第19話:(後編)第四の呪具、堕ちた聖女
エルの指先が、冷え切った聖杯の縁に触れた瞬間。
世界から色彩が剥ぎ取られ、エルは果てしない「白銀の砂漠」の真ん中に立っていた。
そこはアリアの内面世界。音も、風も、命の気配すらない。
中央にぽつんと座り込み、膝を抱えているシスター姿の少女がいた。彼女の周囲には、これまで聖杯が吸い込んできた数千人分のドロドロとした欲望が、黒い影の蛇となって蠢いている。
「……来ないで。ここは、何も無い場所。……何も聞こえない、安らぎの死地」
アリアの声は、感情を削ぎ落とした氷のようだった。
「……いいえ。君の心は、こんなに震えています」
エルは影の蛇に足を噛まれ、黒い泥に身体を侵食されながらも、一歩ずつ彼女へ歩み寄る。
結晶化した右腕がピキピキと音を立てて剥落し、中の剥き出しの神経が白銀の光を放つ。
「……っ、あ……熱い。……何、その光。……私を、壊しに来たの?」
「君を、温めに来たんです。……独りぼっちの神様より、僕と一緒に、美味しいシチューを食べませんか?」
エルはアリアの前に膝をつき、血の滲む結晶の腕を、彼女の細い胸元へと強く押し当てた。
通常の浄化ではない。エルは自分の「生きたい」という執念と、仲間たちへの「愛」を、空っぽの聖女の中へ一気に流し込んだ。
瞬間、アリアの瞳に、見たこともない鮮やかな色彩が爆発した。
「――っ!? ああああぁぁぁ……っ!! 熱い、熱いです、お兄様……! 脳が、魂が、とろけてしまいそう……っ♡」
アリアの灰色の瞳が、一瞬にして妖艶な紫色へと染まる。
無機質だった彼女の顔が、強烈な愉悦と陶酔に歪んだ。初めて知った「体温」という快楽。エルの光に魂を焼かれる悦びに、彼女の精神世界が黄金色に塗り潰されていく。
「……見つけました。私の、真実の神様……♡ 教会の語る偶像なんて、この熱さの前には塵も同然です……っ。ああ、もっと、もっと私を犯して……光で満たしてください、マスター……♡」
現実世界。
アリアが抱えていた『沈黙の聖杯』が粉々に砕け散り、聖都を覆っていた無音の結界が霧散した。
激しい雨音が戻り、ルミナたちの絶叫が再び空気を震わせる。
「……え? 私、生きてる……!?」
ルミナが実体化して立ち上がる。ミスティも、ベルも、エレナも。
彼女たちの目の前で、アリアはエルに縋り付き、その結晶化した腕を愛おしそうに頬ずりしていた。
「――お下がりなさい、不浄な者たち。このお方は、私の新しい神なのですから……♡」
アリアがテレーザを振り返る。その瞳には、先ほどまでの虚無ではなく、狂気的なまでの排他的な愛が宿っていた。
「ア、アリア!? 貴女、何を言って……っ」
「黙りなさい、拡声器のゴミ。……あなたの声は、私の神の耳を汚します。――『沈黙』」
アリアが指を鳴らした瞬間、テレーザと騎士団の周囲からすべての魔力が消失した。
教会の加護を失ったテレーザは、重いメイスを支えきれず、無様に泥の中へと膝をつく。
「馬鹿な……! 聖女が、異端者に、恋をした……だと!?」
「恋? ふふ、そんな生温い言葉で括らないでください。これは『信仰』です……♡ さあ、マスター、今のうちにここを去りましょう。ノエル、道案内を」
アリアはエルの結晶化した右腕を自分の胸に抱き込み、恍惚とした表情で歩き出した。
ノエルの手引きにより、混乱する騎士団を尻目に、一行は聖都の裏口から脱出を果たす。
夜明け。聖都を遠く離れた丘の上で、雨が止んだ。
エルはアリアの膝の上で目を覚ました。だが、自分の右腕を見て、息を呑む。
肘まで完全に白銀の結晶と化した腕は、もう、血の通った人間の腕には戻らなかった。
「……あ。……これ……」
「……悲しまないでください、マスター……♡ この腕は、私と貴方が繋がった証。……一生、私が磨いて、愛でて、抱いてあげますから……♡」
アリアはエルの結晶の指先を口に含み、甘い吐息を漏らす。
「ちょっと! その変態シスター、エルから離れなさいよ!!」
「……危険。……重度の、依存症。……主様、逃げて……」
「お兄ちゃーん! ベルの居場所がなくなっちゃいましたぁぁ!!」
新たなヒロイン・アリアの合流。
しかし、エルの身体の侵食は、もはや後戻りできない段階に達していた。
遠くの丘で、セレスが古文書に新たな血の文字が刻まれるのを見届けていた。
「……四つの呪いが、光に溶け、歪んだ愛へと変わった。……エル。あなたの命が尽きるまで、あと三つ。……結末は、すぐそこよ」




