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 ランプを大量に使って、そこそこの明るさを保っている広間と違い。か細い三日月の今夜は、月明かりに期待できない。

 窓からもれてくる、わずかな明かりだけが頼りだ。

 手をグイグイ引かれるまま、うつむき加減に歩く。前を見ていなかったから、不意に立ち止まったヴァルトの背中に、思い切り額をぶつけた。

 声を出さないよう、唇をキュッときつく結んで。空いている左手で、グッと額を押さえる。

「予想外だったよ」

 呟きが聞こえた直後、ヴァルトの手がスッと離れた。ふわっと触れた夜気は、本来生ぬるいはずなのに。なぜか、やけにひんやりしていた。

 向き直ったヴァルトに、かつらをサッと奪われる。あっという間のことで、止める暇などなかった。

 ヴァルトはかつらを汚さないよう、丁寧に泥を払った岩の上にポンと置く。

 薄暗い周囲にすんなり溶け込みそうな、藍の髪があらわになる。

 ぼんやりと見えるシーヴの髪は、最初からこうなることを予測していたように。後から簡単に触るだけで済むよう、ほぼ完璧に整えられていた。

「さすがに、こんなものまで用意してるなんて思わなかったし、てっきり他の誰かが任されるんだと思い込んでたよ」

 無機質な声音が。耳を、肌を、ザラリとさらっていく。

 フッと目を覗き込まれて。一瞬で、肌がザアッとあわ立った。

「最初にすれ違った時、似てるって思ったけどさ。こうやって、落ち着いて見たら、どっからどう見てもシーヴなんだけどなぁ……オレも、ヒリヤさんの腕に騙された一人ってことか」

 アハトもユリアも、まったくの別人に見えると太鼓判を押したのに。子供の頃からの自分を知っている男すら、目の前を素通りしたのに。

 初見から似ていたと言うヴァルトの目には、いったいどう見えているのか。

「……マルクでさえ、目の前の僕に気づかなかったのに……どうして……」

 ヨウシアに腕をひねり上げられた時にも、ひどく冷静でいられた。けれど、たった今しぼり出した声は、自分ではっきりわかるほど震えている。

 喉がグッと詰まって、最後まで言い切ることができなかった。

「……あのさぁ、マルクって、誰?」

 ひやっとする声音に、心臓がキュッと縮み上がる。

 何となく、心許なくなって。左手が無意識に、胸元の服をギュッとつかむ。

「……国で、やたらとまとわりついてきて……何と言ったらいいのか」

 シーヴのほっそりした左の人差し指が、そっと下唇に触れた。どう表現したものかと、心底悩んでいる証拠だ。

「昔から知っているが、顔を見るだけで不快になる人間を、幼なじみとは言いたくないしな……」

 まるで私物だと言わんばかりに、むやみやたらと触ってくる男だった。何度やめるよう言っても、ちっとも聞いてくれない。

 どうあがいても勝てないほど、自分が強くなれば。さすがに聞く耳を持って、考えを改めるだろう。そんな考えと、隣国で生きる強い伯母といとこたちに会いたさ半分で。思いつくままにフラリと国を出て。

 いくら何でも、他国まで押しかけてこないだろう。そう考えていた自分が甘いことは、つくづく思い知らされた。

 この五年の間、まだヴァルトに一度も勝ったことはない。それでも、あの頃よりはずっと強くなっていると、信じたい。

「それで悩むのは、何となくわかるなぁ」

 性格から何から違う兄がいるヴァルトは、言葉で表現しにくい関係に理解を示す。

 そう呼びたくはないが、どうあっても変えられない。だからこそ、頭痛の種なのだ。

「そういえば、マルクはヴァルトの兄上に近いな」

 とっさに投げ飛ばした後。さわっと足を触られた瞬間に、全身を駆け抜けた不快な嫌悪感。

 マルクを思い出して、すっかり我を忘れた。だらしなく転がっていた男の襟首を、ガッとつかみ上げて。気がついたら、再度放り投げていたことは覚えている。

「あいつと同じなんだ? じゃあ、手加減はいらないかな」

「ああ、遠慮はいらない」

 これで恐らく、ヴァルトはマルクを容赦しなくていい存在と認識したはずだ。無理に顔を覚えなくとも、知らない藍色の髪の男がマルクだと思えば、ほぼ間違いはないだろう。

 あれに見つかっても。救助を願えば、助けてもらえる。そう信じられることが、何より嬉しくて、心をふわっと軽くしてくれる。

「さてと。要注意人物もわかったことだし、全然収まってないだろうけど、そろそろ中に戻ろっか」

「そうだな」

(……ああ、そうだ)

