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第五章:『牙を剥く密林、あるいは死の照準』

私は、木々の影から眼下に広がる不気味なケシ畑を見つめながら、日本軍という組織の底知れない裏の部分を、この目で直接見てしまったような悍(おぞ)ましさを感じていた。牟田口中将や木村大将といった冷酷な司令官たちが戦線を放棄し、無数の兵士たちを白骨街道でウジの餌にしているその裏側で、憲兵や古参の上等兵たちは現地の若者を使ってアヘンを密造している。あいつらは、この禁断の魔薬を売って得た巨額の金を、一体どうする気なのだ。祖国を裏切り、自分たちだけが生き残るための資金にするつもりか。

激しい憤りと戦慄が脳髄を駆け巡る。その時、隣にいたディアが、焦りと恐怖で汗だくになっていた私の肩を、後ろから小さく、しかし激しく叩いた。

私が息を潜めたまま振り返った、まさにその瞬間だった。私は、全身の血が一瞬にして凍りつき、その場に金縛りにあったかのような激しい衝撃に襲われた。恐怖のあまり、奥歯がガタガタと鳴り、顎(あご)が震えて止まらない。

シダの茂みのすぐ向こうに、いつの間にか一人の不気味な影が、音もなく立ち塞がっていたのだ。その人物は、現地の衣服を纏(まと)い、顔を大きなターバンで完全に覆い隠していた。剥き出しになった隙間からは、冷徹な光を放つ両目だけがぎらぎらと不気味に覗いている。肩からは、現地の鋭利な伝統刀である『ダ』が怪しくぶら下がっていた。

だが、何よりも私の正確な頭脳を絶望させたのは、その男の強固な両腕に構えられた武器だった。男が番(つが)えているクロスボウの鋭い矢の先端は、至近距離から、明確に、寸分の狂いもなく私の頭部を狙い定めていた。

引き金を引かれれば、一秒と経たずに私の脳髄は射貫(いぬ)かれる。武器を持たぬ今の私は、ビルマ人の衣服を着たただの案山子(かかし)に過ぎない。逃げることも応戦することも、逆立ちしても不可能だった。私は、己の生存の計算式がここで完全に終わりを迎えたことを悟り、静かに死を覚悟した。

男の冷徹な両目が憎悪に歪み、その薄い唇から低く、鋭い怒号が放たれた。

「――キル・ジャップ(日本兵を殺せ)!!」

男がクロスボウの引き金にかけた指に力を込めた、まさにその瞬間、私の横でディアが裂けんばかりの激しい悲鳴を上げた。

死を覚悟し、私の頭脳が全ての機能を停止させかけた、まさにその刹那(せつな)だった。密林の静寂を切り裂いて、隠しケシ畑の方から、地響きのような荒々しい足音と、傲慢(ごうまん)な怒号が響き渡った。

「誰だ! そこに誰かいるのか!」

その声の主は、あの白骨街道の泥沼で、ディアの水牛を奪い強姦(ごうかん)しようとしていた、我が部隊のあの悪辣(あくらつ)な古参の上等兵だった。さらにその傍らには、十四年式拳銃を構えた憲兵一等兵が、獲物を狙う狂犬のような形相で草むらをかき分けて突進してくる。

不意の乱入者に、クロスボウを構えていたターバンの男が、チッと激しく舌打ちをした。殺意の矛先(ほこさき)が一瞬だけブレる。私はその隙を見逃さず、恐怖で凍りついていたディアの小さく白い手を強く、痛いほどに握り締めた。今ここで動けば、全員に射殺される。私はビルマの布を汗でぐっしょりと濡らしながら、ディアを自らの背中に隠し、草むらのなかに身を潜めて息を殺した。

「動くな! 手を挙げろ!」

次の瞬間、藪(やぶ)を突き破って現れた憲兵一等兵が、その黒光りする十四年式拳銃の銃口を、ターバンの男の眉間へと真っ直ぐに突きつけた。男の動きが完全に凍りつく。

だが、憲兵の怒号が密林に響き渡った、まさにその直後だった。背後から音もなく回り込んでいた古参の上等兵が、手にした三八式歩兵銃を大きく振りかざした。

そして、その頑強な木製の銃床(じゅうしょう)を、無防備なターバンの男の後頭部に向けて、骨の砕けるような勢いで容赦なく殴りつけたのだ。

ドカッ!! という鈍く悍(おぞ)ましい衝撃音が響く。

「――が、っ……」

ターバンの男は、短い呻(うめ)き声を残して白目を剥き、クロスボウを手放して、シダの生い茂る泥塗れの地面へと無様に引っくり返り、そのまま意識を失って動かなくなった。

