々な工具や資材が混ざり合って金属特有の臭いが漂っていた。午後の最も暑い時間帯、俺は頬を伝う汗を拭いながら答えた。
「あの舞台を修繕しようと思っています」
「やめときな、意味がねぇ。あと十一日で解体されるんだぞ。なぜそんなことをする?」
「寧々さんの依頼を果たすためです」
安田さんは団扇を動かす手を止め、目を開けて上体を起こした。
「寧々は何を依頼したんだ?」
「ただ、舞台の写真を一枚撮ることです」
「なら、今すぐ行って撮ってくりゃいいじゃねぇか」
「駄目なんです。写真はただの写真じゃありません。そこには寧々さんの想いが詰まっているんです。俺の仕事は、依頼人の想いをそんな風に蔑ろにするのを許しちゃくれません」
安田さんは鼻で笑うと、再び目を閉じて横になり、これ以上相手をするつもりはないという態度を示した。だが、俺も立ち去りはしなかった。舞台を修繕するためには、安田さんの協力が不可欠だからだ。
しばしの間、室内にはオヤジが団扇を仰ぐ音と、外の虫の鳴き声だけが響いていた。
不意に、俺の背後から声が聞こえた。
「安田おじいちゃん、お願い。これは私の……私の考え」
振り返ると、そこには寧々が立っていた。
安田さんが目を開けた。それが寧々だと気づくと、彼は深みのある視線を外へと向け、しばらくして俺を見つめながら、ぽつり、と呟いた。
「そうか……もう十五年も経っちまったか……。約束通り、戻ってきたってわけか」
「え?」
「小僧、お前が欲しい物は全部ここにある。だが、午後は駄目だ。暑すぎる。お前が耐えられても、寧々ともう一人の嬢ちゃんが持たねぇ。日が沈んだら、またここへ俺を訪ねてきな」
「ほ、本当ですか!?」
てっきり協力する気はないものだと思っていただけに、まさか引き受けてくれるとは! 俺は相手が前言撤回するのを恐れるかのように、何度も頭を下げてお礼を言った。
すでに戸口の近くまで歩いていた時、あることを思い出した。俺は寧々に少し待っているように言うと、急いで安田のオヤジの元へと引き返した。
「安田さん、もう一つ。母さんと連絡を取ったんですが、母さん、安田さんのことをはっきりと覚えていましたよ。それで、伝言を預かってきました。『直接会いに行けなくてごめんなさい。代わりに巡に見届けてもらうから。安田さん、体に気をつけてね』って」
安田さんは椅子に横たわったまま、満足そうな笑みを浮かべた。その言葉の本当の意味を尋ねようとしたが、すぐに鬱陶しそうに追い出されてしまった。
帰り道、俺はどうしても安田さんの言葉を頭の中で反芻していた。「もう十五年も経っちまったか」という言葉の意味は、十五年前の母さんと安田さんにまつわることだろう。つまり、十五年前、母さんもまたこの土地を歩いていたということか。
そう考えると、この場所に少しだけ親近感が湧いてきた。けれど、母さんは俺に何を「见届けさせよう」というのだろうか。
姉貴に聞いても教えてくれなかった。なんだかんだで俺が一番身体を張っているのに、何も知らないのはどういうことだ。まあ、この手の仕事は大体こんなものかもしれないが。
「俺の後を追ってきたのか?」
寧々はコクンと頷いた。
「役割分担……」
「あ、そうだな、役割分担だ。俺一人だったら、安田さんもきっと断るだろうしな」
白砂家に戻り、頭の中で現状と次の計画を整理しながら、白砂さんが用意してくれた客間へと向かった。
「大体こんなところか……」
考え事をしながら、引き戸を開けた。
澪がヘアゴムを口に咥え、髪をまとめようとしていたところだった。ドアの開く音に気づき、彼女の視線がこちらを向く。俺も室内に視線を走らせ——そして、その場で完全に硬直した。
室内の少女は、下着姿だった。
「……」
俺は無言で引き戸を閉めた。
い、今のは……。あれは澪か? それとも寧々か?