 歩き出しかけて、不意に、ヒリヤの秘密兵器を思い出した。

 いきなりスカートをめくり上げたシーヴに、目を思い切り見開くヴァルトをよそに。スカートに作られた隠し場所にしまわれていた髪飾りを、早速取り出してつける。

 不器用なシーヴが必死につけたそれは、見てわかるくらい斜めになっていた。このまま行かせるのは、あまりに不恰好だ。

「待った」

 そのまま歩き出そうとするシーヴを、ヴァルトが強引に引き止めた。

 不ぞろいな大きさの、白い鉱石が一列に並ぶ髪飾りを、ヴァルトが一度外して。手ぐしでサッと髪を整えてから、右側にきっちりつけ直す間。シーヴはジッとして、されるがままだった。

 髪飾りをつけたヴァルトは、少し裾の乱れたドレスも、ついでのようにササッと整える。

「これでよし、っと」

「……ありがとう」

 目線で確認できるドレスと違い、触るとまたやり直しになりそうで。髪飾りがどうなっているか、どうしても確かめられなかった。



 広間の中に戻ると、出入り口をふさいでいたアハトが、真っ先に笑顔で出迎えた。

「ヒリヤちゃんの力作だったんだけど、こんなに早くバレるなんてね」

「あ、これ、ヒリヤさんに返しといてください」

 忘れないようきっちり持ってきたかつらを、ヴァルトがアハトにグッと押しつける。

 ヴァルトはグルリと野次馬を見回す。幸か不幸か、藍色の髪の男は見当たらない。

 アハトに手を引かれてようやく、シーヴはおずおずと広間内に足を踏み入れた。

 闇に慣れた目に、ランプの明かりはやけに眩しくて。何度かパチパチと、忙しく目を瞬かせる。

「……明日、ソーニャさんにこの化粧をしてもらおうかな。たまには、中身の可愛さに合わせて、見た目も可愛いソーニャさんもいいなって思っちゃったし」

 あからさまに、浮き浮きしているアハトが頼めば。ヒリヤなら、存外あっさり引き受けるだろう。

 不機嫌な伯母の顔が、即座に思い浮かべられる。

「あ、そうだ」

 今からすぐにでも、アハトはヒリヤに頼みに行きたいようだ。つかんでいたシーヴの手を、さりげなく、ヴァルトにひょいと預けた。

「シーヴちゃんを探している、ちょっとおかしなセーデルランド人がいたから、くれぐれも気をつけてね。それから、そろそろ姫が退屈してダンスの時間になりそうだから、二人で一曲、踊ってくるといいよ」

「え……」

 ひと月ほどの間、毎日一回は確実に、しっかりと。アハトの足を踏んだのだ。

 できれば、踊らない方がいい。そう言ったアハトが、なぜ踊ってこいと言ったのか。

 さっぱりわからなくて、シーヴはただただ戸惑うばかりだ。

「あと、今頃シーヴちゃんが綺麗な子だって知って、のんきに色気づいてるやつと踊る時は、何にも気にしないで、再起不能になるくらい思いっ切り、威勢よく、足を踏んでやればいいからね」

 綺麗だと言ってくれる人は、最近少し増えた。だが、そのほとんどが、ヒリヤやトゥーラをはじめとする同性だ。

 異性では、アハトの口からしか聞いたことがない。

「そんなやつがいるとは思えないが……」

「残念ながら、あの辺で固まっているのが、全部そうなんだよね」

 アハトの指が、スッと示した方向。そこには、片っ端から断ろうと決めたほど、ゾロゾロ群がっていた。

 同じように眺めたヴァルトは、明らかに渋い顔を見せる。

「じゃあ、俺はちょっと行ってくるね」

 すでにすっかり浮かれた足取りで、広間を出ていくアハトを見送った直後。まるで見ていたように、速めの三拍子の曲が、軽やかに流れ出した。

 夫婦や恋人同士も、この日初めて声をかけた者同士も。曲に誘われて、広間の中央に作られたダンス用の場所へと、次々に足を運び始める。

 互いに様子を見ているのか。はたまた、ヴァルトがついているからか。今のところ、ダンスを申し込もうと、集団から出てくる者はいない。

「アハトさんも言ってたし、ちょっと踊ってこよっか」

「いや、僕は……」

 連日の練習を思い出すと、何が何でも遠慮したくなる。

 慣れているアハトでさえ、避けきれないことがあったのだ。一度も一緒に踊っていないヴァルトでは、不安と恐怖しかない。

「とりあえず一回は踊っておかないと、後で陛下がうるさいんじゃない?」

「うっ……」

 練習に割いた時間を考えると、一度も踊らないで過ごすわけにはいかない。

 もし、そんなことをすれば。エリサだけでなく、夜に練習相手を務めてくれたユリアも、怖い。

 さらに、マルクという別の心配もある。

 彼が害を及ぼすと知らない誰かと、踊っている時では。きっと、思うように動きが取れないだろう。

 結局、複数の悩みを一度に解決できそうな、ヴァルトの誘いに乗るしかなさそうだ。


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