第19話:(前編)第四の呪具、堕ちた聖女
その瞬間、世界からすべての「響き」が消滅した。
激しく降り続いていた雨の音も、石畳を叩く騎士たちの軍靴の音も、そして、自分を呼ぶ仲間たちの叫び声さえも。
エルが目を見開いたとき、視界に入ってきたのは、大聖堂の影からゆっくりと浮上してくる巨大な「黒い聖杯」だった。
聖杯を両手で大切そうに抱え、虚空を歩む一人の少女。
修羅場と化した聖都の裏路地に降臨したその少女――アリアは、ハイライトの消えた灰色の瞳で、ただじっとエルを見つめていた。
「……っ、あ……」
エルは叫ぼうとした。だが、自分の喉が震えている感触はあるのに、鼓膜には何も届かない。
隣で剣を構えていたルミナが、何事か叫びながらテレーザへ突進しようとしていた。しかし、彼女の体がアリアの放つ不可視の波動に触れた瞬間、その輪郭が陽炎のように揺らぎ、霧散していく。
ルミナの姿が消え、石畳の上に重々しい音を立てるはずの『断罪の聖大剣』が転がった。
続いて、エルの右側を守っていたミスティの鎧が、内側から崩れるようにしてパーツごとに分解され、白銀の鉄屑となって地に落ちる。
背後で魔導書を広げていたベルも、首飾りの鎖が弾け飛ぶと共に、その小さな体が光の粒子となって消えていった。
エルの魔力供給が絶たれたのではない。
アリアが抱える『沈黙の聖杯』が、この空間に存在するあらゆる「意味」と「魔力」を、無差別に吸い込み、虚無へと変換しているのだ。
(ルミナさん……ミスティさん……ベルさん……!)
エルは手を伸ばした。だが、指先に触れたのは冷たい雨の感触だけだった。
実体化を解かれ、ただの「道具」に戻ってしまった彼女たちは、物言わぬ金属の塊として、雨に濡れるまま転がっている。
最後に残ったエレナも、弓を引く力を奪われ、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
この無音の地獄の中で、唯一、自由を謳歌している者がいた。
第四審問局長、テレーザ。
彼女の胸元で教会の聖印が鈍く光り、聖杯の干渉を撥ね除けていた。
テレーザは無造作に歩み寄り、足元に転がっていたルミナ(大剣)を、ゴミでも払うかのように乱暴に蹴り飛ばした。
エルはそれを見て、声にならない悲鳴を上げる。
テレーザの唇が動く。音は聞こえないが、その嘲りを含んだ形ははっきりと読み取れた。
『――これが、神が定めた静寂よ』
テレーザは巨大な十字架メイスを振り上げ、膝をつくエルの脳門へ向けて振り下ろす。
回避する魔力も、防御する盾も、今のエルにはない。
死の予感がエルの全身を支配した、その時。
ドクン、と。
エル自身の身体の内側から、異質な「鼓動」が響いた。
「……が、あ……っ!!」
エルの右腕――肘まで結晶化した白銀の部位が、強烈な発熱と共に脈動を始めた。
アリアの虚無が、エルの命(魂)を吸い取ろうとする。それに対し、エルの聖刻が、持ち主の「生きたい」という執念を薪にして、無理やり新たな熱を生成しているのだ。
結晶の隙間から、鮮血が噴き出す。
しかし、その激痛こそが、無音の世界でエルに「自分という存在」を自覚させた。
メイスが振り下ろされる寸前、エルは結晶化した右腕を直接、石畳に叩きつけた。
火花が散り、衝撃が脳を焼く。その痛みで無理やり意識を繋ぎ止めたエルは、転がるようにしてテレーザの一撃を回避した。
テレーザの瞳に驚愕の色が走る。
あり得ない。魔力を完全に封じられた子供が、なぜ動けるのか。
エルはふらつきながらも、立ち上がった。
視線の先には、虚空で聖杯を抱き続けるアリアがいる。
彼女の周囲に渦巻く影が、エルの足を、服を、心を、底なしの沼のように引きずり込もうとする。
一歩、踏み出す。
右腕の結晶がピキピキと音を立てて砕け、中から純白の骨のような光が露出する。
一歩、また一歩。
背後でノエルが、声にならない叫びを上げながら、必死にエルのマントを掴もうと手を伸ばしているのが見えた。
(……ごめんね、ノエルさん。……僕は、行かないといけないんです)
エルはアリアへと歩を進める。
音のない世界。
ただ、自分の心臓が刻む、命のカウントダウンの音だけが、エルの世界を支配していた。
アリアの灰色の瞳が、初めて僅かに揺れた。
自分という虚無に向かって、ボロボロになりながら歩み寄ってくる、小さな「光」の熱。
エルはアリアの数センチ手前で、ついに力尽き、前のめりに倒れ込んだ。
だが、その指先は、しっかりとアリアの抱える冷たい『聖杯』の縁に触れていた。




