猫にまたたび5
「抹茶味とー……え、何これ、八ツ橋味?」
「とりあえず後輩へのお土産用で一箱買ってくわ!」
ふらっと立ち寄ったお店で目新しい商品を眺めながら、カナちゃんとあかりちゃんが口々に言う。
少し年季の入った陳列棚や暖簾からは歴史を感じられた。
所は京都。秋も深くなってきた今日この頃、私たちは修学旅行へやって来た。
飛行機のお世話になったのが昨日のことで、今日は一日中京都府内で自由行動だ。
「白さん白さん」
一人奥の方で商品を見ていた九栗さんが、ちょいちょいと手招きをする。
言われた通り近付いて隣で肩を並べた私に、彼女は明るく笑った。
「これ可愛いなあと思って。白さんっぽい!」
九栗さんが指しているのは、金平糖のモチーフがついたヘアピンだった。
その横にはイヤリングやヘアゴムも揃っているようで、パステルカラーが目に優しい。
せっかくだし、記念に一つくらい買っていこうかな。
旅行に来ると財布の紐が緩みがち。逡巡していると、後ろから陽気な声が飛んできた。
「え、いいじゃん可愛い。色違いにして四人でつける?」
あかりちゃんの何の気なしな提案に、みんなでうんうん頷く。なんかお揃いって嬉しい。青春してる感じがする。
ピンクと水色、黄色、それから緑。
カナちゃんがみんなの分を払ってくれた。清算は後ででいいよ、と言う彼女にお礼を述べて、お店を出る。
「はい、羊の分」
「ありがとう。……あれ、私が黄色でいいの?」
自分の中で、なんとなく九栗さんが黄色というイメージがあった。
カナちゃんがピンクで、あかりちゃんが水色。それは予想から外れていなかったようで、緑のヘアピンを掲げた九栗さんが大きく首を縦に振る。
「うん、白さんは黄色って感じする。何だろうね? 太陽みたいなイメージっていうのかな」
「ええっ、そんな……九栗さんの方が太陽だよ」
いつもにこにこしてて、みんなの輪の中心にいて。誰からも好かれるような清々しい女の子だ。
いや私が、いやこっちが、などと言い合う私と九栗さんに、あかりちゃんが盛大なため息をついた。
「太陽ってそもそも黄色じゃなくない? っていうか、二人ともいつまで苗字呼びなの?」
「えっ」
九栗さんと二人で顔を見合わせる。
確かに、と思ったのは、太陽の色の件はもちろん、お互いの呼び名についてだ。
彼女とは球技大会の時から仲良くしてもらっているけれど、何となく今の呼び方で定着してしまっている。
学級委員で、バレー部の次期部長らしい彼女。たまに自分と比較してしまって、引け目を感じることがある。だからこそ、あと一歩踏み出せずにいたのかもしれない。
「……白さん、私の名前知ってる?」
九栗さんが不安そうに自身の顔を指さした。
私は慌ててぶんぶんと大げさに首を振って肯定する。
「あ、当たり前だよ! ただ、その……勇気が出なくて」
タイミングを逃し続けたとも言う。
俯きながら語尾を弱めた私に、九栗さんは「そっかあ」と安堵したように呟いた。
「私も! 白さん、ずっと名前呼んでくれないから、私も呼ばない方がいいのかなあって思ってた」
「え! ごめんね、全然そんなつもりなくて……!」
ううん、と目の前の彼女が肩を揺らす。
「これからもよろしくね。……羊」
「朱南ちゃん~~~!」
石畳の道。落ち着いた街並みに似つかわしくない、私の情けない声。
ほら、本場の抹茶アイス食べに行くんでしょ。カナちゃんがそう言って、慰めるように私の背中をたたいた。
***
「キスってもうしたの?」
「うぐっ、」
お風呂上り、ミネラルウォーターを流し込んでいた私に、豪速球を投げてきたのはあかりちゃんだった。
口の端からたらりと水滴が零れる。「羊、汚い」とお母さんのように窘めたカナちゃんの声が聞こえたけれど、それよりもあかりちゃんを止めて欲しい。
一日中歩き通しで疲労困憊だった私たちは、宿に戻るなり早々に就寝準備を始めた。
大浴場から帰ってきたところで、ドライヤーの貸し借りだなんだと言っているところにこの話題だ。
「ま、……まだしてない、よ」
どきまぎしながら口を拭って答える。
ふーん、とジト目でこちらを見つめてくるあかりちゃんは、そのまま続けた。
