カルラニセルの魔女ではないけれど
魔力を持たないカルラニセルの少女のお話です。
夏が近づいたその日、カルラニセルから一人の少女がやってきた。彼女は真っ直ぐ城を目指し、女王に謁見を申し出たのだ。
通常であれば、予定が空いている一番早い時間に会うことができる。だが、女王に思うところがあったのか。はたまた、筆頭女王魔術師であるユリアの助言があったのか。少女はすぐに謁見が叶うこととなった。
年齢は十四歳前後だろうか。薄茶色の髪に、髪よりはわずかに濃い薄茶の瞳。少女のその色が、早々の謁見が叶った理由なのかもしれない。
女王エルミは豪奢な椅子に腰かけ、両脇にユリアとイェレミアスを立たせている。
「私は、カルラニセルのアルセリア・イラディエルです。アウリンクッカ国へ移住することを、どうかお許しください」
カルラニセルの礼を取る少女は、さらに言葉を続ける。
「私はもう、カルラニセルへ帰ることはできません。なぜなら、国へ戻れば、証拠も根拠もなく、婚約者と名乗る男性たちに結婚を迫られるからです」
緊張しているのか、アルセリアの声はかすかに震えていた。
話を聞きながら、ユリアは首を傾げる。彼女とともに同席しているイェレミアスも、やはり不思議そうに眉をグッと寄せていた。
「カルラニセルは今、未婚の女性に対して、未婚の男性が圧倒的に多いと聞くわ。女性は生まれてすぐ、その時に有望な男性と婚約をする。それから、年齢が釣り合う中で、もっと優秀な者がいれば婚約者を変えていく。それを決めるのは、両親。そうではなかったの?」
尋ねるユリアの詳しさに、アルセリアは驚いたように彼女を見つめる。
意を決したように、力強く頷いたアルセリアは口を開く。
「私の両親は、私が幼い頃に亡くなりました。それでも、まだ祖母が存命でしたので、両親の決めた婚約者はわかっていたのだと思います。けれど祖母は、私に婚約者の名を告げることなく、その証拠の在処を言うことなく、突然召されてしまいました。婚約者がわからない私のところには、連日連夜、証拠を持たない男性たちが押しかける結果となりました」
もしかすると、両親が亡くなった後、婚約者とされていた男性は別の女性と婚約したのかもしれない。そういうことも時々あると、聞いたことがあった。
何しろ、どうせ結婚するなら、魔女の方がいいに決まっている。魔眼を有さない娘など、男余りの時だから引く手あまたなだけなのだ。
魔女になれないカルラニセルの娘は、本当なら、何の価値もない。
「そう……わかりました。あなたはもう、この国の人間です。あなたの好きなようにお過ごしなさい」
「では、当面は、居住棟の一階でよいでしょうか?」
エルミの決断に、イェレミアスは早速手続きに入る。
「あら、一階はダメよ。四階か五階の空き部屋がいいわ」
「は? ……ああ、そうか。では、とりあえず四階の空き部屋で」
ユリアに指摘され、イェレミアスは素早く書類を訂正した。
「後で、ラハヤかラーケルにきちんと話を通しておくわ。とりあえず……そうね。そろそろレーヴィが来る頃だから、ついでに頼んじゃいましょうか」
聞き慣れない名前がいきなりいくつも出てきて、アルセリアは困惑を隠せない。
カルラニセルは他国との交流を行っているとはいえ、人と積極的に絡まなければ情報は入ってこない。婚約者になろうとする男性たちに迫られるため、人と関わりを絶っていたアルセリアは、他国について何も知らないのだ。
わかっているのは、アウリンクッカが女王国であること。金色の髪に青い瞳は、女王と王女の証であること。この国では、他国からの移住者も積極的に受け入れ、仕事を与えてくれること。その程度だ。
女王の横にいる、薄紫色のサーコートをまとう美女が誰なのか。紫色の上着を着ている彼は、いったい何者なのか。
不意に目を合わせてきた美女は、ニッコリ微笑んだ。
「ああ、ゴメンなさい。紹介が遅れたわね。私は筆頭女王魔術師のユリアで、こっちは女王騎士のイェレミアスよ。何か困ったことがあったら、私たちと同じ服を着ている者か、青か薄青の服を着ている女の子たちに頼ってね」
「え……えっと、はい……」
アルセリアが怖ず怖ずと頷いたところで、ドアが軽く叩かれた。ユリアが部屋に入るよう、指示を出す。
ゆっくりとドアを開けて、一人の少年が入って来た。服は、イェレミアスと同じ形で黒色だ。
癖のある金茶色の髪に、少し目尻の上がった、緑がかった灰色の瞳。整った顔立ちは、少年らしく溌剌とした印象を受けた。年齢は、同じか、一つ二つ上だろう。
「書類を持ってきましたよ。あれ? 入ってよかったの?」
少年の視線が、ユリアからアルセリアへ移る。とたんに、彼の目は大きく見開かれた。
「ついでに、レーヴィに頼もうと思って待っていたの。ラハヤたちに引き合わせて、四階の空き部屋を使えるようにしてあげて」
「……空き部屋? 三つあるけど、エリサ様の好みになってるとこがいいかな? あそこなら、多分ちょっと掃除したらすぐ使えると思うけど……」
頭痛がしたのか、ユリアは指先を額にギュッと押しつける。ついでのように、深いため息もこぼす。
「他の部屋は、多分ヤバいよ? ラハヤと姉さんの私服がクローゼットを占拠してるから」
「ああ、もう、わかったわ。とりあえず、アルセリアがその部屋でいいって言ったら、あそこで。ダメなら、ラハヤたちに服をどうにかするように言って」
「了解しました」
ニッコリ微笑んで、事務的な返事をする。それから、レーヴィはアルセリアをジッと見つめた。
「えっと、アルセリア……だっけ? 一緒においでよ」
ユリアとイェレミアス、エルミの表情が、一瞬で硬直した。彼らの眼差しは、あり得ないものを見たように、レーヴィをまじまじと凝視する。
「あ、はい……」
ひょいと差し出された手に、自分の手を重ねる。とたんに、ギュッと握り締められた。
「……っ」
強すぎず、弱いこともない。離れないようにつなぐなら、ちょうどいい加減だろう。けれど、いきなりの行動に、思わず息を呑んでしまった。ついでに、体をすくめてしまったところも、失礼だったかもしれない。
そんなことを思い、アルセリアは恐る恐るレーヴィを見上げる。
「ゴメンね、びっくりした? もしも嫌だったら遠慮なく言ってね?」
「え? えっと……はい、わかりました」
困ったように微笑んでいるレーヴィが、懸命に気遣っている。それに気づき、アルセリアもできるだけ笑顔になることにした。
そもそも、手をつながれたことも、いきなりだったので驚いただけだ。決して、不愉快だったわけではない。
同い年くらいなのに、ずいぶんと手が硬い。指のつけ根や手のひらに、ゴツゴツした豆がいくつもある。
(……男の子って、みんなこんな手をしてるのかな?)
