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猫にまたたび5.5―Misaki Tsuyama―

 


「キスした?」



 遠回しな聞き方は苦手だ。

 嘘をついても結局バレるし、自分に正直なのが俺の取り柄じゃない? とか思う。



「……してない」



 玄は壁に背を預け、力なく座り込んでいた。

 してない、か。だったら一体、どうしてそんなに恍惚とした表情を浮かべているのか切実に教えて欲しい。

 明らかに情欲の滲んだ雄の顔に、少し気まずさを覚える。


 風呂上がり、バスケ部のみんなでトランプでもしようと誘われた。

 他クラスの部屋に直行し、しばらく居座っていたところで、充電器を取りに自分の部屋へ戻って。


 入ろうとした瞬間、中から白さんが飛び出してきた。



『あっ……つ、津山くん、あの、じゃあね!』



 顔を真っ赤に染め上げ、挙動不審な彼女。

 駆けていく背中を呆然と眺めてから、はっはーん、と口角が上がる。


 案の定、部屋の中では玄が一人、艶っぽいため息をついているところだった。



「ていうか、できない」



 愚痴を零すかのようにそう呟いた哀れな友人に、俺は肩をすくめる。



「純粋すぎて、手ぇ出せない?」


「……いや、」



 否定の文言が途中で切れた。

 まあそれもあるけど、と数秒の後付け足して、玄は続ける。



「どっちかっつーと、俺がやばい」



 やばいって、何がどのように。

 その先を聞きたいような聞きたくないような、複雑な心情だ。



「めっちゃ優しくしたいのにできる自信ない。今も泣き顔見ただけでもう、ほんと無理」



 俺はいま友達の興奮事情を聞かされてめちゃくちゃ困ってるんですけどね。夜だからセーフってか? いやアウトでしょ。


 百戦錬磨の男も取り乱してしまう彼女とはこれ如何に。

 まあ分からなくもない。と言ったら確実に俺は生きて帰れないので黙るけれども、白さんの泣き顔にはこう――ぐっときてしまうものがある。



「散々キスマつけといてよく言うわ。この際だから言うけど、普通にバレてんぞ」



 彼女の制服の襟からちらちら覗く赤い所有印。みんな見て見ぬふりをしているが、何となく察している。

 いつ何時も消えることのないそれに、俺ですら鳥肌が止まらないのだ。酷い執着心を見てしまったというか、クラスメートの玄を見る目が変わりつつあるのは絶対にそのせいだと思っている。


 は、と軽く息を吐いた目の前の彼が薄く笑った。



「当たり前だろ。そのためにつけてんだから」



 え? 待って、怖い。いや、めっちゃ怖いって。

 せっかく風呂で温まったのに悪寒が止まらないんですけど。


 思わず自身の体を抱え込み、ぶるぶると震え上がる。


 少なくとも、俺が今まで見てきた中で玄にキスマをつけられている子はいなかった。玄がつけられてるのは何回かあったけど。


 玄と白さんが遂にくっついたと聞いた時は、ようやく報われたか、と涙腺が緩んだ。

 周りの正直な意見を抜粋すると、「真面目ちゃんが最恐プレイボーイを手に負えるのか?」、「一ヶ月もしないで別れるのでは」といったもので。俺としては、お前ら何も分かってねえな! と叫びたい。