「狼谷のことだからすぐ手出すのかと思ってたわ」
「あ、あかりちゃん……」
大っぴらすぎる。というかもう正直すぎる。
単に興味本位で聞いてきたのかと思ったけれど、何か思案顔で黙り込む彼女の様子からするとそうでもないみたいだ。
狼谷くんと付き合ってから、もう一か月以上経つ。
といっても、本当にあっという間の期間だった。彼はとことん律義で、「今日で一か月だね」とこの間のデートの別れ際に言われた。私はといえば、狼谷くんの言葉でようやく気付いたほどだ。
「あの、二人に聞きたいんだけど……」
飲み物を買ってくる、と先ほど部屋を出て行った朱南ちゃんはまだ戻って来ない。
頬杖をつくあかりちゃんと、荷物の整理をするカナちゃん。私は二人の顔を交互に見ながら、恐る恐る切り出した。
「普通のカップルって、いつ頃キス……するものなのかな」
いつかするんだろうな、という漠然とした考えはある。
ただ狼谷くんは一切そのことについて匂わせないし、したい、とも聞いたことがない。
「え~……それは個人差あるから、何とも」
「別に羊がそこまで気にしなくてもいいんじゃない。狼谷くんに任せていいと思うよ」
返ってきたのは意外にも曖昧な言葉たちで、私は更に頭を悩ませることになった。
と、キャリーバッグから私の顔へ視線を移したカナちゃんが、投げかけてくる。
「羊はどうしたいの?」
「え?」
「結局、そこの問題なんじゃない? こうするべきとか、これが正解とか、そんなのない気がする」
私は、どうしたいか。
狼谷くんは言葉でも態度でも、全身で好きと伝えてくれる。私はそれの三分の一も返せていないと思うし、それが彼を時々寂しそうに見せる原因なのかもしれない、とも考えていた。
「私は……」
口を開いた瞬間、畳の上に転がっていた自分のスマホが震える。
メッセージを受け取ったらしい。手に取って確認すると、送信主は狼谷くんだった。
「ごめん、私ちょっと出てくるね」
「はいよー」
特に理由を付け加えなくても察したのか、二人は言及することなく私を見送ってくれた。
ふかふかのスリッパを履いて部屋から出る。
しばらく真っ直ぐ進んでいると、ペットボトル片手にこちらへ歩いてくる人影とすれ違った。
「あれ、どっか行くの?」
自動販売機のあるロビーから戻る途中だったのか、朱南ちゃんが手を振ってくる。
「あっ、うん! ちょっとね……」
「そっかー。じゃあ部屋戻ったらいっぱい話そうね!」
「うん……! 話す! 話そう!」
拳を握って力強く同調する私に、彼女は背を向ける前、声を張った。
「羊、後でねー!」
胸の奥がじんわり温かくなる。緩む頬を隠さず、私も負けじと手を挙げた。
「ばいばい、朱南ちゃん!」
私のそれを聞いて満面の笑みを浮かべた彼女は頷いて、それから足早に去っていく。
嬉しい。彼女のことを友達じゃない、なんて思ったことはないけれど、今は自信を持って友達だと言える。
数秒名残惜しく立ち尽くし、そうだ、私もロビーへ向かわないと、と踵を返した時だった。
「羊ちゃん」
不意に背後から名前を呼ばれたかと思えば、馴染みのある体温が私を包んだ。
優しく抱き締めてきた腕に手を伸ばし、私は頭上を見やる。
「狼谷くん……! ごめんね、遅かったよね私」
「うん、待ちきれなかった」
彼の返答に面食らった。
てっきり、いつものように「そんなことないよ」と首を振るのかと思っていたのだ。
「今日一日ずっと羊ちゃんに会えなくて、死ぬかと思った」
「し、死ぬって……」
確かに今日は朝から夜まで班ごとの行動だったから、致し方ない。
そうはいっても、私だって狼谷くんとこうして会うことができて良かったな、と思う。
「ねえ羊ちゃん」
「ん?」
「何で九栗のこと、名前で呼んでるの」
ぎゅ、と僅かに強くなった拘束。
戸惑いを覚えながらも、私は「今日色々あってね」と誤魔化した。
別に話してまずいことはない。ただ何となく、気恥ずかしいというか。
むずむずそわそわと落ち着かない私の耳元に、彼の拗ねたような声が落ちる。
「……ずるい。俺も呼んでもらったことないのに」
「えっ、」
「なんか羊ちゃん、嬉しそうだね」
どうやらバレているらしい。
浮かれている私が気に食わないのか、狼谷くんは先程から少し不機嫌だ。
