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「なるべく、踏まないようにする」

 踊るための広い場所へ出ても。シーヴはとにかく、ヴァルトの足を踏む回数を減らすことしか念頭にない。

 暗い顔で必死な様子のシーヴを、いったいどう思ったのか。ヴァルトがクスクスと笑った。

「オレの足だったら、いくらでも踏んでいいから」

「そういうわけには……」

「その方が目立つし、えーっと、マル……何だっけ? も、見つけやすくなるんじゃないかな、って思うんだけどさ」

 相変わらず、名前を覚えていないヴァルトに。シーヴは小さく声を立てて笑う。

 トゥーラも、何とか名前を覚えてもらえるまで。毎日会っていたのに、かなりの日数がかかっていた。聞けば、リクもなかなか覚えてもらえなかったらしい。反面、自分のように、翌日には把握されている場合もある。

 ヴァルトの基準は、本当によくわからない。

「マルク、だ」

「……うん、多分覚えた」

 ゆるゆると泳いでいる目に、まったく覚えていないと確信した。

 どのみち、名前を呼んでやるつもりは一切ない。そもそも、ヴァルトが覚えている必要もない。

「だからさ、気楽に踊ればいいよ」

 スッと差し出された左手に、怖ず怖ずと右手を乗せたとたん。背中に腕が回されて、グイッと引き寄せられた。

 悲鳴をあげる間もなく、引きずられるように。人々が楽しげに踊る輪の中に、するりと流れ込んでしまう。

「右、左、右」

 シーヴがうまく動けるまで、ヴァルトはそっと声に出して誘導する。

 特訓の成果か。すぐ、耳に聞こえるとおりに動けるようになった。

「オレが見てた時より、ずっと上手になってるよ」

 最初の二日しか見ていないヴァルトからすれば、確かに大いに上達したのだろう。だが、シーヴの意識は足元に向いている。しかも、非常に険しい顔で、ブツブツと足の動きを呟いていた。

「……油断すると、踏むんだ」

 その瞬間、シーヴはしまった、という顔になる。

 いつも、雑談に返事をすると、思い切り足を踏んでいたからだ。

 思わず、ギュッと目を閉じた。

 だが、足に伝わる感触は、やわらかくない。

(どうして……)

 いつもと違うのか。

『シーヴちゃんは、踊れてるんだけどね』

 動きは完璧だと、褒められるのに。なぜか、足を踏んでしまう。

 アハトは一応異性だから、嫌なのかと、ユリアと練習をしても。やはり、油断を招いて華奢な足を踏んでしまうのだ。

 おかげで、ユリアにきつく怒られる毎日で。最後にはとうとう、裸足で練習をしたというのに。

 なぜ、集中力が切れても、踏まないでいられたのか。さっぱりわからない。

 わからないからすっきりしなくて、何となく、もやもやしてしまう。

「このまま一曲踊ろっか。途中で……あいつが来たら、輪の外に出て相手をすればいいし」

(結局、名前は覚えていないんだな)

 頭のほんの片隅に、かもしれないが。気にかけてくれていたことが、素直に嬉しくて。やっぱり、名前を覚えていないことがおかしくて。

 フッと気が抜けたのか。シーヴの顔が、ほろりとほころぶ。

 それはまるで、固いつぼみがふわりと開くような。シーヴらしさのある、自然でやわらかい笑顔だった。

「やっぱり、シーヴは笑ってる方がいいなぁ」

「……笑ったか?」

 真顔で言われて驚いたほど、その自覚はない。

「可愛かったよ」

 今まで、一度も見たことのない、どこまでも爽やかな笑顔で。ぬけぬけと言い放つヴァルトの言葉に、どうにも驚きが隠せない。

 何度か口を開閉したものの、結局、声にはならなかった。

 ひと言も言えなかったことが、無性に気恥ずかしくなる。とっさに離れようとするが、背中に回された腕が、それを許してくれない。グッと力を込められて、かえって密着する格好になる。

「まだ曲は終わってないのに、どこへ行くの?」

「ヴァルトらしくない、おかしなことを言うからだ」

 シーヴはふいっと顔を左に向け、目線だけを床にスッと落とした。

 ソーニャのことしか頭にないアハトが、懐かしんだ結果の台詞だったら。まだ何とか、理解できる。必ず「ソーニャさんと一緒で」などといった言葉がつくこと。彼の目が、自分を見ていないこと。それらからも、十二分にわかっている。

