第1話_「今回だけ」を最後に
「ティルシェなら大丈夫だろう」
婚約者のローディンがそう言った瞬間、第一王女ティルシェは、またかと思った。
王宮の小会議室には、父である国王と母、第二王女セレフィナ、それからローディンがいる。机の上には、北方へ派遣される王族使節団の名簿が置かれていた。
本来、一番上に書かれているのはセレフィナの名前だった。
だが、その名前には線が引かれている。
代わりに書き加えられていたのは、ティルシェの名だった。
「理由を聞いてもよろしいですか」
ティルシェが父へ尋ねると、答えたのはセレフィナだった。
「昨日から頭が痛いの。長旅をしたら、もっと悪くなるかもしれないでしょう?」
妹は十八歳。昨夜まで王宮の舞踏会に出ており、ローディンとも二曲踊っていたと聞いている。
「医師には診てもらったの?」
「まだよ。でも、自分の体のことだもの。具合が悪いかどうかくらい分かるわ」
「では、診察を受けてから決めればいいでしょう」
ティルシェがそう返すと、ローディンが眉を寄せた。
「そこまでしなくてもいいじゃないか。セレフィナ殿下が辛いとおっしゃっているんだ」
彼はティルシェの婚約者だった。
二年前、ティルシェが十九歳のときに婚約した。カシュナ侯爵家の嫡男で、現在二十三歳。王立騎士団に所属しており、家柄も年齢も釣り合うという理由で決まった政略婚だった。
恋愛から始まった関係ではない。それでも結婚する以上、互いに尊重できる関係にはなりたいとティルシェは考えていた。
だから婚約してから二年間、彼の仕事の話を聞き、侯爵家の行事にも出席し、将来の生活についても少しずつ話してきた。
そのローディンが、今はティルシェではなくセレフィナの隣に座っている。
「今回の派遣には、あなたも同行する予定だったでしょう」
ティルシェが尋ねると、ローディンは頷いた。
「セレフィナ殿下が行かれるなら、護衛として同行する予定だった」
「私が代わるなら?」
「騎士団の別任務がある。私は王都へ残る」
迷いのない返事だった。
ティルシェは名簿へ視線を落とした。
北方の霜の谷では、一か月ほど前から魔獣が増えている。現地には王家が管理する古い祭壇がある。外郭までは王宮保管の祭壇鍵で入れるが、中枢区画を開き、結界の核となる魔石や術式を操作できるのは王家の血を引く者だけだった。そのため異常の調査と修復には王族本人の派遣が必要だった。
父王は国を離れられない。
王太子である弟は南方諸国との会談中。
そこで、これまで地方公務の経験が少なかったセレフィナが派遣されることになった。
その決定が、頭痛一つでティルシェへ変更されようとしている。
「お姉様なら慣れているでしょう?」
セレフィナが言った。
「北方にも何度か行ったことがあるし、魔術にも詳しいもの。私が行くより、きっと皆も安心よ」
悪意はないのだろう。
それが余計に疲れた。
「ティルシェ」
母が優しく呼びかける。
「今回だけお願いできない?」
今回だけ。
ティルシェはその言葉を、これまで何度聞いただろう。
◇
最初は十二歳の春だった。
神殿の奉納式で、セレフィナが人前へ出るのを怖がった。
「お姉様が一緒ならできる」
そう言われ、ティルシェは妹の分まで役目を引き受けた。
十三歳の冬には、外国の王妃を迎える茶会があった。
セレフィナは外国語を間違えたら恥ずかしいと言った。
「ティルシェは語学が得意でしょう?」
母に頼まれ、ティルシェが代わった。
十四歳の夏は孤児院への慰問。
暑い場所へ行くと具合が悪くなるかもしれないとセレフィナが泣いた。
十五歳の秋は収穫祭。
前日に遊びへ出かけたセレフィナが足首を痛めた。
十六歳になるころには、誰も理由を詳しく聞かなくなっていた。
セレフィナが嫌がる。
ティルシェが代わる。
それが王宮では普通になった。
ティルシェ自身も、長い間それをおかしいと思わなかった。
姉なのだから。
第一王女なのだから。
自分の方が得意なのだから。
できる者がやればいい。
そう考えていた。
十八歳のとき、東部で川が氾濫した。
被災地へ王族が向かうことになり、当初はセレフィナが派遣される予定だった。ところが出発の二日前、妹は母へ訴えた。
「泥だらけの場所へ行ったら病気になるかもしれないわ」
結局、ティルシェが行った。
現地では食料が足りず、負傷者を収容する場所もなかった。
ティルシェは十日間滞在し、近隣領地から穀物を買い付け、王族用に用意されていた屋敷を負傷者へ開放した。自分は役所の小部屋で眠った。
帰還したとき、父は言った。
「よくやった。やはりお前に任せて正解だった」
母も褒めた。
「ティルシェなら安心だもの」
