第6話 大賢者、Excelに敗北する
「これは魔導陣ではないのか」
古賀彰人は、パソコン画面を睨みながら言った。
「Excelです」
「格子状に術式を刻む道具に見える」
「表計算ソフトです」
「では、なぜ結合すると崩れる」
「そこがExcelの怖いところです」
今日の授業はPC基礎。
帰還者センターの訓練室には、古いが一応動くノートパソコンが並んでいる。神崎さんはマウスを聖剣の柄のように握り、白瀬さんは「間違えて壊したらどうしましょう」と画面に謝っている。黒須さんはショートカットキーを覚え始め、すでに支配の気配を漂わせていた。
古賀さんだけが、Excelに敗北していた。
雨宮さんはというと、キーボードを軍用通信機のように扱っていた。
「柏木先生。これはどこへ報告すれば」
「入力欄です」
「了解。A1地点に入力します」
「地点ではなくセルです」
霧島さんは、隣の席で黙々と入力ミスを直している。
十行ほどの表から、全角と半角の混在をすべて見つけていた。
向いている。
かなり向いている。
元大賢者。
古代語、魔法理論、錬金術、星辰観測、禁書解読に精通。
だが、オートフィルが分からない。
「A1に一月一日と入力してください」
「した」
「右下の小さい四角を下に引っ張ってください」
「増殖した」
「日付が連続します」
「一月一日が三十個並んだぞ」
「Ctrlキーを押しましたね」
「押すなと言われていない」
「押さないでください」
古賀さんは、世界の理不尽を見た顔でキーボードから手を離した。
「私は大賢者だぞ」
「はい」
「王立学院では、十二歳で禁書庫に入った」
「すごいです」
「古代竜の言語も読める」
「すごいです」
「なぜ、日付が増やせない」
「初心者だからです」
教室が静かになった。
古賀さんの眉が、ぴくりと動く。
「初心者」
「はい」
「私が」
「Excelでは」
黒須さんが低く笑った。
「大賢者にも未知の領域があるか」
「魔王よ、黙れ。貴様も昨日メールの件名に全文を書いていた」
「あれは効率化だ」
「効率化ではありません」
俺は二人を止めた。
「古賀さん。初心者になることは、負けではありません」
「しかし」
「知らないことを知らないと言える人は、伸びます」
古賀さんは、画面のセルを見つめた。
「異世界では、知らないと言えば弟子に笑われた」
「ここでは笑いません」
神崎さんが小さく手を挙げた。
「先生、俺も今、保存の仕方が分かりません」
「Ctrl+Sです」
「聖剣より短い」
「便利ですね」
白瀬さんも手を挙げた。
「すみません。私も、ファイル名に何を書けばいいか分かりません」
「謝らなくて大丈夫です。“履歴書_白瀬美莉亜”で保存しましょう」
霧島さんが、画面を見ずに言った。
「保存されていない人が三人います」
「見えているんですか」
「反射で」
「助かります」
古賀さんは、周りを見た。
勇者も聖女も魔王も暗殺者も、現代のソフトにそれぞれ負けている。
自分だけではない。
それが、少しだけ彼を落ち着かせたようだった。
「異世界では」
古賀さんは、ぽつりと言った。
「弟子の前で迷うわけにはいかなかった」
誰も茶化さなかった。
「大賢者が分からないと言えば、学院が揺れる。国王が顔色を変える。研究者が失望する。だから、分からぬ時ほど分かっている顔をした」
「疲れませんでしたか」
俺が聞くと、彼は鼻で笑った。
「疲れるに決まっている」
それは、初めて聞く本音だった。
「ここでは、分からないと言ってください」
「簡単に言うな」
「簡単ではありません。でも、訓練です」
古賀さんはしばらく画面を見つめ、それから小さく言った。
「分からない」
「はい」
「この小さい四角の意味が分からない」
「フィルハンドルです」
「名前まであるのか」
「あります」
「腹立たしい」
「覚えましょう」
「柏木」
「はい」
「私は、何から覚えればよい」
「入力、保存、表の作り方、メールの書き方。そこからです」
「初歩だな」
「初歩です」
「初歩を学ぶ大賢者か」
「強いと思います」
古賀さんは、怪訝そうに俺を見た。
「なぜだ」
「学び直せる人が、いちばん強いです」
彼は黙った。
そして、もう一度マウスを持った。
今度は、ゆっくり右下の四角を引っ張る。
一月一日。
一月二日。
一月三日。
画面に日付が並んだ。
「増えた」
「増えました」
古賀さんの顔に、ほんの少しだけ勝利の光が差した。
「これは、悪くない」
「では次は合計を出します」
「術式か」
「関数です」
「詠唱は」
「イコールから始めます」
古賀さんは、真剣な顔でメモを取った。
イコールは詠唱開始。
少し違う。
だが、今日のところはそれでいい。
大賢者は、Excelに一度敗北した。
そして、セルA1から学び直しを始めた。
授業の最後に、古賀さんは自分で作った表を保存した。
ファイル名は、練習表_古賀彰人。
拡張子まできちんと残っている。
「柏木」
「はい」
「保存できた」
「できましたね」
「消えないのか」
「保存先を間違えなければ」
「不安になる言い方をするな」
彼はそう言いながら、少し笑っていた。
大賢者が初心者になる。
その姿を、誰も笑わなかった。