 しかし、ヴァルトが誰かを面と向かって褒めたところなど、これまで見たことはなかった。まして、アハト以外の異性から、自分に褒め言葉が向けられるなど。

 想像したことすら、ない。

「オレらしくない?」

「ああ。そんな台詞、ユリアにも言ったことがないだろう?」

 ユリアやサーラ、トゥーラが着ていそうな、いかにも可愛らしい格好は似合わない。そのくらいは、さすがに自覚している。

 可愛いと言われる筆頭のユリアにすら、言ったことのない。そんな人間の「可愛い」を、果たしてどこまで信用していいのか。

「あのさぁ、ユリアには、オレがわざわざ言う必要なんてないって」

 ヴァルトはなぜか、妙に不機嫌な顔をして。そのくせ、背中の腕は、ますます強く押しつけられている。

「それに、言わなかっただけで、結構負けず嫌いなとことか、まだ雷がダメなとことか、いろいろ可愛いと思ってるんだけど」

 こっそり、耳元で囁かれた内容が。自分のことをよく知っていると、言いたげな顔をされたことが。やたらと悔しくて、ヴァルトの目を真っ直ぐ、じっくり見上げる。

 雷だけは、どうしても慣れなかった。今でも、夕暮れに空が暗くなると、嘘をついてでも訓練を切り上げてしまう。それから急いで、自分の部屋に戻るのだ。

 ずっと小さなエルミですら、まったく怖がる様子のない雷が怖い。それを、誰にも知られたくなかった。何より、誰も気づいていないと、信じていた。

「悔しかった?」

 しっかりと図星を指された挙げ句、心底楽しげな笑顔を見せつけられて。なぜだか、無性に腹が立つ。

「……僕のことを、何でも知っている顔をするな」

「何でも知ってるわけじゃないけどさ」

 ジッと見つめてくる緑色の瞳が、笑っている。

「見てればわかることは、ちゃんと知ってるよ」

 五年という時間は、当たり障りなく理解するには十分だ。

 それでもまだ、知らなかった顔がある。初めて見せられた表情がある。

「シーヴぅぅ!」

 突然聞こえた声に、顔が引きつった。

(逃げなければ!)

 瞬時にそう判断し、ヴァルトの腕の中から逃げようと、シーヴはジタバタする。

「ヴァルト、離せ!」

「大丈夫、片づけるから」

「こんなところでどうするつもりなんだ!」

 声の主が、よほど嫌なのか。シーヴは小声で怒鳴りながら、ヴァルトを全力でグッと押しのけようとする。

「それに、シーヴ一人で逃げるより、オレといた方が絶対に安全だって」

 シーヴは不意に、ピタッと動きを止めた。

「……そうか、ここはアウリンクッカだったな」

 セーデルランドにいた頃は、誰の助けも期待できなかった。一人でどうにかしなくてはいけなくて。

 あの声が聞こえると、自分だけが知っている隠れ場所を目指して、大急ぎで逃げたものだ。その癖が、ちっとも抜けていないことに、知らず知らず苦笑する。

 ヴァルトの実力を知っているから、シーヴはフッと力を抜いた。

 さりげなく、ヴァルトはそこから離れるよう、踊りながら誘導していく。自然と、人の流れも、こちらを避ける格好になる。

 空間が確保できた段階で。ヴァルトはシーヴを包み込むように、背中で腕をわずかに交差させた。

「会いたかったよ!」

「ナイセ!」

 相手がまったく見えていないのに。聞こえた足音と声で判断し、防御魔術を発動させる。

 ガゴンッ!

 周囲が驚き、思わず振り返るほどの音を立てて。ヴァルトの防御魔術に、盛大的にぶつかった、藍色の髪の男。

 年の頃は、二十になるかならないか、といったところだ。まじまじと見なくとも、シーヴとはずいぶん顔立ちが違うことがわかる。ただ、小柄なところは、やはり国民性なのだろう。

「シーヴぅぅ」

 見えない壁をバシバシ叩いて、必死に名を呼ぶ男に目もくれず。アウリンクッカでは、恐らく四番目に安全と保証された場所で。シーヴはホッと、安堵のため息を吐き出した。

 総合的に一番安全な場所は、もちろんアハトの防御魔術の中だ。

「サーラが言っていたが、ヴァルトは本当に便利だな」

「それユリアも言ってたけどさ、オレだって維持するだけで大変なんだけど」

 必要最低限も使わない魔術は、徐々に劣化していく。すべてを使いこなせる分、最低でも現状維持を目的にした日々の鍛錬は、絶対に欠かせない。

 シーヴとの訓練で、主に攻撃を。ユハナ相手に防御を。そして、他人の訓練を見ては治癒を。ヴァルトが常日頃そうしているのは、魔術を劣化させないためだ。

 どこまで伸びるか。維持するために、どの程度の使用が必要なのか。その辺りは素質にもよる。しかし、強化するためには、前日より使用回数を増やさなくてはいけない。

「正直言って、アハトさんはあのネラパを維持してるってだけで、もう十分すごいんだよなぁ」

 ほとんどのケガを、たった一回の治癒魔術で癒してしまう。アハトが二度かけたのは、寝込んだサムリを癒した時だけだ。

 ソーニャの訓練につき合い、エリサのわがままに振り回される彼が。いったいいつ、維持できるだけの治癒魔術を使っているのか。アハトの生活をかんがみると、ついつい首を傾げたくなる。

「アハトの防御魔術は、日々強くなっているだろう?」

「あー、それはソーニャさんと訓練してるからだって。アハトさんのナイセを、何十枚もまとめて破壊できるのは、やっぱりソーニャさんだけだし」

 壊されるたびに、同じだけ重ねていくことを繰り返す。それゆえ、アハトが望まなくとも、順調に強化されていく。その仕組みは、とっくの昔に出来上がっている。

 そして、普段のヴァルトは、同じ仕組みを利用しているのだ。

「シーヴぅぅ」

 見た目には楽しげな二人を、どうにか引き離したいのか。男は懸命に、シーヴの気を引こうと、何度も声を張り上げていた。


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