第5話_自分で選んだ人と
二人が交際を始めたことは、すぐに父王へ報告された。
エルディナスが自分で報告した。
「まだ結婚すると決めたわけではありません」
ティルシェが念を押すと、彼は頷いた。
「承知しています」
「なら、なぜそんなに緊張しているの?」
「陛下がこちらを睨んでいるので」
父は確かに睨んでいた。
「娘を泣かせたら許さんぞ」
「はい」
「ティルシェが嫌だと言ったことはするな」
「はい」
ティルシェは父を見た。
父も少し変わった。
「お父様がそれを言うの?」
「……反省している」
父は咳払いをした。
「だから言っている」
エルディナスは真面目に頷いた。
「承知しました」
その夜、母とセレフィナも交えて食事をした。
セレフィナは以前より落ち着いていた。
公務停止が解けたあと、今度は自分から地方の慈善院へ行くようになった。
帳簿も必ず確認する。
「お姉様」
食事のあと、妹が小声で言った。
「公爵令息、お姉様のこと見すぎじゃない?」
「そう?」
「さっきからずっとよ」
ティルシェが向かいを見る。
エルディナスと目が合った。
彼は逸らさなかった。
「見ていたでしょう」
「はい」
「なぜ?」
「好きなので」
セレフィナが吹き出した。
「すごい」
「何が?」
「ローディン様とは全然違う」
その名前が出ても、ティルシェの胸はもう動かなかった。
「比べなくていいわ」
「そうだね」
セレフィナは素直に頷いた。
◇
ローディンが王都へ戻ってきたのは、それから半年後だった。
実家の手続きのためらしい。
ティルシェは王宮の廊下で偶然会った。
以前の騎士服ではない。
地味な上着を着ていた。
「殿下」
ローディンが頭を下げる。
「久しぶりです」
「ええ」
通り過ぎようとすると、呼び止められた。
「少しだけ、お時間をいただけませんか」
ティルシェは時計を見た。
「十分なら」
「ありがとうございます」
中庭へ移動した。
ローディンはしばらく何も言わなかった。
「公爵令息と交際されていると聞きました」
「はい」
「結婚するのですか」
「まだ決めていません」
実際には、そろそろ考えてもいいと思っている。
それをローディンへ話す必要はない。
「私は」
ローディンが言った。
「ずっと、あなたなら大丈夫だと思っていました」
「そうですね」
「北方のことも。公務のことも。何があっても自分で解決できる人だと」
ティルシェは黙って聞いた。
「それが、あなたを放っておいていい理由にはならなかった」
以前の彼なら言わなかった言葉だった。
「今さらですが、分かりました」
「そうですか」
「謝っても、許してはもらえないでしょうか」
「謝罪は受け取ります」
ローディンが顔を上げた。
「では――」
「でも、元には戻りません」
彼の表情が止まる。
「私はあなたを恨んでいません。けれど、もう一度婚約したいとも思いません」
「私が変わっても?」
「変わったなら、それはあなたのこれからのために使ってください」
ローディンは何も言えなかった。
ティルシェは時計を見る。
「十分です」
「ティルシェ」
昔の呼び方だった。
「最後に一つだけ」
「何でしょう」
「私は、あなたを失ってから、どれだけ助けられていたか分かりました」
ティルシェは少し考えた。
「私はあなたを助けていたつもりはありません」
「え?」
「婚約者だから、一緒にやろうとしていただけです。でもあなたは、一緒にやる必要がないと思っていた」
ローディンは俯いた。
「そうですね」
「では、失礼します」
今度は呼び止められなかった。
廊下へ戻ると、少し先にエルディナスがいた。
「待っていたの?」
「会議が終わったので」
「いつから?」
「今来たところです」
「本当に?」
「半分くらいは」
ティルシェは笑った。
「聞いていた?」
「聞こうと思えば聞けましたが、離れていました」
「なぜ?」
「あなたが一人で話すと決めたように見えたので」
ティルシェは彼の隣へ並んだ。
「終わったわ」
「はい」
「何を話したか聞かないの?」
「話したければ聞きます」
「では、あとで話す」
「分かりました」
それで終わった。
ティルシェはその簡単さが好きだった。
◇
エルディナスが正式に求婚したのは、交際を始めて一年後だった。
場所は霜の谷だった。
二人で結界の定期点検に来ていた。
修復された祭壇の周辺には、小さな研究所が建っている。
夕方、仕事を終えて外へ出ると、山の雪が夕日に照らされていた。
「ティルシェ」
「何?」
「今日は仕事ではないお願いがあります」
「何かしら」
エルディナスは緊張していた。
ティルシェにはもう分かった。
「聞きます」
「私と結婚してください」
彼は指輪の箱を出した。
「あなたが王女だからでも、研究者だからでもありません。その全部を含めて、あなたと暮らしたい」
ティルシェは黙って聞いた。
「仕事は続けてください。王都へ行くのも北方へ来るのも止めません。公爵家の仕事については、できることを相談したいです。私が勝手に決めたら怒ってください」
「もう怒ったことがあるでしょう」
「何度か」
「学習した?」
「かなり」
「本当に?」
「最近は視察の日程を組む前にも、必ずあなたの希望を確認しています」
ティルシェは笑った。
「そうね」
「返事を急かすつもりは――」
「はい」
エルディナスが止まった。
「今、何と?」
「結婚します」
「……もう一度言ってもらえますか」
「嫌です」
「なぜ」
「一度で聞いて」
「聞きました。ただ、確認を」
「私の返事を疑うの?」
