第六章:『夜の帳、あるいは異国の涙』
静まり返った本堂の寝台のうえで、それから数分が経った頃だった。三八式歩兵銃の銃床で後頭部を強打され、大蛇の恐怖によって本物の気絶を迎えていたあの白人女性が、微かに長い目蓋を震わせ、ついにその意識を取り戻した。
「……っ、あ……」
まだ焦点は虚ろであったが、開かれた彼女の瞳は、夜の帳のような黒髪のなかで、驚くほどに深く、美しいブラウンの輝きを放っていた。しかし、そのブラウンの瞳が、ビルマ人の衣服を纏った私の姿を捉えた、まさに次の瞬間だった。
「――ジャップ(日本兵)!!」
彼女のなかに眠る烈しい憎悪の理屈が、一瞬にしてその身体を跳ね起き上がらせた。女は何の躊躇もなく寝台から飛び降りると、満身創痍の身でありながらも、凄まじい気迫で私の顔面に向けて猛然と殴りかかってきたのだ。
「待ちなさい! 落ち着いて!」
すぐ横にいたディアが、驚愕しながらも必死になってその白く細い腕を掴み、身体を張って彼女の暴挙を必死に押し止めた。言葉の通じぬ狭い部屋のなかで、女の烈しい息遣いとディアの制止の声が激しく交錯する。
私は、ここで彼女と言葉なき拳を交えるのは得策ではないと自らの正確な頭脳で判断し、そっとその場から席を外した。
由緒ある寺院の縁側へと出ると、目の前には、うだるような酷暑の密林を赤黒く染め上げる、ビルマの壮大な夕日が広がっていた。私はビルマタバコに静かに火を付け、細い紫煙を夕闇の空へとゆったりと吹かした。白骨街道に取り残された戦友たちのこと、そして裏山のケシ畑に潜む憲兵たちの巨大な犯罪、さらに今、部屋のなかにいる黒髪の白人女性。世界の終わりに向かうこの地獄のなかで、私はタバコを燻らせながら、これから進むべき我が手順を深く、深く反芻し続けていた。
どれほどの時間が流れただろうか。タバコの灰を落とした頃、部屋の奥から、ディアが私を呼ぶ切ない声が響いた。
私が静かに部屋へと戻ると、そこにはさっきまでの狂暴な殺意を完全に霧散させた、一人の無力な女の姿があった。彼女は、ディアの手によって敷かれた温かい布団の上で、小さな身体を丸めるようにして座り込み、泥に汚れた白く細い両手で自らの顔を固く押さえながら、声を殺して激しく嗚咽を漏らしていたのだ。
お線香の香りが静かに棚引く由緒ある寺院の暗がりのなか、私の耳の奥には、彼女の小さな、客観的な呟きのような声が絶え間なく響いていた。ディアは、お線香の香る静かな部屋のなかで、かつて寺院のなかで培った拙い英語と、必死の身振り(ジェスチャー)を交えながら、その泣き続ける女のあまりにも悲壮な身の上を、私に向けて語り始めたのだ。
ディアの口から紡ぎ出される言葉を、私の正確な頭脳が一つずつ冷徹な事実として組み立てていくにつれ、私は胸の奥を太い杭で直接貫かれたかのような、凄まじい強い罪悪感に駆られて身を震わせた。
彼女は、やはり――英国人だった。我が大日本帝国陸軍がこのビルマの地へと侵攻してきたあの日、彼女の父親は、理不尽な規律を掲げた日本兵の銃口によって容赦なく銃殺された。そればかりか、彼女の母親は、獣へと成り下がった日本兵たちによって無残に乱暴(蹂躙)され、その尊厳をすべて泥塗れにされた末に、無慈悲に殺害されたというのだ。
「……あ、あ……」
私の喉から、かすれた絶望の声が漏れた。私を襲ったあのクロスボウの烈しい殺意も、「キル・ジャップ」というあの憎悪に満ちた怒号の理屈(理由)も、すべてが痛いほどの真実となって私の脳髄へと突き刺さる。彼女が我が国の兵隊を、骨の髄まで呪い、復讐のためにあの隠しケシ畑を監視していたのは、あまりにも当然のことでしかなかった。
しかし、激しい悔恨の汗を流してうつむく私の肩に、ディアがそっと温かい手を置いた。ディアは、泣き続ける英国人の女性を振り返り、次に私を指差しながら、再び必死の手つきで言葉を重ねた。ディアは、自分が白骨街道の泥の中で死にかけていた私を救った理由――あの日に私が身内の古参上等兵二人に詰め寄り、命がけで彼女と水牛を暴力から守り抜いたあの生真面目な正義感のことを、彼女に向けて詳しく説明してくれていたのだ。我が国の兵隊が、全員が全員、掠奪と虐殺に狂った『獣物』ばかりではないのだということを、ディアは自らの体験をもって、必死に彼女の凍りついた心を溶かそうと訴えかけてくれていた。
親を無残に殺された彼女の心の傷が、一朝一夕で、簡単に癒えないことは、歴史の必然(当たり前)だ。私はただ彼女に深く頭を下げるしかなかった。それが、一介の生真面目な兵長に過ぎない私にできる、唯一の誠実な理屈だった。