 これは玄の初恋だと俺は思っている。そして、最初で最後だとも思っている。

 間違いなく、激重感情を拗らせた男がここにいるわけであって。


 二人が付き合い始めてしばらくは、玄と以前関係のあった女の子が白さんにちょっかいを出そうとしていた。まあそれは失敗に終わったんだけど。


 というのも、白さんに直接手が下される前に、玄があっさりと片付けてしまうからだ。

 悪巧みをしていたらしい女の子に、ガンを飛ばしながら詰っていたのを見た時は流石の俺も引いた。怖すぎて漏らすかと思った。



「いやあ……玄くんが実はやべえ人なんじゃないかって、もっぱらの噂ですよ」



 溢れる異常なまでの愛情に、周囲は段々と「あんな男に捕まって白さん可哀想」という同情に移りつつある。

 玄への恋慕がある女の子は最初こそ存在すれども、次第に落胆や失望へとその瞳を染めていった。



「別にどうでもいい。羊ちゃんは好きって言ってくれたし」


「はいはい惚気アザマース」



 どこか落ち込んでいるように見えたのは気のせいだったかもしれない。

 しっかりカウンター攻撃を食らったことだし、そろそろ切り上げることにする。


 本来の目的であった充電器も無事にゲットして、立ち上がった。



「……あれ。玄、ピアス変えた?」



 そういえば何か違うと思ったら。

 いま彼の耳に光っているのは、小さいオレンジの石が埋め込まれたピアスだ。シンプルではあるが、黒髪の彼がつけていることで少々目を引く。



「うん、今さっき変えた」


「えっ、珍し」



 ずっと同じやつを毎日欠かさずつけていたのに。

 素直に驚いていると、玄が自身の耳朶を触りながら微笑んだ。



「羊ちゃんがくれた」



 その手つきは優しく、愛おしげで。

 ここだけ切り取ればハートフルなんだけど――とまあ、これも余計なお世話か。


 そろそろ戻らないと勝手に最下位にされて、そのうえ一発芸を要求されるかもしれない。

 じゃあまたあとで、と玄に一声かけて背を向けた時だった。



「おわっ、」



 引き戸に手を掛けたのと同時、それが開いたかと思えば、坂井の姿が眼前に迫る。



「ああ、ごめん」


「いや……坂井、湯あたりでもした? 顔赤くね?」



 部屋割りは基本的に班ごとで、玄と俺の他に、坂井と霧島も同室だった。

 玄は以前ほどではないにしても、クラスの中で浮いている。坂井は自ら俺たちと同じ班になると言い出して、さすが学級委員だなという感想を抱いたのは確かだ。



「え? そうかな。全然何ともないけど」



 人の良さそうな笑顔。

 正直な話をすると、俺は坂井が少しだけ苦手だ。いつも穏やかに笑っているが、何となく胡散臭さを感じてしまう。


 ふうん、と適当に相槌を打って、彼の横を通り過ぎた。



「あ、津山。他の部屋行くのはいいけど、消灯までにはちゃんと戻れよ」


「ほいほーい」



 ひらひらと手を振って答える。


 霧島も他の部屋へ行ってしばらくは戻って来なさそうだし、玄と坂井は二人きりで大丈夫だろうか。



「……ま、いっか」



 一人呟いて、廊下を急ぐ。



「お、西本さん。やっほー」



 ちょうどロビーに差し掛かった頃、きょろきょろと辺りを見渡しながらこちらへ歩いてくる女の子とかち合った。

 彼女は俺の言葉に顔を向けると、小走りで近付いてくる。



「津山くん、羊のこと見なかった? さっき部屋出てって、結構経つんだけど戻ってこなくて」



 たぶん狼谷くんのところに行ったとは思うんだけど、とため息をついた西本さんに、俺は「ああ」と声を上げた。



「ついさっきまで俺らの部屋にいたよ。出てくるとこ見た。入れ違ったんじゃない?」


「ほんと? そっか、ありがとう」



 安堵したように眉尻を下げた彼女は、さながら子供の帰りを待ちわびる母親だ。

 西本さんが白さんのことを大切に想っているのは常々伝わってくるが、過保護では? と感じることもしばしばある。



「ねえ、津山くん」


「んー?」



 会話終了かと思いきや、珍しく彼女の方から切り出してきた。

 軽く首を傾げ続きを促す。



「……津山くんって、キスしたことある?」



 神妙な面持ちで問うてきた様子に、思わず目を見開いた。


 え? なに? 俺、なんか試されてんの?



「え〜……まあ、うん。あるよ」


「それって、彼女?」



 質問を重ねられて、ますます困惑してしまう。

 本当に珍しい。いや、珍しいというか、らしくない。


 西本さんとは連絡先を交換していて、ちょくちょくやり取りする仲ではあった。

 といっても、きっかけはお互いの友人の件で。二人の恋路をさり気なく応援してあげよう、といった具合に情報交換をしていた。


 白さんの変化を西本さんから聞いていたこともあって、俺は二人がいずれ結ばれるだろうと確信を持っていたのだ。



「そーだね。彼女かな」



 こんな俺だけど、まあ一応付き合ったら尽くすタイプなんですよ。と、そんな情報は不要だと思われるので黙っておく。


 中学生の頃、初めての彼女と初めてのキスをした。あの時の俺は可愛かった。何せガチガチに緊張して、手すら自分から繋げなかったのだ。


 当時の彼女は一つ年上で、だからこそ甘えていた部分もある。

 そんな俺に愛想を尽かしたのか、彼女は残酷にも別れ際にこう言い放った。



『岬って、必死だよね。なんかいつも余裕なさそう』



 それが当時は非常に堪えた。

 ガラスのハートを粉々に砕かれ、軽く半年は引き摺った。


 陰気臭い自分とおさらばしたくて、高校入学と同時に髪を明るくして。ピアスもばちばちに開けて、制服も着崩して。


 経験がない自分が、男として価値がないと突きつけられている。

 玄の真似をして女の子と遊ぶようになった。それが今までずるずるだらだらと続いていて、最早抜け出し方が分からない。


 キスなんて。それ以上も、何もかも。

 彼女以外の女の子といくらでも済ませてしまった。



「そっか。……あのさ、ちょっと聞きたいんだけど」



 苦々しい記憶を思い出して後悔した。


 現実に引き戻されたのは西本さんの声で、俺は我に返る。



「カップルって、どれくらいでキスするのが普通なの?」


「えっ?」



 気の抜けた返事をしてしまった。

 いやだって、そんなのはネットで調べたらいくらでも出てくるもんじゃないの?