「そう言われると困ります」
彼は珍しく慌てた。
ティルシェは手を差し出す。
「指輪を」
「はい」
指輪はぴったりだった。
「サイズ、いつ測ったの?」
「以前、手袋を贈っていいか聞いたときに」
「そのためだったの?」
「半分は」
「用意がいいわね」
「一年待ちましたから」
エルディナスはティルシェの手を包んだ。
強く握らない。
「これからも一つだけ、約束して」
「何でも」
「私ができるからという理由で、私に全部やらせないで」
彼はすぐに答えた。
「もちろんです」
「あなたもね。自分ができるからって、一人で全部やらないで」
今度は少し間があった。
「努力します」
「そこは即答じゃないの?」
「守れない約束はしたくないので」
「正直ね」
「あなたに教わりました」
ティルシェは笑った。
◇
結婚式は翌年の春に行われた。
セレフィナは花嫁の支度を手伝った。
「お姉様、髪飾りはこっちの方がいいと思う」
「重くない?」
「少し重い」
「なら軽い方」
「即決ね」
「一日つけるのは私だもの」
セレフィナが笑った。
「昔のお姉様なら、私がこっちがいいって言ったら選んでくれたかも」
「そうかもしれないわね」
「ごめん」
「今のは謝らなくていいの」
「難しい」
「少しずつでいいでしょう」
妹との関係は、以前とは違う。
何でも話す姉妹ではない。
毎日一緒にいるわけでもない。
それでも、今の方が楽だった。
互いの境界がある。
嫌なら嫌と言える。
助けてほしければ頼む。
断られても、相手を責めない。
母も控室へ来た。
「きれいよ、ティルシェ」
「ありがとうございます」
「幸せになってね」
「なります」
母は少し驚き、それから笑った。
「そうね。あなたなら自分で決めるわね」
「はい」
今度の「あなたなら」は嫌ではなかった。
何をしても大丈夫だという意味ではない。
自分の人生を選べると認められた言葉だった。
祭壇の前ではエルディナスが待っていた。
ティルシェが隣へ立つ。
「綺麗です」
「ありがとう」
「本当に」
「一度で聞こえたわ」
「一度では足りません」
「今日はよく喋るのね」
「緊張しています」
「あなたが?」
「かなり」
司祭が咳払いをする。
二人は黙った。
誓約の言葉を交わす。
ティルシェは自分の意思で「はい」と答えた。
誰かに頼まれたからではない。
王女だからでもない。
姉だからでもない。
自分で選んだ。
祝宴が始まると、エルディナスは本当にティルシェのそばを離れなかった。
「少し近すぎない?」
「夫なので」
「昨日までと何が違うの?」
「正式に夫です」
「それを理由に何でも許されると思わないでね」
「もちろんです」
返事だけは早い。
「疲れていませんか」
「まだ大丈夫」
「食事は?」
「食べたわ」
「水は?」
「飲んだ」
「靴は痛くないですか」
「エルディナス」
「はい」
「過保護」
「知っています」
「少し減らして」
「努力します」
「またそれ?」
「ゼロにはできないので」
ティルシェは呆れて笑った。
少し離れたところでは、セレフィナが外国使節と話している。
言葉を一度間違えた。
顔を赤くしたが、自分で言い直した。
誰かの方を見て助けを求めることはなかった。
父と母もそれを見ている。
ローディンはこの場にはいない。
爵位継承権も騎士の地位も失い、遠い領地で働いている。
彼がどう暮らしているのか、ティルシェは詳しく知らない。
知ろうとも思わなかった。
彼が失ったものは大きい。
婚約。
将来の爵位。
騎士としての立場。
王都で築いていた信用。
だが、それはティルシェが奪ったものではない。
自分で確認せず、自分に都合のいいことだけを信じ、責任を誰かへ任せ続けた結果だった。
ティルシェはもう、彼の後始末をしない。
「ティルシェ」
エルディナスに呼ばれ、振り向く。
「踊りませんか」
「一曲だけ」
「二曲」
「一曲」
「一曲踊って、休んでからもう一曲」
「それなら考える」
「ありがとうございます」
差し出された手を取る。
音楽が始まった。
ティルシェは長い間、強いと言われてきた。
何でもできる。
一人で大丈夫。
だから助けなくていい。
だから我慢できる。
そんな意味で使われる「強い」が嫌いだった。
本当に強いというのは、何でも一人で背負うことではない。
嫌なことを嫌だと言うこと。
助けてほしいときに助けを求めること。
できても、やりたくないなら断ること。
そして、自分の選択を他人に渡さないこと。
それを知るまで、ずいぶん時間がかかった。
「何を考えているのですか」
踊りながらエルディナスが尋ねる。
「昔のこと」
「嫌なことですか」
「少し。でも、もう大丈夫」
言ってから、ティルシェは笑った。
「今の大丈夫は、本当よ」
「では信じます」
「簡単ね」
「あなたがそう言ったので」
それでいい。
ティルシェは彼の手を握る。
これから先、困ることはきっとある。
意見が合わない日もある。
エルディナスの過保護に腹を立てることもあるだろう。
それでも、そのたびに話せばいい。
勝手に決めず、勝手に諦めず、相手の返事を聞けばいい。
春の光が広間へ差し込んでいる。
ティルシェは誰かの身代わりではない。
便利な第一王女でもない。
何をされても大丈夫な強い女でもない。
ティルシェはティルシェだった。
そして、その自分を選んだ男と、これからの人生を歩いていく。
お読みいただきありがとうございました!
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