38
ランプを大量に使って、そこそこの明るさを保っている広間と違い。か細い三日月の今夜は、月明かりに期待できない。
窓からもれてくる、わずかな明かりだけが頼りだ。
手をグイグイ引かれるまま、うつむき加減に歩く。前を見ていなかったから、不意に立ち止まったヴァルトの背中に、思い切り額をぶつけた。
声を出さないよう、唇をキュッときつく結んで。空いている左手で、グッと額を押さえる。
「予想外だったよ」
呟きが聞こえた直後、ヴァルトの手がスッと離れた。ふわっと触れた夜気は、本来生ぬるいはずなのに。なぜか、やけにひんやりしていた。
向き直ったヴァルトに、かつらをサッと奪われる。あっという間のことで、止める暇などなかった。
ヴァルトはかつらを汚さないよう、丁寧に泥を払った岩の上にポンと置く。
薄暗い周囲にすんなり溶け込みそうな、藍の髪があらわになる。
ぼんやりと見えるシーヴの髪は、最初からこうなることを予測していたように。後から簡単に触るだけで済むよう、ほぼ完璧に整えられていた。
「さすがに、こんなものまで用意してるなんて思わなかったし、てっきり他の誰かが任されるんだと思い込んでたよ」
無機質な声音が。耳を、肌を、ザラリとさらっていく。
フッと目を覗き込まれて。一瞬で、肌がザアッとあわ立った。
「最初にすれ違った時、似てるって思ったけどさ。こうやって、落ち着いて見たら、どっからどう見てもシーヴなんだけどなぁ……オレも、ヒリヤさんの腕に騙された一人ってことか」
アハトもユリアも、まったくの別人に見えると太鼓判を押したのに。子供の頃からの自分を知っている男すら、目の前を素通りしたのに。
初見から似ていたと言うヴァルトの目には、いったいどう見えているのか。
「……マルクでさえ、目の前の僕に気づかなかったのに……どうして……」
ヨウシアに腕をひねり上げられた時にも、ひどく冷静でいられた。けれど、たった今しぼり出した声は、自分ではっきりわかるほど震えている。
喉がグッと詰まって、最後まで言い切ることができなかった。
「……あのさぁ、マルクって、誰?」
ひやっとする声音に、心臓がキュッと縮み上がる。
何となく、心許なくなって。左手が無意識に、胸元の服をギュッとつかむ。
「……国で、やたらとまとわりついてきて……何と言ったらいいのか」
シーヴのほっそりした左の人差し指が、そっと下唇に触れた。どう表現したものかと、心底悩んでいる証拠だ。
「昔から知っているが、顔を見るだけで不快になる人間を、幼なじみとは言いたくないしな……」
まるで私物だと言わんばかりに、むやみやたらと触ってくる男だった。何度やめるよう言っても、ちっとも聞いてくれない。
どうあがいても勝てないほど、自分が強くなれば。さすがに聞く耳を持って、考えを改めるだろう。そんな考えと、隣国で生きる強い伯母といとこたちに会いたさ半分で。思いつくままにフラリと国を出て。
いくら何でも、他国まで押しかけてこないだろう。そう考えていた自分が甘いことは、つくづく思い知らされた。
この五年の間、まだヴァルトに一度も勝ったことはない。それでも、あの頃よりはずっと強くなっていると、信じたい。
「それで悩むのは、何となくわかるなぁ」
性格から何から違う兄がいるヴァルトは、言葉で表現しにくい関係に理解を示す。
そう呼びたくはないが、どうあっても変えられない。だからこそ、頭痛の種なのだ。
「そういえば、マルクはヴァルトの兄上に近いな」
とっさに投げ飛ばした後。さわっと足を触られた瞬間に、全身を駆け抜けた不快な嫌悪感。
マルクを思い出して、すっかり我を忘れた。だらしなく転がっていた男の襟首を、ガッとつかみ上げて。気がついたら、再度放り投げていたことは覚えている。
「あいつと同じなんだ? じゃあ、手加減はいらないかな」
「ああ、遠慮はいらない」
これで恐らく、ヴァルトはマルクを容赦しなくていい存在と認識したはずだ。無理に顔を覚えなくとも、知らない藍色の髪の男がマルクだと思えば、ほぼ間違いはないだろう。
あれに見つかっても。救助を願えば、助けてもらえる。そう信じられることが、何より嬉しくて、心をふわっと軽くしてくれる。
「さてと。要注意人物もわかったことだし、全然収まってないだろうけど、そろそろ中に戻ろっか」
「そうだな」
(……ああ、そうだ)
歩き出しかけて、不意に、ヒリヤの秘密兵器を思い出した。
