第四章:『密林の聖域、あるいは慈悲の限界』
ビルマタバコの苦い一服を終えた私は、未だに消えぬ紫煙の向こうに、あのウジの湧く白骨街道の地獄を見つめ続けていた。
助けられない無数の戦友たちの顔が脳裏をよぎり、私の横顔が深い悲しみに沈んでいたのだろう。寝台の傍らにいたディアは、私のその異変に気づき、心配そうな黒い瞳で私の顔をそっと覗き込んできた。
私は、衣服を改めたばかりのビルマの布の袖を汗で濡らしながら、彼女に向き合った。そして、かつて学校で覚えたカタコトの言葉と、不器用な身振り(ジェスチャー)を総動員して、私の内に渦巻く悲壮な葛藤を、少しずつ彼女に伝えようと試みた。
「……外に。私の、仲間が、たくさん倒れている。……飢えと、病で、みんな苦しんでいるんだ」
私は密林の奥を指差し、次に食べる真似をしてから、苦しむように胸を押さえてみせた。
言葉の壁は厚かったが、私の必死の目つきと手つきから、彼女は私が「外に取り残してきた戦友たち」のことを想って苦しんでいるのだという事実を、おぼろげながらに感じ取ったようだった。
しかし、私の言葉を聞いたディアの顔に、明らかな困惑の色が広がっていくのを私は見逃さなかった。
それは、隠しきれない現実の拒絶だった。
(……そうだ。彼女が困惑するのも、至極真っ当な理屈だ……)
私の正確な頭脳が、冷徹な事実を弾き出す。
この戦時下の過酷な物資不足のなかにあって、由緒ある寺院とはいえ、行き倒れの日本軍兵士である私「一人」を匿い、アヒルの肉や卵、そして真っ白な炊きたてのご飯を食べさせて養うだけでも、彼女や住職の父親にとっては、筆舌に尽くしがたいほどの凄まじい負担であるはずなのだ。
それなのに、もし私が正義感に駆られて「他の戦友たちも救ってくれ」などと無茶を迫れば、この静かなお線香の香る聖域そのものが、物資の枯渇によって内側から完全に崩壊(共倒れ)してしまう。全員を救うことなど、逆立ちしても不可能なのだ。
私はディアの困惑した黒い瞳を見つめ返し、自らの生真面目すぎる提案が彼女を追い詰めてしまったことに激しい悔恨を覚えながら、焦りと羞恥の熱い汗を全身から噴き出させ、ただただ無言でうつむくことしか出来なかった。
ディアは、私の目を見つめながら、怒りと悲しみにその黒い瞳を激しく燃え上がらせた。そして、日本軍の兵隊たちが現地のビルマの若者たちを、力ずくで激しく虐めているかのような、悍ましい身振り(ジェスチャー)を何度も繰り返してみせたのだ。
私は、手元に残されたビルマタバコの煙を燻らせながら、その不穏な告発に強く怪訝を抱いた。
「……どういうことだ。日本軍の部隊は、とっくに白骨街道の彼方へ敗走していったはず。それなのに、なぜこの寺院のすぐ近くの山奥で、現地の若者を使役しているというのだ」
組織の命令系統が完全に麻痺したビルマの地で、未だに誰かが裏で動いている。
私は、流動食で少しずつ健康を取り戻した足に力を込め、今は武器を持たぬ我が身を引き締めると、案内してくれるディアの小さな背中を伴って、静まり返った密林の奥へと少しずつ、足音を殺して歩みを進めていった。
密林の木々をかき分け、巨大なシダの葉の影から、ひっそりと前方の開けた斜面を覗き込んだ、まさに次の瞬間だった。
私は、胸の奥から湧き上がる凄まじい戦慄を、どうしても隠しきることが出来なかった。
眼下に広がっていたのは、緑のなかに隠された、猫の額ほどの狭い、しかし奇妙な植物が一面に植えられた隠し畑だった。そこでは、ディアの言った通り、衣服の擦れる音を響かせながら、何人ものビルマの若者たちが泥にまみれて強制労働をさせられていた。そして、その若者たちの頭上から、我が物顔で大声を張り上げて容赦なく怒鳴り散らしている一人の男がいた。
その男の腕には、あの白地に赤く書かれた、日本軍の『憲兵』の腕章がぎらぎらと鈍い光を放っていたのだ。
憲兵が何故、こんな山奥の畑にいる。
驚愕する私の視線は、その憲兵のすぐ隣で、ご満悦な様子でタバコを吹かしている残りの二人の男たちへと移り、私の正確な頭脳は完全に凍りついた。
一人は、真夏の酷暑の密林には到底不釣り合いな、糊の効いた三揃いの背広をビシッと着こなし、頭にソフト帽を深々と被った、謎の東洋人の男。
そして、その隣で下劣な笑みを浮かべてタバコを燻らせている軍服の男は――あの日にディアを取り囲み、水牛を奪って彼女の尊厳を蹂躙しようとした、我が部隊のあの悪辣な古参の上等兵その人だったのだ!
憲兵、謎の背広の東洋人、そして敗残の古参上等兵。
男三人は、奴隷のように働く若者たちを見下ろしながら、この世の富を独占したかのような醜悪な笑みを浮かべ、美味そうにタバコの煙をくゆらせていた。
ガタガタと、激しい怒りと恐怖の混ざり合った高鳴りが止まらない。私の額や頬からは、うだるような密林の熱気と激しい動揺のせいで、新たな冷たい汗が滝のようにとめどなく溢れ出て、新しいビルマの衣服をじっとりと濡らしていった。
私は、隣で恐怖に黒い瞳を震わせているディアをそっと振り返ると、声を極限まで潜め、奥歯を噛み締めながら彼女に低く言い放った。
「……ディア、あれはただの畑ではない。――あそこに植えられているのは、すべて『ケシ(芥子)』だ。あいつらは、ここで禁断の魔薬を密造しているんだ」
ケシ畑(アヘン密造)を見てしまった私の衝撃。
お線香の香る静かな寺院のすぐ裏手で動き出していた、帝国軍人の仮面を被った獣たちの、底の知れない巨大な犯罪。一介の真面目な高橋兵長と、すべてを奪われかけたビルマの少女の、本当の生存と正義を賭けた、密林の知能戦の火蓋が、いま最悪の形で切って落とされた。




