壊れたワタシ ③
ACT3
書くこと、読みとること、計算はできた。
今現在の記憶の保存も良好。
生活全般の知識もある。
けれど、言語による意志疎通に障害があり、事件前後の記憶も欠落。
人の顔に対する認識能力はあれど、人名の記憶が曖昧。
私の状態を説明する恭二の前には、祖父がいる。
小柄で背筋の良い人だ。
そして無表情で、確かに私と似ていた。
陽に焼けていなくて、恭二とはあまり似ていない。
恭二の印象は、とても動きがあって静かじゃない。
でも、この人は静かだ。
でもちょっと気難しそう。
眉間に皺がある。
けれど、お茶菓子を食べなさいと両手に一杯押しつけてくる姿は。
もしかして、少し、いや、かなり..。
「..親父、浮かれてる?」
「黙れ」
お菓子を用意して待っていてくれた。
それだけで少し、力が抜ける。
何にも感じていないような私も、たぶん、全部死んだ訳じゃない。
怒っていないのはわかる。
たぶん、困ってる。
ソファーに座る左側には杖がある。
祖父も半身に軽度の麻痺があるそうだ。
「実奈の車椅子は念のためだ。
体力も弱ってるが、水に落ちた角度が悪かったらしくてな、右半身の色んな場所にヒビがある。
まぁ自分でトイレにもいけるし、介助なしでも着替えはできる。
入浴だけは、昼間、角田さん達に頼むことになる。」
そこまで言ってから、恭二は私の方を向いた。
その大きな体の向こう、窓の外は緑の影。
家の中も洋風な感じ。
「実奈、聞いてるか?
親父の時に家中を改装した。
上の階と地下以外なら、車椅子のまんま出入り自由だ。
トイレも風呂も大丈夫。
車椅子から杖になっても、家中に手すりがある。
台所も車椅子だろうが杖だろうが、使えるようになってる。
危なくない事なら、何でも家の中でしていいからな。
ただし、地下は段差があるから、誰か人がいるときにしろよ。
上の階に行きたい時は、俺がいる時だ。
それから」
「それぐらいにしろ、一度に言われても困るだろう。
今日は部屋に案内して終わりだ。
後は、寝て食べて、ゆっくりするだけで十分。
むさ苦しいお前と、爺さんの顔なんぞ、若い娘にしたら見ていたくも無かろうよ」
「あのなぁ」
祖父は、私をジロリと睨むと言った。
「この家の中は安全だ。
この馬鹿と私がいる限り、お前は絶対に大丈夫だ。
これだけは覚えておけ。
夜中だろうが何だろうが、嫌な事があったら呼ぶんだぞ。」
それに対して、壊れてしまった私の口は、いつもの言葉を返す。
「わから、ない、です」
本当は、感謝の言葉を言いたい。
けれど水の膜を通したように、私の考えは言葉にならなかった。
そんな私に、怒ったように祖父が言う。
「爺ちゃんでいい。爺ちゃんだ」
祖父の佇まいは紳士然としており、そのような呼びかけは非常に難しかった。
「わか..」
「親父、実奈はちゃんとわかってる。それこそ急ぐなよ」
「急いでなどいないだろう」
「じゃぁ怒鳴るなよ、実奈が怖がる」
「ふん」
怖いか?