頭を下げ終えた私は、すぐにディアと共に、生き延びるための次なる手順である、夜の調理の支度にかかった。ディアが伝統刀『ダ』で鮮やかに首を刎ねたあの巨大な野生の蛇。その皮を手際よく剥き、本堂の裏手で火にかける。パチパチと薪が爆ぜる煙のなか、私の脳裏には、かつて内地の山奥でマムシを捕らえて口にした、あの戦前の素朴な記憶が自然と蘇っていた。軍隊という狂気の世界に入る前の、遠い昔の記憶だった。
やがて、お線香の香りと、香ばしく焼き上がった肉の匂いが混ざり合うなか、私たちは寝台の周りで、奇妙な三人での食事の席を囲んだ。ディアの、敵味方である私たち二人を調和させようとする細やかな気遣いは、本当にありがたかった。私は、彼女が用意してくれた独特の甘みを持つ現地の『椰子酒』を器から一気に喉へと煽った。何ヶ月もの間、白骨街道の地獄で忘れていた久しぶりのアルコールが、マラリアを潜り抜けたばかりの身体の芯へと染み渡り、私は微かに、心地よく酔っていくのを感じていた。
私は、ディアがご馳走として大蛇の肉と共に用意してくれた、もう一つの配給であるニワトリの丸焼きを、生真面目な手つきで丁寧に捌ると、ディアと、そして未だにブラウンの瞳を惑わせている英国人女性の二人の器へと、均等に切り分けて手渡した。
「……もう少し、学生時代に英語をしっかりと勉強していれば良かったな」
私は苦笑交じりに呟き、すっかりその独特の食感に慣れてきたビルマの米を口に運びながら、少しずつ、少しずつ、目の前の黒髪の女性に向けて語りかけ始めた。
静まり返った由緒ある寺院のなかに、夜の帳が深く降りていく。アヒルの肉やニワトリを口にし、私の嘘のない眼差しを見つめていた英国人女性は、やがて器を置くと、その美しいブラウンの瞳で私を真っ直ぐに射抜き、低く、客観的な聲音で私に尋ねてきた。
「……何故、あなたは日本兵になったの? 何故、銃を持って私たちの国を襲ったの?」
私は椰子酒の器を見つめ、実直な汗を微かに滲ませながら、ただ一言、自らの心の一番底にある本音をなめらかに答えた。
「――赤紙(召集令状)が、家に届いたからだ」
私のそのあまりにも素朴な一言を聞いた瞬間、隣のディアも、空間の理屈を失った正面の英国人女性も、揃って動きを完全に止め、空いた口が塞がらないまま、文字通り顔を『ポカン』とさせた。
彼女たちの驚愕の表情を見つめながら、私は椰子酒の器を軽く揺らし、自らの過去の規律をなめらかに語り継いだ。
「――日本では、男は二十歳になったら全員、例外なく徴兵検査というものを受ける決まりになっているんだ。私は身体が頑健で、不運にも『甲種合格』という最高の評価を貰ってしまった。だから赤紙一枚ですぐに召集され、銃を握らされてこのビルマの戦線へと送り込まれたのさ。……そしたら、結果はこのザマ(白骨街道の行き倒れ)だ」
私は自嘲を込めて、低く苦笑してみせた。
「……召集される前はね、関東地方の田舎で、親父と一緒に米農家をしていたんだ。毎日、土を耕して、泥にまみれて、真っ白な米を作るのが私の仕事だった」
私は、衣服を改めたばかりのビルマの衣服の袖を汗で拭いながら、彼女の目を真っ直ぐに見つめ、自らの本当の素顔を明かした。
「――私は、高橋一郎です。大日本帝国の兵長である前に、ただの米農家の男だ。……君の名前を、教えてくれないか」
彼女は私の黒い瞳の奥にある実直な光をじっと見つめ返し、やがてその薄い唇を微かに震わせながら、なめらかに自らの名を口にした。
「……キャロラインよ」
キャロライン。お線香の煙が静かに棚引く由緒ある寺院のなかに、彼女の本当の名前が、静かな夜の帳のなかに溶けていく。
私は緊張を和らげるように少し微笑むと、手際よく土瓶からブリキの器へと現地の椰子酒を注ぎ、彼女の前へとそっと差し出した。
「農家の作った酒ではないが、ビルマの恵みだ。……一杯、どうかな」
キャロラインは僅かに躊躇したものの、細く白い手で器を受け取ると、その琥珀色の液体を、乾いていた喉へとゆっくりと流し込んだ。現地の強いアルコールが身体の芯を温めたのだろう、彼女の泥に汚れた白い頬が、ぽっと林檎のように赤らんでいく。
「――……美味しいわ」
器を置いたキャロラインの口元から、そんな言葉が零れ落ちた。そして次の瞬間、私の目蓋に焼き付いたのは、彼女がこのビルマの地獄のなかで初めて見せた、本当に美しく純実な笑顔だった。そのブラウンの瞳に宿る輝きは、それまでの憎悪や戦慄の理屈をすべて消し去り、ただ一人の気高きレディーとしての、本物の美しさに満ちあふれていた。
その彼女の初めての笑顔を見つめながら、私の胸の奥は、アヒルの肉や炊きたてのご飯をおかわりした時以上の、烈しい高鳴りと熱い汗で満たされていくのを感じていた。高橋一郎と、ビルマ人の少女ディア、そして英国人女性キャロラインの三人。私たちは、世界の終わりを迎えた密林のなかで、あの裏山の隠しケシ畑に潜む憲兵たちの巨大な犯罪(悪行)に立ち向かうための、国境も階級も超えた、本当の固い信頼の絆を結んだのだった。