その夜、セレフィナの誕生日を祝う舞踏会が開かれた。
長旅で熱を出したティルシェは出席しなかった。
翌朝、妹が新しいドレスを着て楽しそうに踊っていたと侍女から聞いた。
そのころから、少しずつ疑問を持つようになった。
なぜ、自分ができるということが、他の人間がやらなくていい理由になるのだろう。
ローディンと婚約したのは、その翌年だった。
最初のころ、彼はティルシェの働きぶりを褒めていた。
「君は本当に何でもできるんだな」
褒め言葉だと思った。
地方行政の報告書を読んでいれば、仕事熱心だと言われた。外国使節との会談を終えれば、さすが第一王女だと笑ってくれた。
だからティルシェも、悪い人ではないと思っていた。
変わったのは、ローディンがセレフィナと親しくなってからだった。
妹は彼によく相談をした。
外国語が苦手。
公務が怖い。
父に叱られた。
舞踏会で知らない男性に話しかけられた。
ローディンはそのたびに親身になった。
「セレフィナ殿下は繊細なんだ。君とは違う」
初めてそう言われたとき、ティルシェは聞き返した。
「私とは違う?」
「君は強いだろう。少しくらい大変でも、自分で何とかできる」
ローディンは笑っていた。
悪気はなかった。
それから、同じ言葉が増えた。
「君なら一人で大丈夫だろう」
「セレフィナ殿下には誰かがついていないと」
「姉なんだから、少しくらい譲ってあげればいい」
ティルシェは何度か反論した。
そのたびにローディンは不思議そうな顔をした。
「何が不満なんだ? 私は君の能力を信頼しているんだぞ」
信頼。
便利な言葉だった。
信頼しているから、助けなくていい。
信頼しているから、心配しなくていい。
信頼しているから、他の人を優先してもいい。
ティルシェが何を感じているかだけは、一度も聞かれなかった。
◇
「ティルシェ?」
父の声で、意識が現在へ戻った。
全員が返事を待っている。
「今回だけ、代わってやってくれないか」
父も同じことを言った。
ティルシェは名簿を閉じた。
「分かりました」
セレフィナがほっとした顔をする。
母も笑った。
ローディンは当然だというように頷いた。
「ただし」
ティルシェが続けると、三人の表情が止まった。
「これを最後にしてください」
「何を?」
母が尋ねる。
「セレフィナに割り当てられた公務を、本人が嫌がったという理由だけで私へ回すことです」
「嫌がったわけではないわ」
セレフィナがすぐに反論した。
「具合が悪いのよ」
「でしたら医師の診断を受けて」
「まだ言うの?」
「王族の公務を変更するのだから、確認するのは当然でしょう」
セレフィナの目に涙が浮かんだ。
ローディンがすぐに口を開く。
「もういいだろう。君はなぜ、妹をそこまで追い詰めるんだ」
ティルシェは彼を見た。
「追い詰めている?」
「見れば分かるだろう。泣いているじゃないか」
「私が北方へ行くことについて、あなたは何も思わないの?」
ローディンは質問の意味が分からないようだった。
「仕事だろう?」
「そうね」
「君なら問題ない。北方にも慣れているし、魔術の知識もある」
「では、セレフィナも自分の仕事をするべきでは?」
「だから体調が悪いと言っている」
話は戻る。
ティルシェはそれ以上言わなかった。
「陛下。北方派遣をお受けします」
父へ向き直る。
「その代わり、帰還後に私とセレフィナの公務分担を正式に定めてください。今後は代理を当然としないことも約束していただきたいです」
父はしばらく黙った。
「分かった」
「ありがとうございます」
ティルシェは席を立った。
ローディンが追ってくる。
廊下へ出たところで腕を掴まれそうになり、ティルシェは一歩離れた。
「何?」
「怒っているのか」
「少し疲れています」
「セレフィナ殿下に当たるなよ」
ティルシェは彼の顔を見た。
「私がいつ当たったの?」
「さっきの言い方だ。医師に診てもらえだの、自分の公務をしろだの」
「事実でしょう」
「君は正しいことを言えば何を言ってもいいと思っているところがある」
胸の奥が冷えた。
ローディンは続ける。
「もう少し優しくしてやれないのか。あの方は君ほど強くないんだ」
「私が強いなら、傷つかないと思っているの?」
「そういう意味じゃない」
「では、どういう意味?」
ローディンは答えに詰まった。
ティルシェは返事を待った。
だが彼が口にしたのは、やはり同じ言葉だった。
「とにかく、君なら大丈夫だろう」
ティルシェは何も言わず、その場を離れた。
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