少しだけ前を歩くレーヴィを見る。背が高いのか、いくらか距離があってもわずかに見上げる形になった。
よく来ているのか、彼は迷うことなく真っ直ぐに、城から出る道を歩いているようだ。気がつけば、外の明るさが見えてきている。
外に出てからも、彼の足は止まることがない。城から少し離れた場所にある、独立した建物の前で、彼はふと立ち止まった。
「ここが、居住棟。寝室も執務室もここだから、陛下たちはいつも、だいたいこっちにいるよ。謁見希望者が来た時だけ、城に行くんだ」
「そうなの?」
カルラニセルの女王は、いつ行っても城にいる。当然、女王の寝室なども城の中に存在していた。だから、城から離れるのは、視察や交流試合といった、限られた場合だけだ。城の敷地内に、こういった別の建物もない。城郭に囲まれた中に、城がぽつんとあるだけなのだ。
「あ、レーヴィだ」
「ん? ああ、何だ、姉さんか」
ユリアと色違いの恰好をした、藍色の長い髪の少女が歩いてくる。整いすぎたきらいのある顔に、優しげな微笑が浮かんでいた。
近くまでくると、彼女がずいぶんと小さいことがわかる。アルセリアより、頭半分弱小さいだろうか。レーヴィと並ぶと、頭ひとつ分近く差がある。
「明日は雨かなぁ? それとも、お母さんが泣くくらい激しい雷? あ、すっごい雪になるかも!」
「雪はないな。今の季節を言ってみろ」
「だーから、雪かも、って言ってるの。だって、考えてごらんなさいよ。レーヴィが女の子と手をつないでるんだもん。雪が降ったっておかしくないわ」
「……ああ、そっか。置いてくとマズいと思って、つかんでたんだった」
パッと手が離れる。とたんに、なぜか不安に襲われた。
「この子はアルセリア。今日から四階の空き部屋に入ってもらうんだってさ」
「ふーん、アルセリアちゃんね。私はラーケル。レーヴィの姉で、王女魔術師なの」
にこやかな笑みで自己紹介をしてくれたラーケルに、アルセリアはぴょこんと頭を下げる。
「……って、ちょっと待って! レーヴィ、あなた、この子の名前、何百回言わされたの!?」
「え……?」
レーヴィの胸ぐらをつかんで、ガクガク揺さぶるラーケルの言葉で、アルセリアはこてんと首を傾げた。
引き合わされた時を、懸命に思い返してみる。ユリアがサラリと言っただけで、レーヴィはきちんと覚えていたはずだ。
「あー、そういや、初めて一回で覚えたなぁ」
「……やだ。やっぱり明日は雪よ」
ラーケルとのやり取りから、普段のレーヴィは人の名前が覚えられないのだと推測できた。
そんな彼が、たった一度で名前を覚えてくれた。その事実が、何となく嬉しくなる。
「でも、空き部屋っていうけど、あそこしか空いてないじゃない」
「そこを見てもらって、気に入らなかったら他を空けろってさ。ユリアさんが」
「……むー、あんなにあったら、簡単に移動できないのに……。こういう時に困るから、ヒリヤさんにちょっと抑えるように言っておかなきゃ」
また聞き覚えのない名が出てきた。
アウリンクッカの名前になじみがないせいか、聞いても男女すらわからない。
「ヒリヤさんは、針子頭だよ。姉さんたちの服を作りまくってるんだけど……アルセリアが増えたから、もっと増えるんじゃない?」
「ああ、そうね。ヒリヤさんが好きそうだもの」
「え? えっと……」
話がまったく見えてこない。
戸惑うアルセリアに、二人はうんうんと頷くばかりだ。
「とりあえず、着る服の心配はないってこと。アルセリアちゃんも細身だもん、大丈夫よ」
「……いや、しばらくは問題ありだろ。姉さんたちのじゃ丈が合わないじゃん」
「……え? あら、ホント」
トコトコと近寄ってきたラーケルが、背丈を比べ始めた。そしてすぐに、驚いたらしく目を丸くする。
「あ、でも、私たちが着て足首とかなら、大丈夫じゃない? 靴だって、ヒリヤさんに言えば余ってるのを貸してくれるよ」
「んー……まあ、どっちにしても、一度着てもらうしかないだろ」
話がまとまったのか、レーヴィが再びアルセリアの手をキュッと握った。
そのまま引っ張られるように、建物の中心よりいくらか右にある階段を上る。当然のように、ラーケルも一緒だ。
「ねえねえ、アルセリアちゃんは、どこから来たの?」
「カルラニセルです」
「へぇ……じゃあ、魔女なの?」
アルセリアはゆっくりと、顔を伏せていく。見えていた壁が、少しも見えなくなる。
やはり、カルラニセルという国の名は、魔女を連想させるらしい。
魔眼を有する者が多く、それが女性に偏っている。男性で魔眼を持つ者は、百人に一人いればいい方だ。それゆえに、魔術が使えるのも女性が大半になる。
結果として、カルラニセルといえば女性の魔術師。魔女の国と呼ばれるようになった所以だ。
「あ、魔術師じゃないのかな? あの国は騎士もないし、普通の女の子ってことだね」
「……え?」
思いも寄らない言葉に、アルセリアはラーケルをジッと見つめる。
移動する魔術すら使えない。今の生まれでなければ、魔女になれない無価値な娘。物心ついた頃からずっと、そんな評価をされてきたのだ。
普通の女の子。
そんな呼び方をしてくれる人は、今までいなかった。
「じゃあ、姉さんたちが守ってやってよ。どっちにしろ、二度と近づきたくなくなるだろ?」
「やだ。レーヴィがやれば?」
階段を上りながら、再び姉弟ゲンカらしきものが始まる。
「俺がやったら、アルセリアに好きなやつができた時、面倒なことになるだろ?」
「えー? そりゃあ、レーヴィを好きな子にネチネチ絡まれるんだったら、私とラハヤが守る方が確かに面倒はないけど……いいの?」
最後はクルリと振り返り、アルセリアに問う。そのラーケルの瞳には、キラキラと好奇心が湧き上がっていた。
「あの……話が、よく見えないのですが……」
彼女たちが何を心配しているのか。いったい何が面倒なのか。そこが、さっぱり理解できない。
「んー? アルセリアちゃんは可愛いから、城にいる男たちから狙われるよね、って話。で、誰が守ってあげたらいいのかな、って」
「え……?」
可愛い。
これも、他人から初めて言われた言葉だ。たとえ、言ってくれた人が女性でも、嬉しさで頬が熱くなる。
