安心して、あなたたちは同じ方向に向かっている
「澪、俺は……お前のことが好きだ!」
「え? ちょっと待って……急にそんな……」
言いかける私の言葉を遮るように、巡が手で私の顔を持ち上げた。今、唯一感じられるのは、だんだんと近づいてくる彼の息遣いだけ。
待って……急にこんなの……私……
頭の中が真っ白になりながら、私はゆっくりと目を閉じた。
心臓の音がうるさい。巡の息遣いが、すごく近い。
私は――
「うわあああ――っ!」
ここは私の部屋。目を開けると、壁に掛けられた時計のチクタクという音だけが聞こえていた。
「九時二十六分……夢? 夢だったんだぁ――! 私、一体何の夢を見てるのよぉ――っ!」
誰かから隠れるように枕に顔を埋め、両足をバタバタとベッドに叩きつける。
やっぱりあの夜のせいだ!
もう――巡の、大バカっ!
あれから丸一日半が経った。その間、私と巡は一度も会っていないし、一度も連絡を取り合っていない。
もともとキスするつもりなんてなくて、いつものようにちょっとからかってやろうと思っただけなのに。なのにどうしてだろう、巡の顔を見て、巡の目を見つめているうちに、頭の中がどんどん混乱していって……。
巡だってそう! 普段はあんなに大アホなのに、どうしてあの夜であんな格好いいセリフを言って、本当にその気に……。
ああ――、顔が熱っ!
どうやら今日も彼に連絡はできそうにないし、大人しく家にいよう。後でお父さんに、今日何か手伝える仕事がないか聞いてみよう。
簡単に朝食を済ませ、服を着替えて神社へと向かう。
今日はいい天気だ。どこまでも広がる青空と、わたあめみたいにふわふわとした白い雲。
「澪? どうしたんだ……」
澪は人差し指で俺の唇を押さえ、俺の言葉を遮った。彼女の頬はほんのりと赤らんでいて、その吸い込まれそうなほど美しい瞳は、何かを俺に伝えようとしているかのようだった。
澪は手を引っ込めると、さっき俺の唇に触れたばかりの指を、自分の唇にそっと重ねた。その光景を目にして、俺の顔も無意識のうちに熱くなっていく。
「巡……」
澪は優しく、どこか儚げな声で俺の名前をそっと呼んだ。そして、目を閉じて俺へと近づいてくる。俺も目を閉じ、この後に起こるであろう出来事を受け入れる心の準備をした。
想像していた感触は訪れなかった。不思議に思って目を開けると、目の前にはもう誰もいなかった。
「え? 澪? おい、澪? どこにいるんだ?」
世界は静寂に包まれ、俺一人だけが取り残されていた。
「あ――っ!」
ここは俺の部屋。目を開けると、夕が俺の叫び声に驚いて不満そうな声を漏らしていた。
「九時三十分……寝過ごした。ってことは、あれは夢? えぇ?」
俺は信じられないといった様子で自分の頭を抱え、何度も心の中で念じ始めた。
「ダメだ、ダメだ。こんな夢見ちゃダメだ、こんな夢見ちゃダメだ……」
やっぱりあの夜のせいだ!
まったくもう――あんな状況で顔を赤くしながら儚げに『ダメ……』なんて言われたら、俺にどうしろって言うんだよ!
あれから丸一日半が経った。その間、澪がいつものように俺のところに遊びに来ることはなかった。何度も携帯を手に取ったものの、どうしてもかけることはできなかった。
普段はあんなにからかってくるくせに、よりによってあの瞬間に照れる女の子みたいな顔をするなんて。そんな姿を見せられたら、少しは衝動的になるのも普通だろ? な? 普通だよな? しかも、俺は最終的にはちゃんと冷静になったんだし!