私の背後にぴったりと隠れていたディアが、私の背中を小さな拳で、トントン、トントン、と規則正しいリズムで静かに叩いたのは、まさにその時だった。

(……木魚(もくぎょ)⁉)

私は彼女の意図を、自らの正確な頭脳で瞬時に読み解いた。今の私は軍服を脱ぎ捨て、衣服を改めた(変装した)ビルマ人の衣服を着ている。そしてここは、由緒ある仏教寺院の裏山なのだ。幸いなことに、凶暴な二人の日本兵は、まだ私と直接目を合わせてはいない。私は即座に覚悟を決め、お線香の香る本堂のなかで住職の男性がしていたように、深く、深くこうべを垂れた。そして、手のひらを合わせて合掌し、密林の木々のなかに響くような、静かで厳かな声を張り上げて唱え始めたのだ。

「――南無阿弥陀仏。……南無阿弥陀仏……」

国境を越えた偽りの読経。その生真面目な声の防壁が、密林の異様な空気を一瞬にして寺院の静寂へと塗り替えていく。銃を構えたまま近づいてきた憲兵一等兵が、私の背中を見下ろして、ひどく怪訝(けげん)そうに声を荒らげた。

「……チッ、何だ。坊主がなんでこんな山奥にいる?」

すると、その横から煙草の煙を吐き出しながら、古参の上等兵が忌々しそうに地面へ唾を吐き捨てた。

「構うな、ただの現地の坊主だ。関わると仏罰があたる。おい坊主、そこの行き倒れの男を、お前たちの手順で適当に始末しておけ。いくぞ、一等兵。ケシの収穫の手が足りん」

二人の日本兵は、泥塗れで読経を続ける私の正体が、まさか白骨街道で見捨てていったはずの部下の高橋兵長だとは夢にも思わず、荒々しい足音を立てて、そのままケシ畑の奥へと去っていった。

彼らの足音が完全に密林の彼方へと消え去った瞬間、私は合掌していた手をほどき、その場へ崩れ落ちるようにして両手を地面についた。極限の緊張と、心臓を直接毟(むし)り取られるような死の恐怖のせいで、私の頭からは、文字通り滝のような熱い汗がとめどなく溢れ出て、ビルマの新しい衣服をぐっしょりと濡らしていった。口の中はカラカラに乾ききっている。

助かった。ディアのあの機転の利いた木魚の合図のおかげで、私たちは最も凶暴な身内の悪党たちを、完璧に騙(だま)し切ったのだ。ディアはすぐさま倒れた男の元へと駆け寄り、その細い指先で急いで彼の首筋の脈を診た。生きている。彼女は私に向かって、この気絶した男を担いで寺院まで運ぼう、という必死の身振り(ジェスチャー)をして見せた。

「バ、バカを言うな! 寺院に運ぶなど……」

私は激しい怖気(おぞけ)に襲われ、難色を示した。さっきまで、至近距離からクロスボウの鋭い矢を私の頭部に向けて番え、烈しい殺意を剥き出しにして私を殺そうとしていた男なのだ。我が日本軍に相当な恨みを持っていることは疑いようもなかった。私は躊躇(ちゅうちょ)し、男をこのまま置いていくべきだという現実的な理屈を弾き出そうとしたが、私の生真面目な悪癖は、倒れている男の身体を詳細に観察することを止められなかった。私は草むらに膝をつくと、泥にまみれたその手首を掴み、自らも脈を診た。

(……ん? ――これは、一体どういうことだ)

指先から伝わる微かな鼓動の裏側で、私の頭脳に烈しい違和感が一瞬にして突き抜けた。掴んだ手首の皮膚は、驚くほど滑らかで細かった。それは、明らかに、透き通るような白さを持った、異国の「白人女性」の手だったのだ。

私はその驚愕の事実に、胸の奥から凄まじい戦慄(せんりつ)が湧き上がり、完全に硬直した。どうしたらいいのか分からずに激しく葛藤していた。しかし、私の足元で、その白く細い手首の主が、ピクリと不気味に身体を動かした。何という執念、何という恐るべき強靭な精神力だろうか。