いきなりスカートをめくり上げたシーヴに、目を思い切り見開くヴァルトをよそに。スカートに作られた隠し場所にしまわれていた髪飾りを、早速取り出してつける。
不器用なシーヴが必死につけたそれは、見てわかるくらい斜めになっていた。このまま行かせるのは、あまりに不恰好だ。
「待った」
そのまま歩き出そうとするシーヴを、ヴァルトが強引に引き止めた。
不ぞろいな大きさの、白い鉱石が一列に並ぶ髪飾りを、ヴァルトが一度外して。手ぐしでサッと髪を整えてから、右側にきっちりつけ直す間。シーヴはジッとして、されるがままだった。
髪飾りをつけたヴァルトは、少し裾の乱れたドレスも、ついでのようにササッと整える。
「これでよし、っと」
「……ありがとう」
目線で確認できるドレスと違い、触るとまたやり直しになりそうで。髪飾りがどうなっているか、どうしても確かめられなかった。
広間の中に戻ると、出入り口をふさいでいたアハトが、真っ先に笑顔で出迎えた。
「ヒリヤちゃんの力作だったんだけど、こんなに早くバレるなんてね」
「あ、これ、ヒリヤさんに返しといてください」
忘れないようきっちり持ってきたかつらを、ヴァルトがアハトにグッと押しつける。
ヴァルトはグルリと野次馬を見回す。幸か不幸か、藍色の髪の男は見当たらない。
アハトに手を引かれてようやく、シーヴはおずおずと広間内に足を踏み入れた。
闇に慣れた目に、ランプの明かりはやけに眩しくて。何度かパチパチと、忙しく目を瞬かせる。
「……明日、ソーニャさんにこの化粧をしてもらおうかな。たまには、中身の可愛さに合わせて、見た目も可愛いソーニャさんもいいなって思っちゃったし」
あからさまに、浮き浮きしているアハトが頼めば。ヒリヤなら、存外あっさり引き受けるだろう。
不機嫌な伯母の顔が、即座に思い浮かべられる。
「あ、そうだ」
今からすぐにでも、アハトはヒリヤに頼みに行きたいようだ。つかんでいたシーヴの手を、さりげなく、ヴァルトにひょいと預けた。
「シーヴちゃんを探している、ちょっとおかしなセーデルランド人がいたから、くれぐれも気をつけてね。それから、そろそろ姫が退屈してダンスの時間になりそうだから、二人で一曲、踊ってくるといいよ」
「え……」
ひと月ほどの間、毎日一回は確実に、しっかりと。アハトの足を踏んだのだ。
できれば、踊らない方がいい。そう言ったアハトが、なぜ踊ってこいと言ったのか。
さっぱりわからなくて、シーヴはただただ戸惑うばかりだ。
「あと、今頃シーヴちゃんが綺麗な子だって知って、のんきに色気づいてるやつと踊る時は、何にも気にしないで、再起不能になるくらい思いっ切り、威勢よく、足を踏んでやればいいからね」
綺麗だと言ってくれる人は、最近少し増えた。だが、そのほとんどが、ヒリヤやトゥーラをはじめとする同性だ。
異性では、アハトの口からしか聞いたことがない。
「そんなやつがいるとは思えないが……」
「残念ながら、あの辺で固まっているのが、全部そうなんだよね」
アハトの指が、スッと示した方向。そこには、片っ端から断ろうと決めたほど、ゾロゾロ群がっていた。
同じように眺めたヴァルトは、明らかに渋い顔を見せる。
「じゃあ、俺はちょっと行ってくるね」
すでにすっかり浮かれた足取りで、広間を出ていくアハトを見送った直後。まるで見ていたように、速めの三拍子の曲が、軽やかに流れ出した。
夫婦や恋人同士も、この日初めて声をかけた者同士も。曲に誘われて、広間の中央に作られたダンス用の場所へと、次々に足を運び始める。
互いに様子を見ているのか。はたまた、ヴァルトがついているからか。今のところ、ダンスを申し込もうと、集団から出てくる者はいない。
「アハトさんも言ってたし、ちょっと踊ってこよっか」
「いや、僕は……」
連日の練習を思い出すと、何が何でも遠慮したくなる。
慣れているアハトでさえ、避けきれないことがあったのだ。一度も一緒に踊っていないヴァルトでは、不安と恐怖しかない。
「とりあえず一回は踊っておかないと、後で陛下がうるさいんじゃない?」
「うっ……」
練習に割いた時間を考えると、一度も踊らないで過ごすわけにはいかない。
もし、そんなことをすれば。エリサだけでなく、夜に練習相手を務めてくれたユリアも、怖い。
さらに、マルクという別の心配もある。
彼が害を及ぼすと知らない誰かと、踊っている時では。きっと、思うように動きが取れないだろう。
結局、複数の悩みを一度に解決できそうな、ヴァルトの誘いに乗るしかなさそうだ。