と、厳しい顔つきで問われた。
だが、特に怖さは感じない。
親しさも、会ったばかりで感じないが。
でも、恭二と同じで、私が思い出せないだけで、面識はあるのかもしれない。
そんな首を傾げ見つめ合う私たちに、恭二が大きく息を吐いた。
「んじゃぁ、まずは部屋に行くぞ。」
鏑木の家は裕福だった。
与えられた部屋を見て一番に思う。
あぁ、なんだろう..違う、発想が我ながら貧困。
洗練された白とペールグリーン。
きれいで、余所の世界だ。
きれいな物は好きだ。
うれしい。
でも、ここにいては、だめ。
好きになったら、だめ。
私は、だめ。
「わからない..」
過度に少女趣味ではないけれど、落ち着いた女性らしい部屋だった。
それも、私の為に手を加えたらしい。
鏑木の家族から女性の姿が無くなって久しく、家全体はシンプルでモダン。
磨かれた木目のブラウンと白だ。
恭二の説明によると輸入して建てられた物らしく、祖父の要望で、祖父の居住空間は和風になっているそうだ。
その祖父の部屋は東側。
共用部分を挟んで南に面した西側が私の部屋。
私の部屋か。
鏑木の家はカタカナのコを描いている。
向きとしては南向きに両翼が突き出している感じ。
祖父の部屋は左の奥、北東にあり公園がよく見える。
そしてその反対側の右側前、南側、家の正面を通る道路が見える部屋が私の部屋。
窓は南側と東側にあって、その東の窓からガレージが見える。
門から正面の庭、ガレージ。
そしてガレージの二階が恭二の部屋だ。
直接外に階段があるので、ガレージから中に入って上に部屋に行くことも、外側から部屋に行くこともできるそうだ。
仕事が始まったら不規則な生活になるので、外から直接部屋に帰る事も多くなる。
つまり、私が車椅子から自由になり、加えて意志疎通がある程度できるようになるまで、私の部屋の隣りで寝るそうだ。
「やさしい、ね」
何故か、泣きたいと思った。
部屋に落ち着いて、自分の境遇に泣きたいと思った訳じゃない。
ただ、この砕け散った私の中にあるのは、いくつもの雑音をはっする欠片達で。
それが、しきりに悲しいといい。
不安だと告げ。
さらに言うのだ。
このままだと、ダメだと。
「こわい..?」
簡易なブザーが枕元の小テーブルに置かれている。
ランプシェードもお洒落だ。
車椅子に座った私が窓硝子に写る。
食事の用意ができるまでの間。
ちょっとした隙間に荷物の整理をするべく、運び込んだ荷物がベッドの上にある。
と、言っても僅かだ。
焼け出されてしまった私の私物は無いに等しい。
この部屋には、私の為に用意された生活用品が既に置かれている。
至れり尽くせりだ。
まるで、夢の中を泳いでいるみたい。
そう思った。
何もかもできすぎた夢だ。
悲劇と与えられる恩恵、まるで劇のようじゃないか?
窓に写る私は、薄気味悪い笑顔を浮かべている。
何て嫌な女。
「...」
たぶん、こんな事は続かない。
過剰な幸運は、決して続かない。
私は逃れられないのだから。
何から?
窓に写る私に問う。
どういう事?
人の一生は、決められているんだ。
良いことと悪い事の割合は等分。
何かを失っているというのに解らない愚鈍な私は、何れ手痛いしっぺ返しを食らうのだ。
どうして?
解っているでしょう?
窓硝子、レースの白いカーテン。
笑っているのは誰?
何で生きてるの?
死ねばよかったのに。
「わからない、よ」
私たちは食事をしていた。
テーブルには、私と恭二と祖父がいる。
ダイニングには、蝋燭の光り。
それを囲む窓は真っ黒。
私は、彼らを見ている。
真っ黒の窓、白いテーブルクロス。
無言で食べる私たち。
フッと蝋燭が消えた。
カチリ。
と、小さな炎があがる。
青白い炎。
すると小さな居間と台所がうっすらと見えた。
台所のテーブルの下、椅子の影に足。
オレンジ色の靴下。
ダメ。
バーゲンで買った三足組の奴だ。
青白い炎は、居間の方へと向かう。
引き戸の近くに、手が見える。
少し握り込まれた手。
今は何も掴んでいない。
静か。
私だけ、息をきらしている。
早く。
私は、灯りのスイッチを探してる。
壁の近くにある筈だ。
私は壁を探る。
揺れる手の中の小さなライター。
安っぽいライター。
スイッチを探る手がたどり着いたのは、濡れた..。
私は炎を掲げ、闇を照らす。
見えたのは、何?