「私はともかく、ラハヤとレーヴィだと、どっちでも似たような感じになっちゃうからね。誰でもいいと、私は思うよ?」
ここでちょうど、目的の階に着いたようだ。ラーケルは最後の段にぴょんと飛び上がり、右手側の廊下へと足を向けている。その後に、レーヴィに引っ張られているアルセリアが続いていく。
「じゃあ、鍵取ってくるから、レーヴィと待ってて」
右奥へ進んでいくラーケルを見送って、レーヴィはすぐそこにあるドアの前で立ち止まった。
白い壁の中に、焦げ茶色のドアがいくつか見えた。そのドアには、一箇所だけ、何かをはめ込めそうなくぼみがある。
目の前のドアと、その隣二つは、くぼみに何もはまっていない。だが、三つ向こうのドアからは、何かがはめ込まれているようだ。
「……あ、あの、レーヴィ」
「どうしたの?」
ラーケルと会話している時の、乱雑な印象を受ける話し方ではない。向けられる表情も、呆れたものではなく、ひどく穏やかな微笑みだ。
変わりように戸惑いつつ、アルセリアはくぼみをスッと指差す。
「えっと、このくぼみには、何か入れるの?」
「ああ、うん。部屋の使用者がわかるように、目印を描いた板を入れるんだよ。ラハヤは二つの青い月、姉さんは二つの青い星。これは固定だってさ。ちなみに、俺の部屋は青い月を一つなんだけど、面倒だったから単なる板だけ」
思わず唖然としてしまう。
たった今、部屋の使用者がわかるようにする目印だと言ったのに。何も描かれていない板では、その役目を果たせないだろう。
アルセリアの視線から、そんな感想を受け取ったのか。レーヴィはちょいと肩をすくめて、小さな苦笑いをこぼす。
「カーレルの部屋はちゃんと青い星一つだし、リューリのとこは青い星の中に花が咲いてるし、他は空き部屋だし、俺の部屋はなくたって問題ないよ」
「そういうもの、なの?」
「うん。別に、誰も困ってないしね」
ニコニコしているレーヴィは、心からそう思っているようだ。言葉にも、表情にも、声にも、まったく揺れはない。
「あ、そうだ。アルセリアの部屋は、花なんていいかな? ここに綺麗な子がいるって、ちゃんとひと目でわかるようにしたら、さすがに近づかないよね」
口調は穏やかだが、話す内容と声はどこか物騒だ。
レーヴィの言葉を肯定することも、否定することもできない。
救いを求めて、アルセリアはラーケルが向かった方向を見る。ちょうど、奥にある部屋から、ラーケルが出てくるところだった。
問題は、そのラーケルの後から、服装違いの彼女が出てきたことだ。髪の長さも、身長も、見た目の体格も、違いが見つけられない。
「……ラーケルさんが、二人?」
「ああ、騎士服の方がラハヤだよ。姉さんと誕生日もそんなに変わらないし、見た目もあの通りだし、たまに双子だって思われてるみたいだけど。俺たちの母さんと、ラハヤの父さんが、よく似た見た目のいとこなんだよ」
騎士服、という言葉で、ラハヤと教えられた少女を見る。彼女の着ている服は、イェレミアスやレーヴィと色が違う。だが、形は同じだ。
(えっと、多分、あの服を着ている人は騎士なのね。それで、ラーケルさんと同じ服の人は、魔術師なんだわ)
思い返せば、ラーケルと同じ恰好のユリアも、魔術師と言っていた。イェレミアスは騎士だったはず。
「で、俺はたまに、魔術師だと間違われるんだけど、騎士だから。ついでに言っちゃうと、姉さんもたまに騎士と間違われてるから」
服装で区別がされているのに、なぜ間違えるのか。
疑問があっという間にふくらんで、アルセリアは首を傾げる。
「後で会えばわかるけど、俺は父さんに見た目だけそっくりで、その父さんは魔術師なんだよ。で、ラーケルは、ソーニャさんに目の色以外は瓜二つでさぁ」
「ソーニャ、さん……?」
「うん。前の筆頭女王騎士で、負け知らずの強い人だよ。母さんやユハナさんも強いけど、あの人は別格だね」
強い騎士だった、と聞いて、ぼんやりと思い出したことがある。
まだ両親が生きていた頃、祖母が話してくれたのだ。昔、とても強い女性の騎士が、カルラニセルへやってきたことを。
確か、その騎士の名が、ソーニャだったはず。
「ゴメンね、お待たせー」
「……初めまして、アルセリア。私はラハヤ。王女騎士だ」
瞳の色以外、外見はラーケルそっくりだ。けれど、表情と声は違う。ラーケルはふんわりした笑顔に似合いの可愛い声で、ラハヤは凛々しい。そして、ラハヤはニコリともしなかった。
もし、ラハヤの髪が短かったら、声が低くなる前の少年と間違えてしまうかもしれない。
「初めまして、ラハヤさん。カルラニセルから来ました、アルセリアです」
「ああ、堅苦しいのはやめてくれ。敬語もやめて、呼び捨てでいい。私も呼び捨てるから」
「え、でも……」
レーヴィは同じくらいだから、彼の姉と同い年だろうラハヤは、恐らく年上だ。呼び捨てはさすがに失礼になるだろう。
「ラハヤは呼び捨てでいいよ。見知った人間にさんづけとか様づけされると虫酸が走るって、いっつも言ってるくらいだし」
「私はねー、お姉さん、でいいよ!」
「姉さんも呼び捨てでいいから」
「ちょっと、レーヴィ! それはひどいんじゃない?」
ギャアギャア言い合いをしながら、ラーケルが部屋の鍵を開ける。複数の鍵を持っているのは、別の部屋も開ける可能性を考えたからだろうか。
カチャリ、と音がして、鍵が開いたようだ。とたんに、ラハヤとラーケルはドアから思い切り距離を取る。
抜かれなかった鍵は、プラプラぶら下がったままだ。
「えっと……」
「ああ、気にしないで。二人とも、この部屋が苦手なだけだから」
いったい、どんなすさまじい部屋が広がっているのか。
ビクビクしながら、レーヴィが開けてくれたドアから中を覗く。そのとたん、アルセリアは感嘆のため息をこぼした。
「……可愛い……」
壁は白で、ベッドやチェストなどの家具は淡いピンク。部屋の中央に置かれたローテーブルは白で、深紅の絨毯によく映える。テーブルの周りにいくつか白いクッションが置かれているのは、椅子代わりなのか。