俺はもう一度、引き戸を開けた。
澪はまだ髪を結ぶ姿勢のままだったが、口に咥えていたヘアゴムは床に落ちていた。真っ赤に染まったその顔には、信じられないと言わんばかりの表情が浮かんでいる。
俺は再び、静かに引き戸を閉めた。
あぁ、澪だった。そうだよな、寧々は今さっき俺と一緒に戻ってきたばかりなんだから、寧々のはずがない。
……いや、待て。なぜ澪が白砂家で着替えているんだ? なら、あれが澪じゃないとしたら、一体誰だ?
俺は三度、引き戸を開けた。
よし、やっぱり澪だ。
「え…と……太っ、た?」
「出てっいけーーー!!」
俺の顔面を目がけて飛んできた枕に続いて、バタン! という凄まじい勢いでドアが閉まる音が響いた。寧々が自分の部屋から小さな頭を覗かせて俺を見ていたが、目が合うと大慌てで引っ込んでしまった。
「これは、かなりマズいな……」
それから午後いっぱいの間、俺は澪と寧々の二人から完全に無視され続けた。帰宅して異変を察知した白砂さんは、ただ微笑むだけで何も言わなかった。
夕日が長く伸び、そろそろ安田さんのところへ行く時間になった。澪は俺から最も離れた席で、お茶をすすっている。
「あの、澪……ごめん。俺何も考えていない」
俺の話を聞いて、なぜか澪はますます機嫌を損ねたようだった。
「見たの?」
「……」
「どこまで見た?」
俺はガタガタと震える手で目の前の湯呑みを持ち上げ、水を飲もうとしたが、口に流れ込んできたのはほんの数滴だけだった。とっくに飲み干していたのだ。
よし、ここは正直に話して、自分にやましい気持ちがないことを証明しよう。
「正直、どこを見ていいか分からなくて、だからわざわざ三回もドアを開け……ゴホゴホゴホッ! なんでもない。安田さんのところへ行こう、仕事の時間だ」
澪は何も言わず、立ち上がって外へ出て行った。俺は手を伸ばして何か言おうとしたが、結局言葉にならなかった。
「はぁ。巡くん、こういう時に仕事の話を持ち出すなんて」
「うわっ、白砂さん!? いたんですか?」
「こんな肝心な時に、そろそろ仕事だなんて言っちゃダメじゃない、巡くん。まだまだ青いわね」
俺が寧々の方を向くと、寧々はぷいっと顔を背け、瞬く間に家から飛び出して行ってしまった。
「この、かつて味わったことのない敗北感は……一体何なんだ……」
当初の予定では三人で行くはずだったが、結局俺一人で向かう羽目になった。安田さんから寧々と澪はどうしたと聞かれ、俺は苦笑いしながら沈黙するしかなかった。
ヘルメットを被り、ヘッドランプを点けて、俺と安田さんは舞台へと向かった。道中、俺は安田さんに自分の考えや計画を詳細に話し、その大部分で肯定を得ることができた。
「床板だけじゃねぇ、左から三番目の柱も補強しな。先日の台風のダメージで、もう限界がきてる。それから東南の角だ、あそこはもう人が立てる状態じゃねぇ。お前の考えは正しい。全面修繕なんて無理だ、必要なエリアだけを補修すればそれで十分だ」
「え?」
俺の知る限り、安田さんは舞台に足を運んでいないはずなのに、まるでその場を見ているかのように熟知していた。俺は、舞台に残されていたあの修繕の跡を思い出す。
「まさか……あの修繕の跡って、安田さんがやったんですか?」
安田さんはフッと鼻を鳴らしただけで、答えなかった。
舞台に近づくと、そこにはすでに澪と寧々の姿があった。俺と目が合った瞬間、澪はわざとらしく顔を背けた。
「嬢ちゃんたちは下がってな。小僧、お前は俺に付いてきな」