見えた?
「見た、見た、アレ、来た、の。
お母さ、ママ、ママ、
ごめ、わた、わたし、見た。
わからない、わから、いぃぃぃ、い、や、あぁ。」
苦しい。
息が苦しい。
痛い。
何故?
「飲んで、これを飲んで、実奈」
あれは何だ?
「そうだ。大丈夫だ。怖くない、怖くない。」
黒い、赤い、白い。
「わから、ない」
押し返そうとして、私は両手を振り回す。
「それが怖いのか?」
手が押さえられた。
けれど、それは濡れていない。
乾いて、暖かい。
「わか、ら、ない」
フッと、瞼が開く。
ガクガクと震える私は寝ていた。
寝ている私に、薬を飲ませている姿を認めて、何か言おうとした。
けれど、口から出たのは、
「にがい」
「おぉそうだな。粉薬、水で溶かして飲ませちまったからな」
焦っていたのか、単に大ざっぱなのか。
起こして飲ませればよかろうに。
「怖いか?」
怖いという感情が、今は無い。
夢の中の私は、怖がっていた。
けれど、今の私は別段怖くも何ともない。
口の中の苦みと、薬によるのだろう何ともいえない脱力感が広がりつつある。
覆い被さる恭二は、ボサボサの髪の毛と眠そうな目をしていた。
申し訳なかった。
「気にすんな」
どんな顔をしていたのか、恭二は眉を下げた。
私を起こし、背に枕を押し込む。
そして、ベットの脇に椅子には座らずに、床に腰をおろした。
「医者やカウンセラー、警察も、お前の頭の中身をこじ開けようと、いろいろしてきたし、してくるだろう。
まぁ、普通はそれが正しい事だ。と、まぁ言うよな」
恭二は、唐突にそんな話をしだした。
コップをサイドテーブルに置き、彼はボリボリと頭をかいた。
「でだ、今のところ、実奈の病状も、何もかも小康状態。
出される薬は、頭の血流を良くする薬とビタミン剤に、これだ」
コップに残った水と沈殿した灰色の粉を指さして、恭二はちょっと嫌そうに続けた。
「頭のいい人間は、ちょっとばかり、病人の苦しみを忘れがちだよな。
そして患者は鵜呑みにして、それが正しいと思う」
意味が分からずに、私は口をもごもごと動かす。
苦いのだ。
「正面から立ち向かえ、苦しみから目をそらすな」
寝間着のTシャツは長袖、よれた襟から背中のタトゥーが見える。
「まぁ正しいんだろうが、別にまじめに取り組む必要はないと思うんだよ。」
そういうと腰を上げ、コップを手に部屋を出ていった。
暫くすると、今度はジュースを手にして戻ってきた。
「虫歯になるかな、まぁいいよな」
林檎だ。
ジュースを飲んでいると、再び恭二は言った。
「あんまりがんばるなよ、夢の中ぐらいは、まじめじゃなくてもいいんだ」
違う。
私の無言の否定は、何故か伝わったようだ。
恭二は、苦笑いを浮かべると、あっという間に空にしたコップを受け取る。
そうて枕をなおし私を寝かせ、布団にくるむ。
手際がよかった。
介護になれている。
たぶん、祖父の介護をしてきたのだろう。
外見に似合わぬ細やかさだ。
「思い出せって、皆に言われて、お前は、どこかで必死なんだよ。
思い出せない事が別に悪い訳じゃない。
別に、家族を思い出せなくても、ここに眠っているだけなんだから」
ここ、といって私の額に手を置くと、恭二はあくびをした。
眠い眠いとぼやきながら、私が意識を沈ませるまで側にいた。
思い出したい?
違う。
思い出したくない、けど。
何?
生き埋めになるような恐怖の感情が側にある。
それは危険で、だからこそ、思い出さなくてはならない。
何故?
答えまでの道は、私にはわからなかった。