ベッドは天蓋もついているし、チェストの上には宝石箱や化粧品が並べられている。
まるで、お姫様が暮らす部屋のようだ。
「あ、あの、本当に、私がこの部屋を使っても、いいんですか?」
瞳を潤ませて、両手を組んで、アルセリアが三人に確認を取る。笑顔で頷くレーヴィと、引きつった顔で頷くラハヤとラーケルがいた。
それを確認すると、アルセリアはパッと破顔する。
「嬉しいです! ありがとうございます!」
興奮してきたのか、アルセリアの頬はほんのり上気していた。
「それじゃあ、服も見てみる? 着替えは絶対、必要だもんね」
そういうと、ラーケルはすぐ隣の部屋の鍵を開ける。そのドアは躊躇せず開けたところを見ると、内装はまったく違うのだろう。
招かれるまま、アルセリアはその部屋へ足を踏み入れる。
白い壁は同じだった。けれど、家具も白か、黒。もしくは茶だ。落ち着いた雰囲気と言えば聞こえはいいが、寒々しささえ感じてしまった。
「えっと、私たちだと丈が長い服は……」
ドアの右手側に設えられたクローゼットを勢いよく開き、ラーケルが中身を物色し始める。ラハヤはラハヤで、チェストの引き出しを開けて探し物をしているようだ。
少し待つ間に、服や小物、装飾品が、どんどん床に積まれていった。
どれもこれも、見るからに高そうで、ピカピカの新品同然だ。ほとんど身につけていないに違いない。
「このくらいかな?」
「そうだな、とりあえずはこんなものだろう」
どう考えても、ひと月の間、毎日違う服が着られる。小物の組み合わせを変えれば、数ヶ月から半年は、まったく同じ組み合わせにならないだろう。
それだけの量の服と小物を前に、アルセリアは首を横にブンブン振った。
「こ、こんなにいりません!」
「何を言ってるの? アルセリアは騎士でも魔術師でもないから、普段から私服なのよ? これでも足りないと、私は思うの」
「そうそう。私たちはこの服と夜着がほとんどで、これを着るのはたまの休日だけだ。せっかくの服が、かえって可哀想にならないか?」
「そうよね、服が可哀想だわ! アルセリアが着てくれたら、少なくともこの服たちは救われるわ。丈の短い服なんて、次の休日……えっと、いつだったかしら? そこまでジーッと待機なんだもの」
同じ顔に次から次へと畳みかけられて、アルセリアは声も出ないようだ。二人同時に「ね?」と確認を取られた瞬間、こくりと頷いてしまう。
ハッと気がついた時には、ラハヤが服と小物を抱え上げ、レーヴィに押しつけるところだった。
「姉さんたちの口と迫力に勝てるわけないよ。親はどっちかっていうと無口なのに、何で姉さんたちは弁が立つんだか」
荷物を受け取りつつ、レーヴィが呟く。とたんに、ラーケルがニッコリ微笑む。
「そりゃあ、誰も口が達者じゃないから、頑張ったんだもん。カーレルなんてのんびりすぎてダメだし、レーヴィなんて面倒くさがりだから、もっとひどいじゃない」
うっ、と低くうめいて、レーヴィはチラリとあらぬ方向を見る。口で勝てない、というのは、彼にも当てはまる話だったようだ。
「……ユリアさんに、頭のいいやつは探してもらってるぞ?」
「じゃあ、口がうまい人も探してもらって?」
「あー、多分探してると思う、イェレミアスさんが」
言いながら、レーヴィが部屋を出る。服の山を抱えたまま、どこへ向かうのかと、アルセリアは彼を追う。向かったのは、アルセリアが暮らしていいと言われた部屋だった。
部屋の中でキョロキョロした後、レーヴィはクルリと振り向く。そこにアルセリアがいることを確かめて、掃除道具をもらってくるように告げる。
踵を返してラーケルを探し、掃除道具を受け取った。それを持って部屋に戻ると、床を掃除するように言われた。
(……そういえば、使ってない部屋だって言ってたもの。埃が積もってるに決まってるわ)
やわらかな箒で床をひと通りなでる。それだけである程度綺麗になると言われ、半信半疑だった。しかし、実際にやってみると、確かに絨毯の色が少し鮮やかになったのだ。
何とも不思議な経験だった。
「とりあえず、全部床に置いとくから、自分で好きなようにしまって」
服を下ろして部屋から出たレーヴィは、残っていたらしい小物を抱えて帰ってきた。
ラーケルとラハヤは、絶対にこの部屋に近づこうとしない。けれど、レーヴィは平気なようだ。
「さすがに、下着類は俺が運ぶのはマズいだろうから、後で姉さんたちに袋に入れてもらって、アルセリアに直接渡すように言っとくよ」
「えっと……ありがとう」
「どういたしまして。何かわかんないこととかあったら、誰でもいいから聞いて?」
そう言うと、レーヴィは部屋を出ていく。
ふう、とため息をひとつこぼして、アルセリアは大量の服と小物を順番にしまっていくことにした。
‡
居住棟と呼ばれる場所で生活を始めて驚いたことは、一度や二度ではない。
まず、階段を上り下りすることなく、風呂に入ることができた。しかも、常に温かい湯が入っているそうだ。いつでも好きな時に、好きなだけ湯を浴びることができる。
目がくらむほどの贅沢だ。
さらに、食事も外に出る必要がない。やはり、同じ階に、厨房と食堂が完備されていた。そして、食事当番というものがあるらしく、レーヴィたちが順番に料理をしているのだ。
それぞれの好みがあるようで、ラハヤは肉料理が多い。ラーケルは野菜をふんだんに使って、それでも腹持ちのいい料理を作る。レーヴィは魚が好きなのか、さまざまな魚を使った料理が並ぶ。
生活を始めてすぐに、カーレルという少年と、リューリという幼い少女と会った。カーレルは、アルセリアと同じ年くらいだ。リューリはずいぶん幼く、聞けばまだ六歳なのだという。そして何より、リューリはカーレルの妹なのだ。
さらに、リューリとカーレルは、ユリアの子供だった。言われてみれば、二人ともユリアに似た面立ちをしている。
「そうそう。会うことは滅多にないだろうが、私には兄がいるぞ」
「えっ?」
いつかの朝食の時、ラハヤがそう言ったことがある。
彼女の兄はコスティといい、魔術師らしい。だが、それほど強くなく、宿舎で団体生活を普通に送っているそうだ。