「はい」
安田さんは俺を連れて、修繕が必須となる場所を完璧にマーキングしていった。ついでに、危険な床板をその場で叩き壊して取り除いていく。安田さんはかなりの高齢に見えるが、その腕前はやはり非凡だった。体力に自信のある俺でさえ、安田さんの作業スピードに追いつけないほどだ。
「あの、安田さん、私と寧々さんにも何か手伝わせてください」
「なら、俺が持ってきた毛布を観客エリアに敷き詰めな。バッグの中に懐中電灯が入ってる、気をつけろよ」
夏小町の夜は、暗闇と静寂に包まれている。大都市の不夜城のような煌びやかさはなく、夏小町には数本の街灯があるきりだ。
俺と安田さんは、危険な床板を少しずつすべて取り外し、まだ支えになる僅かな部分だけを残した。これからの作業は、新しい資材でこの空洞を補修していくことになる。
四人での共同作業ということもあり、夜間であるにもかかわらず、効率は大幅に上がった。
作業を終え、俺たちは寧々と安田さんに別れを告げ、帰路についた。
隣を歩く澪は、一言も発しなかった。……嫌われちゃったかな。
「澪、何か食べたいものある? 何でもいいよ、俺が奢るから」
「いらない」
「じゃあ、帰りは運転する? 夜風が気持ちいいよ」
「嫌。あんたに腰を抱きつかれたくない」
完全に嫌われている。これは猛省するしかない。不可抗力とはいえ、見てはならない姿を見てしまったのだ。澪が怒るのも当然で、俺はまともに謝りもしなかった。
俺は澪の前に回り込み、二人の歩みを一度止めた。
「ごめん、澪。本当に酷いことをしたと思うし、ちゃんと謝れてなかった。澪は自分の時間を割いてまで俺の手伝いをしてくれているのに、俺ってやつは……。でも、信じてほしい。俺……わざとじゃなかったんだ」
「三回もドアを開けたのに?」
「そ、それは……」
俺が言葉に詰まると、澪はそれ以上追及してこなかった。
「私……あんな形で、あんたに見られたくない」
「あんな形?」
「……ただのラッキーで、おまけに何も考えてないような状態」
澪が一歩前に踏み出し、俺を見上げるように視線を走らせた。俺たちの距離は、あの日の早朝と同じくらいにまで急接近する。
「巡。私ね、寧々さんと同じように、どうしても果たさなきゃいけない約束があるの」
その言い方だと、まさか澪も俺に依頼を持ちかけようとしているのだろうか。だが、俺にはこの後、坂井先生の依頼が控えている。寧々の依頼を終えたら、俺は陽原町を去らなければならない。
けれどこの瞬間、澪の瞳には本当に何らかの魔法が宿っているかのように美しく、どうしようもなく惹きつけられた。
「分かった。澪の依頼、俺が引き受けるよ」
「これが依頼なんて言ってないよ?」
「じゃあ——澪の約束、俺が叶えるのを手伝うよ」
まるで子供の意地の張り合いのように、俺は衝動に任せてその台詞を口にしていた。
澪が、クスリと笑った。
元々近かった顔を、澪はさらに近づけてくる。俺は彼女の美しい瞳に見惚れ、身体を動かすことすらできなかった。
少しずつ、少しずつ。今にも互いの唇が触れ合ってしまいそうな、その寸前で、澪は俺の胸をポンと突き放した。
「キスされると期待したでしょ——?」
「……思ってない!」
「嘘つき!」
澪は楽しそうに笑いながら、いつもの余裕たっぷりな調子を取り戻した。ただ、彼女は気づいていない。月明かりに照らされたその頬が、ほんのりと赤く染まっているのが、今の俺にははっきりと見えているということに。
俺なら絶対キスした(2回目)