「こっちおいで」
「えっ、あの」
突然手を引かれ、彼が廊下を進んでいく。
ロビーを通り過ぎ、どこへ行くんだろうと首を傾げていると。
「か、狼谷くん! ここ、男子部屋だよね……!?」
「うん。今みんな他の部屋に遊びに行ってるから大丈夫」
違う、そういう心配をしているのではなく。
男女間の部屋の行き来はあまり推奨されていない。誰かに見られたら、と思うと気が気でなかった。
狼谷くんは入り口の引き戸を閉めるや否や、再び抱き着いてくる。
私も私だ。良くないとは思いつつも、彼の背中に手を回しているんだから。
「羊ちゃんは俺がいなくても楽しそうだね」
「狼谷くん……」
「俺は今日一日ずっと我慢してたよ。連絡もしなかった」
あ、と小さく口から漏れた自分の声。
言われてみれば。今日はメッセージアプリを開いた記憶があんまりない。検索エンジンでルートを探したり、時間を確認したり。だからこそみんなと楽しく集中できていたのかもしれない。
まただ。また狼谷くんは、すごく悲しそうな顔をしている。
こんな顔をさせているのは他でもない私で、それが不甲斐なくて。
「……羊ちゃん?」
いいのかな、こんなんで。だめに決まってる。
ついこの前、彼のことも不安にさせないようにしようって思ったばかりなのに。
「ごめん……ごめんね、狼谷くん……」
彼の袖を握る。
「好き。狼谷くんが大好きだよ。全然、平気なわけじゃない」
だって私、みんなといる時も狼谷くんのこと考えてたよ。
ポケットに手を入れて中を探る。目的のものを見つけて、彼に差し出した。
「……これね、狼谷くんにどうかなって、買っちゃった」
観光スポットを巡っている最中、縁結びの神社を通りすがって、その場のノリでみんなで立ち寄った。
そこで売っていた、小さいオレンジの石を埋め込んだピアス。恋愛成就はピンクの石だったけれど、自分たちの気持ちはそこに頼りたくないなと思った。
「健康祈願の石なんだって。狼谷くんオレンジ好きって言ってたし、その……」
つい焦って渡してしまったけれど、今更ながら躊躇してしまう。
彼は出会ってからずっと同じピアスを付けているし、それが気に入っているのだろう。決してセンスがいいとは言えない私が、勝手に選んで良かったものか。
二の句が継げず黙り込んだ私に、狼谷くんが目を見開く。
「……これ、羊ちゃんが? 俺に?」
虚を突かれたように問いかけてくる彼。
狼谷くんはそういう人だった。強請ってくる癖に、いざ私が応えると途端に弱気になる。
でも、そういうところが愛おしい。
「うん。私、いつも狼谷くんにしてもらってばっかりだから……あの、でもデザイン好きじゃないとかだったら無理しないで、」
「つける。これから毎日つける。羊ちゃん、今ここでつけて……」
食い気味に受け取った狼谷くんに、私は「え」と腰を引いた。
「わ、私がつけても大丈夫なの? ピアスってどうしたらいい……?」
よく分からないけれど、穴が開いているなら痛そう。渋っていると、狼谷くんが手取り足取り教えてくれた。
耳朶に収まっている橙色。銀のピアスに見慣れているから、やっぱり新鮮だった。
「今更だけど、これ校則大丈夫かな……?」
「大丈夫。大丈夫じゃなくても大丈夫にする」
それってどうなんだろう……。
ピアスに関しての規則は自分に関係ないと思って詳細まで把握していないから、何とも言えない。
「羊ちゃん、ありがとう」
空いていた距離がゼロになる。
きつく抱き締められて、彼の気持ちが伝染するようだった。
「狼谷くん」
「うん?」
「許してくれる?」
許す、というかなんというか。機嫌を直して欲しいし、自分だけが寂しいとも思わないで欲しい。
「……だめ」
「え?」
体を離した狼谷くんが、ゆっくり私の目を捉える。
「まだ俺、我慢してることあるよ」
彼の指が伸びてきたかと思えば、唇を撫でられた。その刹那、かっと頬が火照る。
『もうキスしたの?』
ついさっきの会話を思い出して、余計に頭が沸騰した。心なしか狼谷くんの瞳がいつもより熱っぽい気がする。
これはやっぱりそういうこと? でも今の今まで全然そんな素振りなかったのに、急にどうして?