「まったく似ていないから、兄を見かけてもわからないだろうな」
くつくつと低く笑うラハヤは、無性に楽しそうだった。
まだ不慣れだからと、アルセリアは食事当番から外されていた。それでも、誰かが準備を始めると、それを手伝うことにしている。
材料を切ったり、皿を並べたりするくらいは、さすがにしておきたいのだ。
空き時間には、外に出るようにもなった。まだ、居住棟の周りから離れないようにと、レーヴィだけでなく、ラハヤとラーケルにも言われている。だからアルセリアは、それを律儀に守って生活していた。
ラハヤたちからもらった服は、毎日いろいろ着ている。下着や姿見など、必要と思われるものは、来たその日のうちに差し入れてもらった。
不自由といえるのは、自由に好きなところへ行けないことくらいか。
アウリンクッカに来て十日目のその日も、アルセリアは中庭と呼ばれる場所でのんびり座っていた。
この中庭は、居住棟にある執務室から見下ろせるらしい。だから、ここか部屋にいてくれると助かると、レーヴィに言われたからだ。
全体に緑が敷き詰められたこの場所には、居住棟寄りに、大きめの石がある。よじ登らなければいけないわけではなく、かといって、座ったら服の裾が地面に触れてしまうわけでもない。まるで、座って休憩しなさい、と言わんばかりの、手頃な大きさの石だ。
この石に座ってぼんやりとしている時間を、アルセリアは気に入っていた。
「あの……」
いきなり、知らない声がして、アルセリアはビクッと体を震わせる。恐る恐る声のした方を見ると、やはり見知らぬ少年が立っていた。
(……服からすると、騎士みたいだけど……)
レーヴィと同じ服だ。
この国の騎士と魔術師は、服で分けられている。その服も、色によって明確な違いがある。
ユリアたちの着ている紫色のものは、紫衣と呼ばれ、女王が選んだ騎士と魔術師数人のみに与えられるものだ。ラハヤとラーケルの青色は、王女につけられたたった二人の騎士のものだという。当然、他にも王女がいれば、青色をまとう騎士と魔術師は増える。ただ、第一王女の騎士と魔術師は特別で、王女が女王に即位した時、筆頭と呼ばれることになるらしい。
こうした特別な者以外は、黒色を着ているのだ。
「……どうして、ここにいるんですか?」
彼は不審な様子を隠さずに問いかけてきた。アルセリアはゆっくりと首を傾げる。
「ここか部屋にいるように、レーヴィに言われたからですけど……」
「……レーヴィに?」
年齢が近しいからか、彼はレーヴィを知っているようだ。だが、その口振りは、親しみを込めたものではない。どちらかというと、嫌悪や憎悪に似たものが込められている。
直感が、彼は危険だと告げていた。けれど、体は固まってしまったように、まったく動いてくれない。
芝を容赦なく踏んで、彼は一歩近づいた。ゆったりとした足取りで、また一歩。動けずにいる間に、彼はどんどん近づいてくる。
その時、彼との間に、小さな何かが現れた。
ふわりと、癖のある金茶色の髪が揺れる。
「そこまでよ! この子には近づけさせないんだから!」
「……リューリ様……」
「だいたい、ただの騎士がここに近づくなんて、母様は何て言うかしら? おばあ様だったら、今すぐ全員訓練だって言うところよ!」
彼はリューリを知っているようで、大きな動揺を見せた。続けられたリューリの言葉に、その動揺はさらに深くなる。
「今すぐ消えて、二度と顔を見せないなら、今回は見逃してあげてもいいわ。ラハヤとラーケルは、そう言ってるもの」
苦虫を噛みつぶしたような顔をして、彼はアルセリアたちに背を向けた。そのまま、別の建物の奥へと立ち去っていく。
「……えっと、リューリ、ありがとう。助かったわ」
「いいえ、どういたしまして。私、こういう時に一番早くあなたのところへ来られるから」
リューリは、カルラニセルの魔女の血を引いている。
その事実を初めて聞いた時、涙が出そうになった。どうしてそんなに泣きたくなったのか。複雑に絡んだ感情をほどくことは、どうしてもできなかった。
自分の中にある醜い感情と、真正面から向き合うこと。それをする勇気が、その時のアルセリアにはなかったのだ。
「でも、私じゃ、アルセリアを連れて逃げることはできないし、防御壁を作って立てこもることもできないから、本当はレーヴィやラーケルがすぐに来られるといいのに」
せっかく転移魔術が使えるのに、リューリは手の届かない部分を悔しがっている。
魔女の国に生まれた娘のくせに、何もできない。そのことをひどく恥じていた自分と、少し似ている気がした。
それからは、リューリがこうして転移魔術で移動しているところを見ても、それほど気にならなくなっている。
この十日、見て知ったことがたくさんあった。
たとえば、ラハヤ。彼女の剣の腕は、かなり優れているのだろう。一度に十人程度の騎士と剣を合わせ、全員に勝利を収めることができる。けれど、それは自身の体を犠牲にもしていた。終えるといつも、ラーケルに叱られているようだ。
それはレーヴィも変わらない。ラハヤほど、一度にたくさんの相手はできないようだが、それでも五人なら同時に戦ってしまう。そしてケガを負い、やはりラーケルに叱られるのだ。
ラハヤとレーヴィが目指しているのは、ソーニャだと聞いた。彼女は素手で騎士を相手にし、片っ端から投げ飛ばし、いつも無傷で訓練を終えたとの逸話があるらしい。
ラハヤもレーヴィも、自分の腕はまだまだ未熟だと、悔しそうに剣を振る姿を見たこともある。
逆にラーケルは、ある意味完璧だ。魔術で攻撃も防御も治癒もできる。欠点などなさそうだが、異性の名前がなかなか覚えられないそうだ。城にいる騎士や魔術師の名前すら、さっぱりらしい。
レーヴィもまた、異性の名前が覚えられないのだ。妙なところで姉弟らしさを発揮していると、アルセリアは呆れた覚えがある。
カーレルは、ラーケルより優れた防御と治癒の魔術が使える。しかし、彼には攻撃する手段がない。一度見せてもらった攻撃魔術は、驚くほど悲惨な結果だった。特にアルセリアは、防御の魔術を見てからだったので、その落差には思わずため息がこぼれたほどだ。