どうやら今日も彼女への連絡は控えて、大人しく家にいた方がよさそうだ。あと二日半で離れになるっていうのに、この最後に一緒にいられる時間を……。
それにしても姉貴め、よくもまあ俺の電話をこうも無視してくれたな。
今日はいい天気だ。どこまでも広がる青空と、旅人のように風に吹かれて流れる雲。
神社境内の落ち葉を掃いたり、社務所に何か手伝えることがないか顔を出したり、梨衣と他愛のないおしゃべりをしたり……そんな、それなりに悪くないのんびりとした生活が、寧々の依頼が終わった途端、急につまらなく感じられた。やっぱり依頼というのは面白いし、やりがいもある。
こういう時にふと気づかされる。普段なら、いつも彼のところに遊びに行っていたな、と。どうやら私は、巡が隣にいることにすっかり慣れてしまっていたらしい。
私はかつてお父さんに告げた。「いつか必ず、お母さんを連れて帰る」と。
そう、いつか私はお母さんを探す旅に出る。お父さんは……きっと反対するだろうな。娘を一人で、目的地も期間も分からない旅に出すなんて。
ピピピッ、と電話の着信音が鳴り響いた。巡からかな? 私は慌ててスマートフォンを取り出したが、画面に表示されていたのは寧々からの着信だった。
「寧々ちゃん? どうしたの?」
寧々は息を切らしており、その声はひどく焦っていた。
「え? 白砂さんが?! 分かった。寧々ちゃん、まずは落ち着いて、今すぐそこに向かうから!」
通話を切り、私は急いで家に走り込んでバイクの鍵を掴んだ。
白砂さんが突然倒れてしまい、寧々は一人でどうしていいか分からず、私に助けを求めて電話をかけてきたのだ。今、彼女たちはちょうど陽原町で買い物をしていたらしく、幸いにも距離はそれほど遠くなかった。
目的地を確認し、ヘルメットを被って私は現場へと急いだ。
新しい依頼がないか確認したり、荷物を整理したり、ベッドに寝転がってぼーっとしたり……依頼のないそんな日々にはとっくに慣れていたはずなのに、今は時間の流れが妙に遅く感じられる。
こういう時にふと気づかされる。普段なら、彼女がいつも俺のところに遊びに来ていたな、と。どうやら俺は、澪が隣にいることにすっかり慣れてしまっていたらしい。
俺は澪に約束した。絶対に、茜さんを探すのを手伝うと。
そうだ、これからの旅の中で、なんとかして情報を集めなければならない。姉貴がこうして俺を避けているのは、間違いなく何かを知っているからだ。ただ、俺にも薄々察しはついている。特別な事情でもない限り、姉貴がこんなことをする必要はないはずだ。
つまり、茜さんの件は、俺が思っている以上に複雑なのかもしれない。
ピピピッ、と電話の着信音が鳴り響いた。澪からか? 俺は慌てて携帯を開いたが、かかってきたのは神田さんからだった。
「もしもし! 神田さん? どうし……」
相手は聞き覚えのない女性で、その声はひどく焦っていた。
「え? 神田さんが? 分かりました。場所を教えてください、今すぐ向かいます!」
電話を切り、俺は無意識にバイクの鍵を掴もうとして、寧々の依頼が終わった後に正人さんに返してしまったことを思い出した。これじゃタクシーで行くしかない、急がないと。
神田さんが突然倒れてしまい、親切な店主の女性が俺の携帯に助けを求める電話をかけてきたのだ。その場所には見覚えがあった。ある商店街で、距離はそれほど遠くない。
タクシーに乗り込み、俺は運転手にできるだけ急いでくれるよう頼んだ。
おかしいな……寧々と白砂さんはどこだろう?
確かに寧々に言われた場所に着いているはずなのに、二人とも影も形もない。あ、寧々からメッセージだ。
『桜庭生花店に行って、桜庭お姉さんのところへ』? え?なに?……どういう意味?
疑問に思いながらも、私は辺りを見回した。すぐ近くに「桜庭生花店」の看板が見える。
「お邪魔します」
「いらっしゃいませ」
店内には桜庭お姉さん一人しかおらず、寧々の姿はなかった。
「あの、桜庭さんですか?」
「はい、そうです。あなたが青羽さんですか?」
「はい。あの、寧々……白砂さんに、ここに来れば会えるって言われて」
「ええ、寧々ちゃんから聞いていますよ。どうぞ、こちらへ」
桜庭お姉さんに案内されて二階へ上がると、そこは生花店の休憩スペースのようになっていた。花の香りと静かな空間がとても心地いい。小さなテーブルの上には、すでにコーヒーといくつかのスイーツが用意されていた。
「……これは?」
「ここでコーヒーとスイーツでも召し上がりながら、少し待っていてくださいね」
桜庭お姉さんは私をそこまで送り届けると、微笑みを残して一階の店へと戻っていった。私は椅子に腰掛け、目の前にあるコーヒーとスイーツを見つめる。
「いい香り……」
俺は商店街の中を猛ダッシュしながら、左右にある店の看板を一つずつ確認していく。
桜庭生花店! あそこだ!