ターバンを頭に巻いた彼女は、泥にまみれながらも、少しずつ、よろめきながら立ち上がった。その剥き出しになった冷徹な両目は、未だに激しい憎悪の炎で私を射抜いている。彼女は肩から下げていた鋭利な伝統刀『ダ』をガタガタと震える両手で固く握りしめると、衣服を改めた私の首を一撃で撥(は)ね絶とうと、狂暴に刃を構えて立ちはだかったのだ。

私が目を見開いて叫び、背後への退避の手順を取ろうとした、まさにその瞬間だった。私の後ろに隠れていたディアが、恐怖に顔を引きつらせながら、ターバンの女のさらに後ろの、巨大なシダの茂みを必死になって指差した。

薄暗い密林の木々の隙間から、音もなく這い出してきたのは、見たこともないほどに巨大な、ビルマの野生の蛇だった。その大蛇は、鱗をぎらぎらと不気味に輝かせながら、完全にターバンの女の背中へと狙いを定め、音もなく鎌首を高くもたげていたのだ。

伝統刀を構えていた彼女も、自らの背後に忍び寄る圧倒的な死の気配に気がつき、恐る恐る、ゆっくりとその首を後ろへと振り向いた。そして、自らの目と鼻の先で、巨大な鎌首をもたげて自分を見下ろしている大蛇の悍ましい頭部と正面から視線がぶつかった、まさにその刹那だった。白人の女は、悲鳴を上げることすら出来ず、ただ一瞬だけその美しい両目をご開帳(目を見開く)させ、伝統刀『ダ』を地面へとあっけなく手放すと、今度こそ完全に腰を抜かし、泥塗れの草むらのうえへと糸の切れた人形のようにそのまま崩れ落ち、本物の気絶へと陥って動かなくなった。

だが、物語の理屈は、ここからさらに加速することになった。

私のすぐ横から、風を切るような鋭い影が飛び出した。ディアだった。彼女は、失神して動かなくなった女の手元から、地面に転がったあの鋭利な伝統刀『ダ』を一瞬にしてひったくると、驚くべき器用さと力強い手つきで、鎌首をもたげていた大蛇の首を、一撃のもとに鮮やかに撥ね絶ってみせたのだ。

巨大な蛇の胴体が泥の上にのたうち回り、やがて静かになる。返り血のニオイが漂う凄惨な空間のなかで、ディアは刀を握ったまま私を振り返ると、満面の笑みを浮かべて嬉しそうに言い放った。

「……今夜のディナー(晩ご飯)ね」

私は、その彼女のあまりにも逞しく、恐るべき野生の生命力を前にして、あのアヒルの肉をおかわりしたときの勢いなど完全に吹き飛び、ただただ激しく尻込みをするしかなかった。しかし、感傷に浸る時間はなかった。ディアは私に向かって、この気絶した白人女性を担いで寺院へ運ぶよう手際よく顎で指示(ジェスチャー)を出した。私はやけくそになり、泥塗れの草むらに再び倒れたターバンの女を、ビルマの布を汗で濡らしながら、肩に背負い込んだ。

私が女を背負って、由緒ある寺院を目指して密林を歩き出すと、ディアは私の背後から、手際よくクロスボウと伝統刀『ダ』を両手にしっかりと抱えてついてきた。敵の武器を一つ残らず回収し、自らの防衛の盾とするその抜け目のない手順を見つめながら、私は頭から滝のような汗を流しつつ、心の中で「……武士の情けか」と、彼女のどこか生真面目で、かつ慈悲深い手際に深く感心せずにはいられなかった。

私たちは、お線香の静かな香りが棚引く本堂の奥の寝台へ、その身体を静かに横たえた。衣服を改めた私が見守るなか、ディアは手際よく、女の頭部に厳重に巻かれていたあの泥塗れのターバンを静かに解いていった。長い布がするすると解け落ちた、まさにその瞬間だった。私とディアの二人は、目の前に現れたそのあまりの光景に、完全に言葉を失ってその場に絶句した。

ターバンの下から溢れ出るようにして寝台のうえに広がったのは、夜の帳(とばり)のように艶やかに輝く、肩まである長い黒髪だった。煤と泥に汚れてはいるが、その高貴な顔立ちは、まぎれもなく異国の白人女性のものだった。

「彼女は何者だ? 英国の軍人か?」

私はその眠り続ける黒髪の女の顔を見つめながら、自らの生真面目な正義感が、牟田口中将や木村大将の狂気をも超える、さらに巨大な世界の陰謀の渦(うず)へと巻き込まれていくのを感じ、深く、深く悩み込んでいた。

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