「リューリはそう言うけど、私は、リューリが来てくれて嬉しかったわ。とっても心強くなったもの」
「ホント? ありがとう!」
嬉しそうに笑うリューリは、ユリアによく似ている。きっと、ユリアの小さい頃にそっくりなのだろうと、簡単に想像ができてしまう。
「……でも、実のところ、レーヴィだったらもっとよかった、なーんてない?」
「…………?」
アルセリアはゆっくりと首を傾げた。
時々、こういう時にレーヴィがいたら、などと聞かれることがある。言われると、少し想像してみたくなるものだ。
もし、助けてくれたのが、レーヴィだったら。
(……何となく、物語の王子様みたいよね)
ほんの少し、頬が熱くなった。
ただでさえ、顔立ちは整っているのだ。レーヴィには、危機に颯爽と現れ、あっさり救い出してくれそうな印象がある。
カーレルも、どことなくレーヴィに似た顔立ちだ。けれど彼は、非常におっとりしている。その性格が表情にも出ていて、レーヴィとは似ても似つかないふうに感じられるのだ。
「あ、それと、レーヴィが女の子の名前を全然覚えないって知ってるでしょ? ラハヤとか私はずっと一緒だから、さすがに覚えてるけど……普段は、一度じゃ絶対覚えないの。でね、レーヴィのお父さんも……」
「アルセリアは、無事だった?」
リューリが何か話しかけたところで、レーヴィがやってきた。話が途切れてしまったことが、アルセリアには残念に思われた。
レーヴィの父親が、いったい何なのか。ひどく気になってしまう。
「そんなに心配なら、もっと早く来ればいいじゃない」
「割と頑張った方だろ? リューリみたいに飛べないんだからさ」
「ううん、まだまだだね。レーヴィなら、もっと早く来れるはずだもん」
「……ラハヤだったら、俺より早いかもな」
ちょいと肩をすくめて、レーヴィはアルセリアの顔を覗き込む。
予想より近いところに濃い緑色の瞳が現れて、アルセリアは思わずビクッと身を引いた。
「……あ、ゴメン。また驚かせちゃった?」
「ホント、レーヴィったらヴァルトさんそっくりね」
クスクス笑って、リューリはふわりと姿を消した。直前に聞き慣れた呪文が聞こえたことから、転移魔術を使ったのだろう。
「ヴァルトさん……?」
硬質な響きのあるその名は、何度か聞いたことがある。けれど今まで、改めて問うことができなかった。問いかけるだけの隙間が、流れる会話の間になかったのだ。
「ああ、俺の父さん。そういや、まだ会ってなかったっけ?」
「うん。レーヴィのご両親や、ラハヤのご両親にも、まだ会ったことがないわ。あ、あと、リューリのお父様にも」
「……あー、サーラさん……っと、ラハヤの母親は、城にいないからなぁ……街に行ったら会えるよ。今度、一緒に行こうか。カーレルたちの父親は、たまーに城にいるけど、俺でも滅多に会わないから難しいかも。で、俺の両親とラハヤの父親だったら、訓練場によく出没してるから、会えそうな時間に行ってみる?」
夫婦なのに、同じところで暮らさないのか。たまにしか城にいない人は、いったい何をしているのか。
その二つが気になって、後半があまり頭に入らない。だからアルセリアは、また顔を覗き込まれて仰け反ることになった。
「父さんたちを見に、訓練場に行ってみたい?」
仰け反った姿勢のまま、アルセリアは瞬きを繰り返す。
目の前には、いたずらっ子のような、意地の悪い笑みを浮かべたレーヴィがいる。
「俺は、アルセリアと一緒に行きたいんだけど……ダメ?」
楽しそうな表情に、わずかな陰りがあった。
何が彼に影を落とすのか。それが、無性に気になってしまった。
「ううん。ねえ、レーヴィ。一緒に行ってくれる?」
「もちろん、喜んで」
パッと破顔して、レーヴィはアルセリアから程よい距離を取る。その位置から、石に座る彼女へ、スッと手を差し出した。その手にアルセリアが自分の手を乗せると、グイッと引っ張られて落ちそうになる。
慣れない靴がやわらかな地面に引っかかり、転びそうになった。そこをすかさず、レーヴィが支える。
「大丈夫?」
「……う、うん……大、丈夫」
最初の手の感触からして、同い年とは思えなかった。こうして体が触れ合うと、ますますそういう感覚が強くなってしまう。
男の子なのだと、はっきり意識してしまうのだ。
連れていかれた訓練場で会ったレーヴィの母親シーヴは、ラハヤにそっくりだった。髪の長さと年齢以外、違いがないように感じられたほどだ。そういう意味では、ラーケルにそっくりだと言える。
逆に、レーヴィの父親ヴァルトが、レーヴィの未来を見ているように似ていた。違いは、瞳の色くらいだろう。
瞳の色と就いた職だけが、異性の親と同じと教えられた。
「ふーん、この子が噂のアルセリアか。うん、かなりの美少女だな」
「さすがシーヴ。女の子の情報は早いよね」
「ユリアが、レーヴィが一回で名前を覚えた女の子だと教えてくれたからな。いったいどんな奇跡が起きたのかと思っていたが、納得したぞ」
シーヴの話し方は、ラハヤのようだった。心なしか、声も似ている気がする。
「そういえば、そんな話を聞いた気がするけど」
対するヴァルトは、穏やかな時のレーヴィと似た口調だ。にこやかにしていると、年を重ねたレーヴィがいるような錯覚さえ起こす。
「アルセリアはカルラニセル出身だが、魔女ではない、普通の女の子らしい。いいか、レーヴィ。きちんと守ってあげるんだぞ? 僕は、レーヴィをそんな情けない男に育てた覚えはないからな」
「わかってるよ。俺だって、アルセリアを守りたいからさ」
ぬけぬけとレーヴィが言い放ち、シーヴは頭を抱えた。聞いていたアルセリアは、恥ずかしそうにうつむいてしまう。
「……レーヴィの言うことが、年々ヴァルトになっていくんだが……」
「俺よりひどいでしょ。俺はシーヴと二人の時しか、そういうことは言わないって決めてるし」
「いつでもどこでも言っているだろうが!」
涼しげに笑って否定するヴァルトは、間違いなくレーヴィの父親だった。
‡
こうして知り合いを増やしながら、アルセリアは勉強をすることにした。アウリンクッカのことだけではない。そもそも、カルラニセルのことですら、大して知らないで生きていた。その上、カルラニセルと陸続きの国について、何も知らないことが嫌になったのだ。
