第2話_大丈夫ではないわ
北方派遣が決まったのは九月上旬だった。ティルシェが王都を出発したのは、その五日後だった。
ローディンは見送りに来なかった。
騎士団の任務があると聞いていた。
代わりにセレフィナが門まで来た。
「お姉様、気をつけてね」
「ありがとう」
「お土産はいらないわ。北方には可愛いものがなさそうだもの」
ティルシェは妹を見た。
冗談なのだろう。
「行ってきます」
それだけ答え、馬車へ乗った。
霜の谷までは十二日かかった。
北へ進むほど道は悪くなり、最後の二日は雪だった。
現地の状況は、王都で聞いていたより悪かった。
三つの村がすでに避難している。
魔獣は夜だけでなく昼間にも現れ、畑や家畜小屋を荒らしていた。
「すべて谷の東側から出ています」
現地の騎士団長が地図を広げる。
赤い印は一か所へ集中していた。
古い王家の祭壇。
翌朝、ティルシェは護衛と魔術師を連れて向かった。
祭壇の外郭扉は、王宮から持参した正規の祭壇鍵で開いた。その先にはもう一枚、古い石扉がある。こちらには王家の血に反応する術式が残っていた。ティルシェが手を触れると青白い光が走り、中枢区画への扉が開く。
その奥には、結界の核となる巨大な魔石があった。
本来あるべき台座から、わずかに外れている。
「自然に動いたとは思えません」
魔術師が床と外郭側の固定機構を調べた。
「中枢区画へ入った形跡はありません。ですが、外郭から魔力を抜くために固定機構へ細工をした者がいます。そのせいで核石の均衡が崩れ、台座からずれたのでしょう」
魔石は谷の魔力を安定させるためのものだった。
位置がずれたことで地脈が乱れ、山中の魔獣が住処を追われている。
「元へ戻せば?」
「人の力では動きません。古代術式を使う必要があります」
その日から調査が始まった。
一週間で終わると思っていた。
一か月かかった。
古代文字の記録を集め、王都の魔術院へ照会し、祭壇内部の術式を一つずつ調べる。
その間にも被害は続いた。
ティルシェは避難所へ足を運んだ。
家を失った老人。
家畜をすべて失った家族。
魔獣に腕を噛まれた少年。
誰も、王女が来ただけで喜んではくれない。
必要なのは食料と薬と安全な家だった。
ティルシェは王都へ追加の物資を求めた。
返事を待つ間、近隣領地から穀物を買い付けた。
王族用の宿舎は負傷者へ譲った。
自分は役所の二階にある小さな部屋で寝た。
二か月目。
王都からセレフィナの手紙が届いた。
『お姉様のおかげで、こちらは平和です。ローディン様が冬至祭の警備責任者になったので、私も準備をお手伝いしています。広場の噴水を光らせるそうです。とても楽しみです』
ティルシェは一度読み、便箋を畳んだ。
ローディンからの手紙はなかった。
婚約者が危険な地域に二か月いる。
それでも彼は何も送ってこない。
忙しいのだろう。
そう考えようとした。
十二月初旬、滞在は三か月目に入った。
ようやく魔石を戻す方法が分かった。
必要なのは王族の魔力と、四つの補助魔石。
補助魔石は王都の宝物庫に保管されている。
ティルシェはすぐに使用許可を求めた。
十日後、返事が届いた。
『冬至祭で使用予定のため、祭り終了後に発送する』
意味が分からなかった。
補助魔石は王家が管理する古代術式用の魔道具で、平時には王宮宝物庫が保管している。王命があれば結界修復などへ優先使用される一方、異常のない年には冬至祭の王家儀礼で魔力供給源として使う慣例があった。
今年もすでに祭礼使用の許可が下り、広場の噴水を光らせる演出へ組み込まれていた。
しかし、祭りは十日ほど後。
その間にも魔獣は出る。
同封されていた母の手紙を読んで、さらに言葉を失った。
『今年はセレフィナが初めて冬至祭の主催を手伝っています。あの子がとても楽しみにしているので、できれば祭りが終わるまで待ってあげてちょうだい』
ティルシェは手紙を机へ置いた。