「さっき、羊にそうやって聞かれてさ。でも私、経験ないから誤魔化して答えちゃったんだよね。だから有識者の津山くんに聞いてみようかなと思ったんだけど」



 揶揄われているのかと勘ぐったが、どうやら彼女は本気のようだ。

 顎に手を当てて考え込むその仕草に、生真面目な性格が滲み出ている。



「そういうのって、普通男子に聞かなくない?」


「ええ……でも周りにこんなこと聞ける人いないし」



 淡々と受け答える彼女は、俺のことを本当にただの友達――いや、クラスメートだとしか思っていないのだろう。

 そういう淡白であっさりしたところは嫌いじゃない。久方ぶりに気遣い無用の女友達ができたようで、俺は結構嬉しかったり。



「西本さんってさー。しっかりしてるけど、ちょっと危機感足りないよね」



 わざと意地悪く告げると、途端にむっとした顔で彼女が視線を送ってくる。



「馬鹿にしてる?」


「してないよ。でもさ、」



 距離を詰めた俺に、数歩後ずさる西本さん。

 彼女にぐっと顔を近付けて、耳元で囁いた。



「男にそんなこと言ったら、ぱくっと食べられちゃうかもしれないよ?」



 特に男子高校生なんてオオカミだからね。

 そんなお風呂上がりにショートパンツで生足晒して、男子部屋の方に来ちゃだめ。髪の毛だって、しっとり濡れて色っぽくなっちゃってる。



「でも、津山くんはそんなことしないでしょ?」



 僅かな沈黙の後、彼女はそう言った。


 表情は先程と変わらず、難しそうに眉根を寄せたまま。何を変なことを言っているんだ、と俺を咎めるかのように、至極当然のように。



「……え〜〜? 俺だって男の子だよ? 何するか分かんないよ〜?」



 顔を離して、いつも通り明るく声色を整える。


 西本さんは今一度「しないよ」と断言して、ふわりと微笑んだ。



「だって津山くん、人が嫌がることはしないでしょ」



 息が詰まった。

 すとん、と自分の中にその言葉が落ちてきて、呆気なく吸収されていく。


 黙り込んだ俺に、今度は彼女が少し意地悪な顔をした。



「意外とヘタレだよね、津山くん」


「な――」



 一番言われたくないはずの言葉だった。

 馬鹿にされた過去の自分とは決別したくて、俺は自ら道を誤ったはずだった。


 それなのに、いま真っ向から彼女にぶつけられても、不思議と嫌悪感はない。ただ純粋な羞恥だけが全身を巡って、頬を熱くした。


 見つけないで欲しい。そんな俺、もう捨てたのに。



「なんちゃって。うそうそ。津山くんは優しいよ」


「今更なんですけど……」



 フォローする気ある? それ。

 小さくぼやいた俺に、西本さんは軽く受け流してから問い直す。



「ね、結局どうなの? 付き合ってからどれくらいでするの?」



 まだ聞くの? メンタル鋼すぎない?

 賢いんだか天然なんだか、未だに掴みきれない。



「……や、まあ、ほんとに好きなら期間とか関係なくね?」



 諸説あり、だけどさ。したくなったらするだろうし、大事にしたいならすればいい。


 柄にもないことを言っている自覚はあった。散々女の子と遊んでおいて、全く説得力のない言葉だ。



「そっか」



 西本さんは安心したように、短く零した。良かったあ、と息を吐いて頬を染める。



「私、『羊がどうしたいかじゃない?』って偉そうに言っちゃったんだけど、正解だったみたいで良かった」



 納得したように何度か頷き、彼女はそれから「ありがとう」と俺を見上げた。



「引き止めてごめんね! おやすみ」



 踵を返した背中。咄嗟にその腕を掴む。

 振り返った彼女の瞳に、俺が映った。



「あの、さ」


「うん」


「……他の男には、そういうこと聞かない方がいいよ」



 それは単なる事実だったかもしれないし、はたまた私情だったかもしれない。



「あはは。そうだね、気を付ける」



 なんてことないように笑い飛ばした彼女には、きっと微塵も伝わってないんだろうけど。

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