昼間は、女王の執務室で、ユリアたちに歴史や文字などを教わることになった。その分、一階下にいるレーヴィたちとは、自然と接点が少なくなる。
夏の初めに来て、今は辺り一面が雪景色だ。
「もうすぐ、雪祭りの時期ね」
誰かに聞かれているとは思わず、アルセリアは小さく呟いた。
カルラニセルでは、冬の半ば辺りで、雪祭りと呼ばれる祝祭があった。その日に好きな人と焼き菓子を食べると幸せになれる、と言われている。
両親がいた頃は無邪気に、両親と一緒に食べていた。祖母も亡くしてからは、祝祭のこと自体を忘れていたのだ。
思い出したのは、今がずいぶん幸せだからなのかもしれない。
「あら、カルラニセルの祝祭ね。せっかくだから、やってみる?」
後半をイェレミアスに投げかけて、ユリアが話に乗ってきた。書類の整理をしていたイェレミアスは、怪訝そうに首を傾げるばかりだ。
「好きな人と焼き菓子を食べると幸せになれる、という言い伝えのある祝祭よ」
「なるほど……面白そうだな」
そう返事をしたイェレミアスは、明らかに自分がすることを想定していない。人々の楽しみになる、いいことを聞いた。そんな表情だ。
「イェレミアスも、ヨハンナと食べなさいよ。マルセラに言えば、甘くない焼き菓子を作ってくれるでしょ?」
「…………か、考えておく……」
年齢が年齢だから、きっと、ヨハンナというのは、イェレミアスの妻なのだろう。そして彼は、そのヨハンナが大好きなようだ。耳まで真っ赤にして、明後日の方向を向いてしまった。
(そういえば、イェレミアス様のお子様のお話は、聞いたことがないような……)
レーヴィたちからも、彼の子供の話を聞いた覚えがなかった。
子供がいないことは考えにくいから、城で働いていないのかもしれない。
「私もたまには、リクと食べようかしら」
「……それは、リクが泣いて喜ぶな」
「そういうところが可愛いのよ。でも、シーヴと、ラハヤとラーケルとも、食べたくなるのよね」
「……やはり、リクが泣くのか」
ユリアに関しては、夫にほどほどの興味しかないように見える。それでも、人並み以上の好意はあるのだろう。
呆れ果ててため息をつくイェレミアスを見ていると、そう信じたくなるのだ。
「アルセリアは、誰か一緒に食べたい人がいるかしら?」
「え? えっと……」
しっかりと考え込む前に、レーヴィの顔がフッと浮かぶ。
一日一回は顔を合わせている。けれど、勉強を始めてから、じっくりと会話する機会が減っていた。
(……幸せになれるなら、レーヴィと一緒がいいなぁ……)
城にいる騎士や魔術師がやってきても。レーヴィのことが好きだと言う女の子たちが来ても。レーヴィは毎回、きちんと守ってくれた。
守られるばかりで、何も返せない。それどころか、隣に立つ資格すらないのでは。
そんなことを考える自分が嫌で、まずは知識を得るところから始めてみた。
自信を持って、レーヴィのそばにいたい。そう思ったからだ。
「一緒に食べたらいいわ。うんと甘い焼き菓子を用意して、ね」
アルセリアの思考が筒抜けなのか。ユリアはニッコリ微笑んで、そんなことを言う。
「アルセリアの分も、マルセラに頼んでおくわね」
「あ、いえ……その……」
どうせなら、自分で作ったものを食べてもらいたい。
何しろ、いまだに食事当番に混ぜてもらえないのだ。手料理を振る舞う機会が一度もないまま、半年近く経ってしまったことになる。
「それじゃあ、厨房を貸してもらえるように、マルセラに伝えておくわ。空いている時間を聞いておくから、アルセリアのいい時間で行ってらっしゃい」
ユリアには、人の心が見えるのか。そう思ったことが何度もある。時には今のように、ギョッとすることを言われたりもした。
雪祭りの前日、厨房を借りて甘い焼き菓子を作った。
焼いている間の待ち時間で、マルセラと少し話をした。彼女もまた、カルラニセルから移り住んだのだという。
彼女の夫はレース編みの職人だそうだ。いつも髪に飾っている向日葵の髪飾りは、その夫から初めて贈られたものらしい。マルセラがとても大切にしていることが、見ただけでわかる。
「……誰が食べるの? レーヴィくん? そっか、じゃあ大丈夫だね」
アウリンクッカには、甘い食べ物を一切受けつけない人が多いのだと聞いた。けれど、それが平気な者もいるらしい。
他国から来た人はもちろん、この国にも、たまに平気な人が生まれるそうだ。ヴァルトやレーヴィ、ラーケルとラハヤは平気な口で、ユリアやイェレミアス、女王、王女はダメなのだという。
誰が平気で、誰がダメなのか。
きちんと覚えておかないといけないと、マルセラに厳しく注意された。食べられない人の前で匂いでもさせようものなら、ものすごい勢いで逃げていかれるらしい。
作り上げた焼き菓子を、リネンで包んで部屋へ持ち帰る。
明日の朝、レーヴィに会ったら、一緒に食べようと頑張って誘うのだ。
気合いを入れて眠った翌朝。アルセリアは、クローゼットの中から一番似合うと思う服を取り出した。
滞在するようになってから、ヒリヤが作ってくれたものだ。彼女は似合うものを着せることが趣味らしく、着ているといつも喜んでくれる。
腕はピッタリとしているが、肩や胸元には布を重ねてふんわりさせている。スカート部分も布を重ねてあるので、やはりふわりと広がっていた。リボンや花飾りがたくさんついているところも、アルセリアが気に入っている点だ。
ただし、布の量が多いらしく、少し重いところが欠点だろうか。
髪もまとめ上げて飾り、準備を整える。
(大丈夫……大丈夫……)
気持ちを落ち着けるために、焼き菓子の入った籠を持っていない左手を、胸の前でギュッと握った。
一緒に食べようと、誘うだけだ。断られたら、籠ごと押しつけてしまえばいい。
レーヴィのために焼いたのだから、一人で食べるのは嫌だった。
ドアから出て、レーヴィを探しに行こう。そう決めてドアを開けたアルセリアは、驚きのあまり、もう一度部屋に戻ってしまった。
(え? ……え?)
