第17話:暴かれた聖刻の真実を
聖都の地下深く、幾千もの古文書が眠る『禁書庫』。
カビと埃の匂いが立ち込めるその場所は、教会の栄光の裏側に葬られた「不都合な真実」を閉じ込めた巨大な墓場だった。
「お兄ちゃん、こっちです……。ベルの首飾りが、あっちから嫌な魔力を感じてるですよ」
ベルがエルの服の裾をギュッと握り、小さな手で闇の奥を指差す。
彼女の索敵魔法と、宿屋の看板娘ノエルから教わった秘密の隠し通路のおかげで、エルたちは教会の監視を潜り抜け、この禁域へと辿り着いていた。
「……ありがとう、ベルさん。……っ、あ……っ」
エルは激痛に耐えかね、本棚に手をついた。
右手の甲から始まった黒い結晶化は、すでに肘の近くまで侵食している。もはや肉の感触はなく、ただ重く、冷たい石の塊をぶら下げているような感覚だった。
「お兄ちゃん! 無理しちゃだめです! ベルが、ベルが代わってあげられたらいいのに……!」
「大丈夫です……。君の呪いを浄化した時よりは、ずっと……ましですから」
エルは震える左手で、一冊の古びた革表紙の書物を取り出した。そこには聖教会の紋章と共に、『歴代聖刻騎士・浄化記録』と記されていた。
ページを捲るエルの指が、ある一節で止まった。
『――聖刻ハ浄化ノ器ニアラズ。呪具ノ怨念ヲ、騎士ノ魂ト引キ換エニ精錬スル鋳型ナリ』
「……え?」
エルの喉から、乾いた声が漏れた。
書物には、目を疑うような残酷な事実が綴られていた。
聖刻騎士の役割は、呪具を救うことではない。呪具に溜まった膨大な負のエネルギーを、自分という「生贄」の魂を燃料にして、教会が利用可能な純粋魔力へと書き換える。
浄化が進むほどに体の一部が結晶化するのは、魂が燃え尽き、器としての身体が魔力の残滓に置き換わっている証拠。
「……呪具をすべて集めきった時、騎士は……魔力の結晶となって砕け散る。……教会は、その欠片を回収し、神の奇跡として民に見せびらかす……」
エルの顔から血の気が引いていく。
自分が信じていた「救済」は、最初からシステムに組み込まれた「解体作業」に過ぎなかったのだ。
「そんなの……ひどすぎるです! お兄ちゃんは、あんなに頑張っているのに……!」
ベルが涙を流して叫んだ、その時だった。
パキリ、と。
凍り付くような音が禁書庫に響き、周囲の風景が歪み始めた。
本棚の隙間から漏れていた僅かな松明の光が静止し、舞い落ちる埃が空中で固定される。ベルの泣き声さえも、スローモーションのように引き延ばされ、やがて完全な静寂へと消えた。
「……え? ベルさん? ……身体が、動かない……」
エルは目を見開いたまま固まった。自分以外の「時」が止まっている。
その異常な静寂の真ん中で、虚空に一筋の亀裂が走った。
星空を切り取ったような深い紺色の光が溢れ出し、そこから一人の少女が、音もなく滑り出るように姿を現した。
銀色から青へとグラデーションを描く長い髪。透き通るような肌。そして、この世の理から外れたような、浮遊感のある薄紫のローブ。
「……初めまして、と言うべきかしら。今のあなたにとっては」
少女は地面に足を着けず、エルの目の前まで浮遊して近づいてきた。
彼女の瞳の中には、無数の銀河が渦巻いている。エルは、旅の途中で何度も遠くから自分を見つめていた「青い影」が、目の前の彼女であると直感した。
「君は……。……あれ?動ける。……君が、時間を止めたんですか?」
「止めたのではないわ。……私は、これから起こる『確定した絶望』を、少しだけ先送りにしに来ただけ」
少女は自らをセレスと名乗り、エルの結晶化した右腕に、冷たい指先で触れた。
瞬間、エルの脳裏に、この禁書庫の記録よりもさらに残酷な「もう一つの未来」の断片が流れ込んできた。
そこには、成長し、力尽きて砕け散るエルの姿があった。
彼の死に絶望し、狂い、自分自身を武器や防具に変えてでも過去へ戻ろうとする、ルミナ、ミスティ、ベルたちの姿。
「呪具たちは……未来の彼女たちの『未練』そのもの。……彼女たちは、あなたを救えなかった後悔を抱えて、この時代へ現れた。……今度こそ、あなたと生き残るために」
エルの心臓が、早鐘を打つ。
彼女たちが自分に惹かれるのは、単なる浄化の恩義ではない。魂の深い場所で、自分を救いたいと願い続けているからなのだ。
「……私はセレス。時を歩み、悲劇の頁をめくる者。……器を壊さないで、エル。……愛は毒にもなるけれど、運命を焼き切る炎にもなるわ」
セレスが微笑むと同時に、空間の歪みが弾け、時間が動き出した。
だが、安堵する間もなく、禁書庫の入り口が激しい音を立てて破壊された。
「――そこまでよ、ネズミさんたち」
異端審問官テレーザが、巨大な十字架メイスを肩に担ぎ、騎士団を率いて現れた。
「禁書庫への不法侵入、および教会の機密閲覧。……これでもう、あなたの処遇は決まったわ。エル、大人しくその身を聖杯に捧げなさい。あなたの結晶化は、既に教会の役に立つレベルまで進んでいるわ」
「……させないです! お兄ちゃんを、あんな冷たい女の人に渡さないですぅ!」
ベルが魔導書を構えるが、テレーザの一瞥で放たれた威圧感に、膝を折る。
エルは結晶化した右腕の激痛で、立ち上がることさえままならない。
「さあ、連れて行きなさい。抵抗するなら、足の一本くらい折っても構わないわ」
騎士たちが、じりじりと距離を詰めてくる。
万事休すかと思われた、その時。
「――いい加減にしなよ、この税金泥棒共が!」
天井の通風孔から、複数の煙幕弾が投げ込まれた。
視界が真っ白な煙に包まれ、騎士たちの間に混乱が走る。
「こっちだよ、可愛い聖者様!」
煙の中から飛び出してきたノエルが、エルの左手を力一杯掴み、ベルを小脇に抱え上げた。
「ノエルさん!? どうしてここに……」
「あんたが帰ってこないから、裏道を通って迎えに来てやったんだよ! さあ、走れるかい!?」
「あ、ありがとうございます……っ」
エルはノエルに支えられ、煙の中を必死に駆け抜けた。
雨の降る聖都の裏路地。
ノエルの案内で隠れ家に辿り着いたエルは、激しい呼吸を整えながら、自分の黒く光る右腕を見つめた。
「エル。あいつらの言うことなんて、聞く必要ない。……あんたの命は、あんたのもんだ。誰かの燃料になるために生まれてきたんじゃないだろ?」
ノエルが、震える手でエルの頬を包み込む。
「……はい。僕は……みんなと一緒に、生きたい。……生きて、リィンさんのシチューを、また食べに帰るんです」
エルの決意に呼応するように、結晶化した右腕から、僅かに純白の光が漏れ出した。
それは、絶望の宿命を焼き切るための、新しい光の芽吹きだった。