勢いよく店内に飛び込むと、花の手入れをしていた店主のお姉さんをびくっと驚かせてしまった。俺は肩で息をしながら言った。
「か……神田さん……どこですか?」
「あら、もしかして巡くん?」
俺はこくりと頷いた。
店主のお姉さんは親切に水を一杯差し出し、慌てなくていいとなだめてくれた。この様子だと大ごとではなさそうだ。俺は少し冷静さを取り戻した。
「ありがとうございます」
店主のお姉さんは微笑みながら俺に一束の花を差し出し、俺はわけが分からないままそれを手にとった。
「これは? 俺に買えってことですか?」
「ううん、これは神田さんが買ったのよ。巡くん、あそこにある階段が見える? 神田さん、そこに行ってって」
「お、おお、そうなんですね。分かりました、ありがとうございます!」
神田さんの身体に問題がないならよかった。本当にびっくりした。それにしても、神田さんくらいの年齢の人がこんなお洒落な花束を買うなんてな。どっかのイケてるじいさんにでも贈るのだろうか?
階段を上って二階へ行くと、そこは休憩スペースのようになっていた。壁や階段には花が飾られていて、花の香りが空間を包み込んでいる。
最後の段を上りきり、奥へと目を向ける――。
そこには、スイーツを食べていた少女が、信じられないといった表情で俺を見ていた。
「め、巡……?」
「み、澪……?」
ほんの丸一日半会っていなかっただけなのに、これまで一度も感じたことのないこの感覚は一体何なんだ。もの凄く気まずい……。俺は階段の昇り口に立ち尽くしたまま、そこから一歩も前に進めずにいた。
澪の反応も普段とはまるで違っていた。彼女は視線を逸らすと、両手でカップを包むようにしてコーヒーを啜った。
俺もどこに目を向ければいいのか分からず、視線を下に落とした瞬間、自分の手にある花束が目に入った。待てよ……! 神田さん! 俺、もしかしてハメられたんじゃ……?!
「……何で突っ立ってるのよ」
「行って、いいか……?」
「誰も来ちゃダメなんて言ってないわ」
俺はどこか足元の覚つかない足取りで、澪の前へと歩み寄った。
「これ、何?」
「これは神田……」
いや。そう言っちゃダメだ。理由は俺にも分からないが、もし今それを口にしたら、何かが完全に終わってしまうということだけははっきりと分かった。下手をすれば俺の命さえ……。
俺は花束を澪に差し出した。
「え? 私に、くれるの?」
「……俺、母さんと姉貴にしか花なんて買ったことないんだけど、今は二人ともここにいない」
澪はうつむき加減に、何も言わずに花束を受け取った。
俺は彼女の向かい側にあるもう一つの椅子に腰掛けた。二人とも俯いたまま、言葉を発しない。今、目の前に座っているのはいつもの澪ではなく、まるで別の女の子であるかのように思えた。
一体これはどういう感覚なんだろう。やっぱり、ひどく奇妙だ。
「澪」
「うん……」
「俺、もうすぐ離れるんだ」
「知ってる……」
目の前にあるコーヒーに映る自分の顔を見つめながら、俺は少し躊躇い、それから言葉を続けた。
「最初にここに来たのは、カナちゃんの依頼があったからなんだ。でも本当は、姉貴に言われて来たんだよ。あいつがここにいるって言ったし、ここには取材にちょうどいい神社もあるからって」
「暁姉さんが?」
「ああ。実際に来てみたら、姉貴にお膳立てされてたって気づいたわけだけど。でも、今となってはここに来て本当に良かったと思ってる。寧々の約束を叶える手伝いができたしな」
深呼吸をする。
今言わなければ、きっと二度とチャンスは訪れない。それが終わりのない旅であることを、自分が誰よりも分かっていた。
俺は、このところずっと考え続けていた、別れる前に伝えたかった言葉を澪に打ち明けた。
「……でも、陽原町で過ごした時間の中で、俺が一番嬉しかったのは、お前に出会えたことだ……」
口にする覚悟は決めていたはずなのに、いざ言葉にしてみると、途中で声が途切れてしまった。澪は花束を持ち上げ、自分の顔を隠した。
「澪に出会えて、色々と助けてもらった。澪がいなかったら、俺一人じゃねねを助けることもできなかったと思う。だから……ありがとう」
澪がちゃんと聴いてくれているかも分からないまま、俺はただ自分勝手に言葉を紡いでいく。
「茜さんを探すって約束したから、安心してくれ。俺のこれからの旅がどこに向かおうと、このことはずっと忘れないから。最後にあとおよそ二日間あるし、もしよかったら……」
――もしよかったら、お前と一緒にいたい。
だけど、言葉にはできなかった。あまりにも俺には似合わないセリフだったからだ。これまでの人生で一度も口にしたことがなく、考えたことすらなかった、そんな言葉。
「バ、バカ――っ! もうそれ以上言わないで――っ!」
澪は顔を真っ赤にして、少し怒ったように俺を睨みつけた。
「え? ど、どうしたんだ?」
澪は素早く俺の後ろに回り込むと、俺の背中をもの凄い勢いでポカポカと叩き始めた。
「バカバカバカ! 何でいつも何の前触れもなくそんな恥ずかしいこと言うのよ! 一昨日の夜だってそう……誰がそんなこと言えって言ったのよ! 誰に教わったのよ! このバカバカ――っ!」
「え? ご、ごめん?」
丸一日半ぶりの再会と最初の会話。どうやら俺は、またやらかしてしまった……のだろうか?