窓の外では雪が降っている。
昨日、避難所で七歳の子どもが高熱を出した。
薬はあと五日分しかない。
ティルシェは父へ手紙を書いた。
『祭りが終わるまで待てません。補助魔石がなければ結界を修復できず、被害が拡大します。三日以内に発送してください。冬至祭の演出と領民の安全を比較する理由はありません』
書き終えたあと、もう一枚の便箋を出した。
宛名はローディン。
短い手紙だった。
『補助魔石が冬至祭に使用されるため、こちらへの発送が遅れています。あなたは警備責任者と聞きました。事情をご存じなら、祭りでの使用を止めるよう進言してください』
ローディンからの返事は、その六日後に来た。冬至祭までは、もう数日しかなかった。
『祭りはすでに準備が進んでいる。今から変更すれば多くの者が困る。君の方はこれまで三か月対処できたのだから、あと数日くらい何とかなるだろう。君なら大丈夫だと信じている』
ティルシェは最後まで読んだ。
それから、もう一度読んだ。
怒りは湧かなかった。
代わりに、はっきり分かった。
この人とは結婚できない。
婚約して二年。
彼の良いところを探そうとしてきた。
政略婚なのだから、最初から愛情がなくてもいいと思っていた。
時間をかけて家族になればいい。
互いに支え合えるようになればいい。
そう考えていた。
けれどローディンが望んでいるのは、支え合う関係ではない。
ティルシェが一人で立ち続けることだ。
自分はセレフィナを助ける。
ティルシェは強いから放っておく。
それで結婚後も問題ないと思っている。
もし子どもが生まれたら。
もしティルシェが病気になったら。
もし本当に助けてほしい日が来たら。
そのときも彼は言うのだろう。
君なら大丈夫。
ティルシェは手紙を折り畳んだ。
「大丈夫ではないわ」
誰もいない部屋で、初めて口にした。
◇
冬至祭を待たず、父王の命令で補助魔石は十二月半ばに発送された。
冬至祭では代用品が使われたらしい。
ティルシェは気にしなかった。
祭壇の固定機構に人為的な細工があった件も、現地から王宮へ報告していた。王宮側では外郭鍵の貸与記録を調べたが、該当する申請は「北方遺跡の事前調査」とだけ記され、具体的な調査地に霜の谷の名がなかった。貸与期限内に正規の鍵が返却されていたこともあり、その時点では祭壇への侵入と結びつける証拠がなく、調査はそこで止まっていた。
補助魔石が霜の谷へ届いたのは年明け前で、結界修復にはそこからさらに二週間かかった。
古代術式を起動すると、巨大な魔石がゆっくり台座へ戻った。
谷を満たしていた不安定な魔力が静まっていく。
数日後には魔獣の数が減った。
一月後半から二月にかけて、避難していた村人たちを順に帰還させた。ティルシェは最後の村の生活基盤が戻ったことを確認し、二月下旬に霜の谷を発った。
十二日間の帰路を経て王都へ着いたのは三月上旬。九月に王都を出てから、ほぼ半年が経っていた。
王都へ到着した日は、よく晴れていた。
王宮前の広場には人が集まっている。
ティルシェの帰還を迎えるためではなかった。
セレフィナが主催する春の慈善祭だった。
壇上には妹がいる。
その隣にはローディンがいた。
彼は騎士服を着て、セレフィナをエスコートしている。
ティルシェの馬車が広場を通っても、二人は気づかなかった。
侍女だけが慌てて迎えに来た。
「殿下。本日お戻りでしたか」
「昨日、到着予定を送ったはずですが」
「申し訳ございません。慈善祭の準備で連絡が……」
「分かりました」
ティルシェは自室へ戻った。
半年ぶりの部屋は、出発した日とほとんど変わっていない。
湯を使い、旅装を着替える。
鏡を見ると少し痩せていた。
髪も以前より短い。北方で邪魔になり、現地で侍女に短く切ってもらった。
夕方、父が訪ねてきた。
「戻っていたのか」
「はい」
「なぜ祭りへ来なかった?」