すぐそこに、レーヴィが立っていた気がした。
「アルセリア、ちょっといい?」
やはり、気のせいではなかったようだ。
いくらか落ち着いていた心臓が、大きな音を立てている。そのうち壊れてしまうのではないかと思うほど、やけに激しく動いていた。
「ど、どう、したの……?」
「えっとさ……今日、午前中は空いてる?」
「午前も午後も、予定は何もないよ」
今日は一日、勉強は休みになっている。ユリアしかいないため、仕事の片手間では十分に教えられないから、というのが理由だ。
「そっか、よかった。あのさ、街に行かない? ずっと、アルセリアとはゆっくり話せなかったし、街に連れてくって約束も、全然果たせてないから」
来てすぐくらいに、休みの日に連れて行ってもらう約束をした。けれど、アルセリアが勉強を始めて、しかも毎日ユリアたちのところへ通っていたため、流れっぱなしになっていたものだ。
(……覚えてて、くれたんだ……)
レーヴィはかなり面倒くさがりではあるが、やけに律儀なところもある。だからこそ、忘れなかったのだろう。
「あ、あの! レーヴィに、お願いをしてもいい?」
今言わなければ、言えずに今日が終わってしまうかもしれない。
急にそんな気分になって、アルセリアは少し声を張り上げる。そんな彼女が珍しいからか、レーヴィは驚いた様子だ。
「うん、もちろん。何でも言って?」
「あ、あのね……一緒に、焼き菓子を食べて欲しいの」
言ってから、アルセリアは持っていた籠を差し出す。
「昨日、私が作ったの。レーヴィに、食べて欲しくて」
どんな答えが返ってくるのか。
心臓が激しく踊って、キーンと耳鳴りがして、頭がクラクラして、今にも倒れてしまいそうだ。
「……ありがと。すっごく、嬉しいよ」
見上げると、今まで以上に優しくて、穏やかな微笑を浮かべるレーヴィがいた。
「中庭に行こう?」
スッと差し出された手に、アルセリアは自身の手をそっと重ねる。それからレーヴィは、反対の手も差し出してきた。
「籠、貸して。俺が持つよ」
怖ず怖ずと渡すと、つないだ手をキュッと握り返される。
「あ、そうだ。俺、だいぶ前からずっと、アルセリアに言いたいことがあるんだよね」
「え? えっと、何……?」
いったい、何を言われるのか。
先ほどとは違う妙な緊張感で、体がガタガタと震え出しそうだ。
「アルセリアが好きだよ」
「……ぇ?」
聞き違いだろうか。それとも、自分の耳が都合よく解釈したのか。
「俺は多分、いくつになってもアルセリアが大好きでしょうがないと思うから、絶対に手放したくないんだ。でも、アルセリアが、俺じゃない誰かが好きなら、頑張って諦めるよ」
レーヴィは相変わらず、いきなりひょいと顔を覗き込んでくる。驚いたアルセリアは、いつものように体を仰け反らせた。
急だから驚くのであって、取り立てて不愉快ではない。
けれど、それを知らないからだろう。不安そうな色が、濃い緑色の瞳にチラチラと見える。
「……私も、レーヴィが好きよ」
頬がゆるゆると熱くなってきた。
レーヴィを好きでなければ、何も持たない自分を、ここまで恥じたりはしない。
ごく普通の女の子だから、守られていればいい。そう言われるかもしれないが、それだけでは足りないのだ。
一方的に守られて、支えられているのは、違う。
「だから、私にできることを探したくて、ユリア様たちにいろいろ教えてもらっているの。私は、魔女でもないし、この国だけじゃなくて、カルラニセルのことだって何も知らなかったから……」
足手まといではなく、力になりたいのだ。
「胸を張って、レーヴィの隣にいられるように、なりたいの」
「アルセリアが頑張ってるのは知ってたけど……その、さ。俺、今すっごく嬉しいんだけど、アルセリアを抱き締めてもいい?」
「えっ……」
いいとも、ダメだとも、とっさに言えなかった。
黙り込んだアルセリアを、レーヴィはそっと抱き締める。壊れ物を扱うように、どこまでも優しい力加減だ。
「アルセリアには戦う力がないから、危ない時は俺が守るよ。でも、俺は人の顔と名前を覚えるのが苦手だから、そこはアルセリアに助けて欲しいな」
「うん……助けるから、困った時は助けてね?」
額、目尻、頬、唇と、順に降ってくるキスを受け止める。
「……じゃあさ、明日から、アルセリアも食事当番に混ざる?」
甘さとくすぐったさに目を閉じていたアルセリアは、パッと目を開けてレーヴィを見上げた。
「俺より先に、誰かがアルセリアの作った料理を食べるのが嫌で、姉さんたちに頼んで外してもらってたんだ。でも、アルセリアが作ってくれた焼き菓子があるから、さ」
幼いリューリはともかく、当番に混ぜてもらえないことに、強い疎外感があった。それがなくなるのなら、ますます嬉しくなってしまう。
「うん! ありがとう、レーヴィ」
ふんわりと微笑むアルセリアに、レーヴィは目元をわずかに赤く染めた。
アルセリアが中庭でレーヴィと食べた焼き菓子は、確かに幸せにしてくれた。
この出来事が根拠となったように、翌年からアウリンクッカ国内では、雪祭りが盛んに行われている。その翌年には他国にも波及したようで、今では焼き菓子以外の菓子で祝う人も出てきているようだ。
幸せをつかむ、雪祭りの焼き菓子。
それは、魔女になれなかった少女が運んできた、新しい幸福の呼び水だった。