「待てって……叩くな叩くな、澪。分かった、分かったから、一昨日の夜のことは謝る!」
「よくもま、またあの夜のことを口にできたわね!」
突然、隣からドン、と何かがぶつかる音が聞こえた。
俺と澪の意識はそちらへと引きつけられた。だが、その音を最後に、向こうからは一切の物音が聞こえなくなった。
「この中か? 誰かいるのか?」
俺は澪を後ろに下がらせると、そっとドアを開けた。
あ。
部屋だった。
中には、五人がいた。
満面の満足げな笑みを浮かべる白砂さんと、桜庭お姉さんと、神田さん。
顔を少し赤くしている寧々。
外見、なんだか死んだようになっている正人さん。
「おい……これって……」
「え? お父さん?! 何でここにいるの?」
正人さんはゾンビのような足取りで俺の前まで歩いてくると、恐ろしい力で俺の肩を掴んだ。
「巡くん。一昨日の夜のこと、とはどういう意味か、説明してもらえるかな?」
怖い怖い怖い!
「な、何もしてません、本当に! 信じてください!」
正人さんが俺を押さえつけている隙に、部屋にいた他の面々はどさくさに紛れてそのまま外へと逃げ出していった。俺と澪には何もできず、誰も止めることはできなかった。
夜、俺と澪は青羽神社の境内を歩き、初めて出会ったあの日の花畑へと向かっていた。
みんなにああして騒ぎ立てられ、おまけに言いたかった言葉を口にできたおかげか、澪との関係が少しだけ以前のように戻ったような気がした。
少しホッとしたような、それでいて、どこか名残惜しいような。
だって、こんな風に照れている澪も……まあ、結構可愛いだろ?
あの日と同じ月夜、あの日と同じ花畑、あの日と同じ石のベンチ。
違っているのは、今の澪は巫女服を着ていないし、花畑の中に立っているわけでもなく、俺の隣に座っているということ。そして、俺も眼鏡を無くしておらず、今は彼女の顔をはっきりと見つめることができるということだ。
「澪、渡したいものがあるんだ」
「何?」
俺は一本のブレスレットを取り出し、澪の手のひらに載せた。
「依頼をこなした時、たまにちょっとした小物を貰うことがあるんだ。記念物みたいな感覚かな? このブレスレットは、ある母親が娘に向けて手紙を書くのを手伝った時に貰ったものなんだ」
澪はブレスレットを月に翳し、月光の下でじっとそれを見つめた。
「それはその母親の手作りで、小さな星が付いているだろ。彼女が言うには、二つの意味が込められているらしい。一つ目は『願い』。二つ目は『道標』だ」
ここは俺と澪が初めて出会った場所だ。あの時、彼女は俺に道を導いてくれた。だからその恩返しとして、俺も何かをしなければならない。
「素敵な意味ね。巡、これ、私につけてくれる?」
「え、俺が?」
「だって――私はこれからも、巡が私の願いを叶えてくれるのを、巡が私の道標になってくれるのを、期待しているんだから」
俺は笑った。
月光の下、花海の傍らで。俺は星のブレスレットを澪の手首に巻いた。
かつて、澪は俺に道を導いてくれた。
これからは、俺が澪の道標になる。
俺たちは、きっと同じ方向へと歩んでいくのだろう。
次の物語開始!




