第3話 聖女様、残業は断ってください
「白瀬さん。今日は、退職理由の整理をします」
面談室の椅子に座った白瀬美莉亜は、膝の上で両手を重ねた。
「はい。ご迷惑をおかけします」
「まだ何も始まっていません」
「すみません」
「謝らなくて大丈夫です」
「すみま……はい」
一回止まった。
小さな成功である。
白瀬さんは、異世界では聖女ミリアだった。神聖魔法で兵士を癒し、瘴気に侵された村を救い、救護所では昼夜なく働いた。
現代では、介護施設で三か月働いた。
そして出勤前の駅のホームで、立てなくなった。
「退職理由欄に、何を書こうとしましたか」
彼女は視線を落とした。
「私の力不足です」
「違います」
「でも、私がもっと早く動けていたら」
「違います」
「利用者さんが困っていて、職員の方も足りなくて、私が断らなければ」
「白瀬さん」
俺は声を少しだけ低くした。
「それを、力不足とは言いません」
彼女の指が、膝の上でぎゅっと重なる。
「では、何と言うんですか」
「業務範囲の過大化です」
「ぎょうむ……?」
「本来の担当を超えて、仕事が積み上がっていたということです。加えて、慢性的な人員不足、長時間労働、相談できない環境。退職理由としては、“過重労働と役割過多により、長期的な就業継続が困難になった”」
白瀬さんは、ゆっくりその言葉を聞いた。
俺は、彼女が提出してくれた前職のメモを開いた。
勤務時間。
本来は九時から十八時。
実際には七時半に出勤し、二十一時を過ぎて帰る日が何度もあった。
担当業務。
利用者の見守り、食事補助、清掃、記録、電話対応、家族からの相談、急な欠勤者の代替。
その横に、彼女の字で小さく書かれている。
できる人がやるしかない。
「白瀬さん。この“できる人”は誰ですか」
彼女は目を伏せた。
「私です」
「なぜですか」
「頼まれたので」
「頼まれたら、全部できますか」
「……できませんでした」
それを認めるのに、彼女はひどく時間がかかった。
「できなかったことを責めるのではなく、できない量を一人に集めない仕組みが必要です」
「仕組み」
「はい。仕事は善意だけで回すものではありません」
白瀬さんは、その言葉に驚いたようだった。
「善意だけでは、駄目なんですか」
「善意は大事です。でも善意を前提にしすぎると、優しい人から壊れます」
彼女の指が、紙の端をつまんだ。
「優しい人から」
「はい」
「それは、嫌です」
「俺も嫌です」
「私が弱かったから、ではなく」
「環境と働き方が合っていなかった」
「逃げた、ではなく」
「続けられる形ではなかった」
「でも、利用者さんを置いてきました」
そこで声が震えた。
この人は、たぶん異世界でも同じことをしてきた。
救護所に残り、最後の一人まで癒そうとし、倒れるまで立ち続けた。
そして倒れた後も、自分が倒れたことを謝った。
「白瀬さん。ロールプレイをしましょう」
「ろーる……?」
「断る練習です」
彼女の顔が、露骨に不安になった。
「断る、ですか」
「はい。俺が上司役をします。白瀬さんは職員です」
「はい」
俺は紙を見ながら言った。
「白瀬さん、今日二時間残れますか。人が足りなくて」
「はい、大丈夫です」
「早いです」
「すみません」
「謝らない」
「はい」
「もう一回」
俺は同じ台詞を繰り返す。
「白瀬さん、今日二時間残れますか。人が足りなくて」
白瀬さんは息を吸った。
「申し訳ありません。今日は予定があって」
「いいです。続けて」
「明日なら、早めに出勤できます」
「代替案も出せました。かなりいいです」
彼女は、困ったように笑った。
「でも、嘘です。予定はありません」
「予定がないなら、“今日は体調管理のため定時で帰ります”でもいいです」
「体調管理で、帰っていいんですか」
「帰っていいです」
「人が足りないのに」
「人員不足を、白瀬さん一人の自己犠牲で埋めてはいけません」
彼女は黙った。
「異世界では」
小さく、そう言った。
「私が倒れるまで癒せば、一人でも多く助かりました」
「はい」
「休んだら、その間に誰かが死にました」
「はい」
「だから、休むのが怖いです」
俺は、すぐには答えなかった。
現代の職場ルールを並べるだけなら簡単だ。
でも、彼女の中では、休むことは怠慢ではなく、誰かの死とつながっている。
「白瀬さん」
「はい」
「現代の職場では、あなた一人が倒れないことも、支援の一部です」
彼女の目が揺れた。
「倒れたら、次の日に支えられる人も支えられません」
「……はい」
「人を救うことと、自分を壊すことは別です」
白瀬さんは、膝の上の手を見つめた。
「難しいです」
「難しいです。だから練習します」
俺はプリントを一枚渡した。
見出しは、断り方の例文。
一、今日は対応できません。
二、私の担当範囲ではここまでです。
三、上司に確認します。
四、ひとりで判断せず相談します。
白瀬さんは、その紙をまるで祈祷書のように両手で受け取った。
「これを、覚えればいいんですね」
「覚えるだけではなく、使います」
「使う」
「はい。次の面談までに、センター内で一回、“今はできません”と言ってみてください」
白瀬さんの顔が青くなった。
「誰にですか」
「誰でもいいです」
「柏木先生にでも」
「俺に言うのが一番安全ですね」
彼女はしばらく考えて、それから小さくうなずいた。
「では、今言います」
「どうぞ」
「柏木先生」
「はい」
「この面談の後、すぐに履歴書を書き直すのは……今は、できません」
声は震えていた。
でも、言えた。
「いいです。では明日の午前にしましょう」
白瀬さんは目を丸くした。
「怒らないんですか」
「怒りません」
「迷惑では」
「予定を調整しただけです」
彼女は、胸に手を当てて、ゆっくり息を吐いた。
聖女様は、初めて残業を断った。
それは世界を救う魔法ではない。
けれど、彼女が自分を救うための、最初の練習だった。
面談室を出る時、白瀬さんは扉の前で一度振り返った。
「柏木先生」
「はい」
「今の言い方で、本当に大丈夫でしたか」
「大丈夫です」
「冷たくありませんでしたか」
「冷たくありません」
「嫌われませんか」
「嫌われるために言ったわけではありません。続けるために言ったんです」
白瀬さんは、その言葉を何度か心の中で繰り返しているようだった。
「続けるために、断る」
「はい」
廊下の向こうから、神崎さんと雨宮さんの声がした。
どうやら報連相の練習で、また総攻撃が混じったらしい。
白瀬さんは小さく笑った。
その笑い方は、前職の話をしていた時より、ほんの少しだけ軽かった。
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