第2話 魔王討伐は職歴になりますか?
「先生」
朝一番の面談室で、神崎蓮は真剣な顔をしていた。
「魔王討伐は、本当に職歴になりませんか」
「その質問、昨日も聞きました」
「一晩考えました」
「はい」
「やはり職歴になるのではないかと」
俺は面談記録用紙に日付を書きながら、深く息を吸った。
神崎蓮。二十六歳。元勇者。十七歳で異世界へ召喚され、二十二歳で魔王を討伐し、帰還した。
経歴だけなら、世界史の教科書に載ってもおかしくない。
ただし、いま彼が応募しようとしているのは、駅前コンビニの夜勤スタッフだった。
「神崎さん。魔王討伐が事実かどうかで言えば、事実です」
「はい」
「すごいかどうかで言えば、すごいです」
「はい」
「でも、採用担当者が知りたいのは、夜勤に入れるか、レジを覚えられるか、遅刻しないか、クレーム対応で怒鳴り返さないかです」
神崎さんは、軽く眉を寄せた。
「怒鳴り返しません」
「前回の模擬面接で、“不当な要求には聖剣で応じます”と言いました」
「比喩です」
「面接では比喩が強すぎます」
机の上に、彼の職務経歴書が置かれている。
職務経歴。
エルガルド王国勇者軍所属。
魔王討伐遠征隊隊長。
竜王との停戦交渉。
七十二日間の瘴気汚染地域踏破。
東方戦線における王都防衛。
俺は赤ペンを手に取った。
「このまま出すと、怪文書です」
「怪文書……」
勇者は、魔王よりも怪文書という言葉に傷つく。
「でも、使える要素はあります」
「どこがですか」
「全部です」
俺は紙の横に、新しい見出しを書いた。
職能翻訳。
「魔王討伐遠征隊隊長は、“極限環境下での長期プロジェクト遂行”」
「長期プロジェクト」
「竜王との停戦交渉は、“利害の異なる相手との調整経験”」
「竜王は人ではありません」
「採用担当者には言わなくていいです」
「はい」
「瘴気汚染地域踏破は、“高ストレス環境下での継続的な任務遂行”。王都防衛は、“突発的なトラブルへの初動対応”」
神崎さんは、俺の赤ペンの先を目で追っていた。
「つまり、魔王討伐とは書かない」
「書きません」
「でも、なかったことにはしない」
「しません」
彼は、そこで初めて少しだけ表情を緩めた。
たぶん、この人が一番怖がっているのは、就職できないことそのものではない。
勇者だった時間が、現代では存在しないものとして扱われることだ。
「神崎さん」
「はい」
「あなたが魔王を倒したことは事実です。でも、今日の面接で必要なのは“退職理由を三分で説明すること”です」
「退職理由」
「帰還したから、では伝わりません」
「では、何と」
「“長期の保護対象期間を経て、現在は社会復帰支援プログラムを受講しています”。政府の説明範囲内なら、そうなります」
神崎さんは、口の中でその文を繰り返した。
「長期の保護対象期間を経て、現在は社会復帰支援プログラムを受講しています」
「そうです」
「魔王は」
「出ません」
「竜王は」
「出ません」
「聖剣は」
「絶対に出ません」
彼は少し寂しそうだった。
俺は、別の紙を出した。
「では、自己PRを作りましょう」
「はい」
「神崎さんの強みは、危機対応、責任感、チームで動けること、体力、夜間対応への耐性です」
「夜間対応?」
「魔王城潜入は、だいたい夜でしたよね」
「はい。敵の警戒が薄いので」
「コンビニ夜勤でも、深夜帯に落ち着いて働けるのは強みです」
神崎さんは、まばたきをした。
「魔王城の経験が、コンビニに」
「そのままでは無理です」
「はい」
「でも、使える形にはできます」
彼は、職務経歴書を見下ろした。
赤ペンで消された「魔王討伐」の横に、俺が書いた言葉が並んでいる。
極限環境。
チーム統率。
危機対応。
継続力。
「先生」
「はい」
「勇者だったことは、俺の全部ではないんですね」
俺は少しだけ手を止めた。
「はい」
「でも、全部無駄でもない」
「もちろんです」
神崎さんは、ようやく赤ペンを取った。
その手は、魔王を倒した手だ。
けれど今、彼が握っているのは聖剣ではなく、百円ショップで買った赤ペンだった。
異世界なら、彼の一振りで戦局が変わったのだろう。王や将軍が頭を下げ、民衆が名を呼び、吟遊詩人が歌にしたのかもしれない。
だが、この面談室では、赤ペンの二重線一本が彼にとっての戦いだった。
「神崎さん。二重線を引くのは、消すためだけではありません」
「消すためだけでは」
「書き換えるためです」
「書き換える」
「はい。魔王討伐と書けないから、勇者だった時間がなくなるわけではありません。採用担当者に届く形に直すだけです」
神崎さんは、赤ペンの先を紙に置いたまま黙った。
「俺は、帰ってきてから、ずっと変な感じがしていました」
「はい」
「向こうでは、勇者でいればよかった。危険な場所に行くのも、誰かを守るのも、魔王を倒すのも、全部それで説明がついた。でもこっちでは、勇者ですと言っても、誰も困った顔をするだけで」
彼は小さく笑った。
「俺が何だったのか、自分でも分からなくなります」
「神崎さんは、勇者だった人です」
俺は言った。
「でも、これから勇者以外の言葉も持てます」
彼は少しだけ目を伏せた。
「それは、怖いですね」
「怖いと思います」
「でも、少し楽かもしれません」
その言葉は、履歴書のどの欄にも書けない。
でも、たぶん今日いちばん大事な翻訳だった。
そして職歴欄の「魔王討伐」に、ゆっくり二重線を引いた。
「では、書き直します」
「お願いします」
「極限環境下での長期プロジェクト遂行」
「いいですね」
「多職種チームの統率」
「それもいいです」
「危機対応」
「採用担当者に伝わります」
彼は、少し得意げに顔を上げた。
「先生」
「はい」
「“ラスボス経験あり”は」
「書きません」
勇者の社会復帰は、まだ遠い。
それでも、魔王討伐が初めて履歴書から消えた日だった。
面談が終わった後、神崎さんは教室に戻る前に立ち止まった。
「先生」
「はい」
「コンビニ夜勤の求人、まだ応募できますか」
「できます」
「なら、受けます」
「理由を聞いても?」
彼は少し照れくさそうに笑った。
「夜の仕事なら、少しは役に立てるかもしれないので」
その言い方には、もう魔王城の影だけではないものが混じっていた。
現代の夜に、自分の居場所を探そうとする声だった。