「あ、あの、狼谷くんっ」
どうしよう。心の準備が全くできていない。
いや、もちろんしたくないわけじゃないし、いずれこうなるとは分かっていたけど――
「それだよ」
固く目を瞑っていた私に、彼が告げた。
それ、とは。
恐る恐る瞼を持ち上げると、狼谷くんが眉根を寄せる。
「名前で呼んで。玄って、呼んでよ」
「え、あ……」
ふにふにと唇を弄ばれ、私は呆気にとられた。
黙って見上げるだけの私を訝しんだのか、狼谷くんは首を捻る。
「羊ちゃん?」
「あっ、ごめんね、何でもないよ……! 名前、そうだよね……」
うん、そうだ。確かに。彼は何も間違えていない。
一人で早とちりしてしまって本当に恥ずかしい。キスされるかも、なんて。どこか期待していた自分に、滾々と説教をしたい気分だ。
そうだよ。だって朱南ちゃんのことを話した時から不機嫌になり始めたもの。元はと言えば名前が原因だった。
脳内でかなり先のステップのことを考えていたからか、彼の要求にはさほど驚かなかった。
「え、えっと」
狼谷くんの、下の名前。
「…………玄、くん」
口に出した瞬間、ぶわ、と全身が熱くなる。
あれ、おかしい。名前なんて、キスに比べたら全然大したことないはずなのに。
「うん。……くんは、いらない」
そう訂正する彼の声色は、酷く甘くて。
でも私は呼び捨てにはしたくない。だって、だってね。
「や、やだ」
「え?」
「他の子はみんな呼び捨てだから、やだ……」
玄、って。沢山の女の子が呼んできたのを、私は知ってる。
「だから、玄くんがいいっ……」
私だけの呼び名が欲しいの。彼女の特権。だめかな。
多分いま、物凄く情けない顔をしている。でもそれで私の気持ちが伝わるなら、本望だ。
「なに、それ……」
彼の眉根に、より一層皺が寄る。
「ああもう、ずるい……ずるいよ羊ちゃん」
切羽詰まった声。熱い唇が私の頬に降りてきた。
「好き。死ぬほど好き。もっかい呼んで……?」
懇願する彼に、抗う理由なんてない。
酸素を取り込んだ喉が震えて、それすらもどうでも良かった。
「玄くん、」
「うん。もっかい……」
「玄くん。好き、……ひゃあっ」
不意打ちだった。
右耳の溝を丁寧になぞるように舐められて、肩が跳ねる。
「だ、め……! そこ、やだっ」
「知ってる。羊ちゃん、ここ弱いもんね……?」
確信犯だったらしい。
耐え切れずに彼に縋りつくと、色気を含んだテノールが響いた。
「――もっと俺でいっぱいになって。羊」
頭が真っ白になった。
気付いたらすっかり腰が抜けていて、滲んだ視界に彼の顔が広がる。
「ん、……玄くん、」
「可愛い……」
間髪入れずに、彼の舌が私の涙を拭う。
その吐息が熱くて、心地よくて。私は今すごく幸せなんだと、そう思った。
「玄くん、大好き」
「羊ちゃん……あんまり可愛いこと、言わないでっ……」
俺、どうにかなっちゃう。
彼の言葉を聞いて、苦しそう、と。そんな感想が浮かんだけれど、私も好きすぎて胸が苦しいから、きっと同じだ。