「帰還したばかりですので」
「そうか。北方の件はよくやった。報告は受けている」
「ありがとうございます」
「しばらく休め」
父が立ち上がろうとする。
「陛下」
ティルシェは呼び止めた。
「出発前のお約束を覚えていらっしゃいますか」
父の動きが止まった。
「公務分担の話か」
「はい」
「今まで通りでは駄目なのか?」
「駄目です」
すぐに答えた。
「私は今後、セレフィナの代理をいたしません」
「姉妹なのだから、助け合うこともあるだろう」
「助け合うのでしたら、私の公務をセレフィナが代わったことは何度ありますか?」
父は黙った。
「一度もありません」
「ティルシェ」
「私は王女として必要な仕事をします。ですが、妹が嫌がったからという理由で、その仕事まで引き受けることはしません」
父は長く息を吐いた。
「分かった。宰相と調整する」
「ありがとうございます」
「それだけか?」
「もう一つあります」
ティルシェは机の引き出しから一通の書類を出した。
北方を発つ前に、自分で作ったものだった。
「ローディン・カシュナとの婚約を解消したいです」
父が目を見開いた。
◇
翌日、ローディンがティルシェの部屋へ来た。
婚約解消の話を聞いたらしい。
「どういうことだ」
挨拶もなく言われた。
ティルシェは侍女に茶を頼み、向かいの椅子を示した。
「座ってください」
「そんな場合じゃない。なぜ婚約を解消するんだ」
「結婚できないと思ったからです」
「理由になっていない」
「十分な理由でしょう」
ローディンは苛立ったように椅子へ座った。
「北方へ行かせたことを怒っているのか?」
「それだけではありません」
「なら何だ」
ティルシェは彼の顔を見た。
「私は北方に半年いました」
「知っている」
「あなたから手紙が来たのは一度だけです」
「君から質問が来たから返しただろう」
「そうですね」
「何が問題なんだ? 君は仕事で行っていた。遊びではない」
やはり分からないらしい。
「私が危険な場所にいても、心配ではなかった?」
「君なら大丈夫だと思っていた」
迷いなく答えた。
ティルシェは少し笑った。
「やっぱり、それなのね」
「何がだ」
「あなたは私にずっと同じことを言います。君なら大丈夫。君は強い。君なら一人でできる」
「褒めているんだぞ」
「私は一度も嬉しいと言っていません」
ローディンが黙った。
「あなたはセレフィナが困れば助ける。怖いと言えば付き添う。泣けば庇う。でも私が困っても、私なら大丈夫で終わる」
「セレフィナ殿下は君とは違う」
「知っています」
「なら――」
「だからといって、私が何も感じない人間になるわけではありません」
ティルシェは遮った。
「私はあなたに妹と同じ扱いをしてほしいのではない。婚約者として、私がどう思っているかを一度くらい聞いてほしかった」
「聞いているじゃないか」
「今、婚約を解消すると言ったからでしょう」
ローディンの顔が強張る。
「私は二年間、何度も言いました。セレフィナの代理ばかりするのは嫌だと。あなたが妹ばかり庇うのも嫌だと。そのたびに、あなたは私なら大丈夫だと言った」
「そんなことで婚約を壊すのか」
「そんなこと、なのね」
その一言で、最後の迷いも消えた。
「婚約は解消します」
「待て。私は認めない」
「婚約は王家と侯爵家の契約です。陛下とカシュナ侯爵にはすでに申し入れました」
「父上に?」
「はい」
ローディンは立ち上がった。
「勝手に話を進めるな!」
「あなたも私に相談せず、セレフィナのために何度も私の予定を変えようとしたでしょう」
「それとこれは違う」
「私には同じです」
扉の外で侍女が待っている。
ティルシェは呼び鈴へ手を伸ばした。
「話は終わりです」
「ティルシェ」
「今までありがとうございました」
ローディンは何か言おうとした。
けれど侍女が入ってくると、それ以上は言えなかった。




