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第七章:『大空の機影、あるいは遠き内地の土』

それからの日々、由緒ある仏教寺院での私の暮らしは、驚くほど静かな、しかし確かな生活の規律(手順)に満たされていた。私は毎朝、まだ朝靄(あさもや)が立ち込めるうだるような密林の空気のなか、寝台から起き上がると、寺院で飼われている家畜の世話や、猫の額ほどの狭い畑を耕す仕事に汗を流した。あるいは、素焼きの大きな土甕(みずがめ)を満たすため、近くの井戸から冷たい真水を何度も、何度も汲(く)み上げて運ぶのも、私の毎日の重要な仕事(日課)の一つだった。

当初は言葉の通じないことに激しく悩むこともあったが、お線香の香る静寂のなかで日々を重ねるにつれ、私たちは少しずつ、互いの言葉を通わせていった。私たちの共通語は、かつて学校の机の上で必死に覚えた、あの『英語』だった。敵国の兵長であった私と、両親を殺された英国人のキャロラインが、このビルマの寺院で住職の男性やディアに命を救われ、居候(お世話)になっているのだから、それは至極当然の理屈(考え方)だった。何より、私は入営前に関東地方で泥にまみれていた米農家の男だ。銃を握るよりも、土を愛し、家畜の息遣いを感じるこの不器用な仕事の方が、心の一番底から好きだったのだ。

私が土を耕し、汗を流して水を運んでいる間、キャロラインは手際よく、私たちのために衣服の洗濯や、アヒルの肉やニワトリを捌(さば)いた温かい料理を作ってくれた。

衣服を改めた(変装した)私と、長い黒髪をなびかせる彼女。そこには、かつての戦場の硝煙の恨みなど存在しなかった。しかし、私たちの頭脳は、あの密林の奥に潜む不気味な影を、一時として忘れたわけではなかった。

――ただ、裏山の隠しケシ畑には、あの木魚の偽装で切り抜けたあの日以来、私たちは一度も近づいてはいなかった。アヘンを密造してご満悦になっている日本軍の憲兵一等兵や古参上等兵、そして謎の背広の東洋人。あいつらの底知れない巨大な悪行(犯罪)に、これ以上巻き込まれるのはもう御免だった。ただ静かに生き残り、最愛の者が待つ場所へ生還することだけが、私の最大の防衛法規(目的)だったのだ。

だが、私たちが奇跡のような平穏のなかにあっても、世界の終わりを告げる不条理な現実は、日々その足音を大きくしていった。

近頃、うだるような酷暑のビルマの空を見上げるたびに、私の黒い瞳に嫌でも目につくのは、圧倒的な物量で大空を縦横無尽に飛び交う、英国軍の最新鋭戦闘機や巨大な輸送機たちの不気味な爆音だった。それに対して、わが麗しき『友軍機(日本軍の飛行機)』の姿など、もう何日、何ヶ月もの間、全く、一機たりとも見ることなど出来なかった。制空権は完全に敵の手中にあり、帝国陸軍の破滅は、もはや誰の目にも明らかな歴史の必然(当たり前)だった。

(……早く、内地(日本)に帰りたい。親父の待つ、あの関東の米の田んぼへ帰りたい……)

私は、汗でぐっしょりと濡れたビルマの布の袖で額を拭いながら、飛び去っていく英国機の白い飛行機雲をじっと見つめ、心の中で何度も、何度もその本音を反芻(はんすう)していた。それは、大日本帝国の軍籍にある兵長としては、逆立ちしても口にしてはならない、絶対に他の日本兵には言えない『本物の本音』だった。しかし、国への忠誠や軍隊の理屈など、白骨街道のウジの湧く死体の山のなかに、私はとうの昔にすべて捨て去ってきたのだ。ただ生きて、内地の土を踏みたいという生真面目な農家の願いだけが、世界の崩壊が迫る密林のなかで、私の孤独な魂の最後の盾(防壁)として、静かに燃え続けていた。

私は手にした桶を落としそうになるのを解き、近くの大きなガジュマルの木の影へと手際よく身を隠した。

藪(やぶ)を突き破って寺院の境内の敷地内へと我が物顔で足を踏み入れてきたのは、あの裏山の隠しケシ畑で禁断の魔薬を密造していた、帝国軍人の仮面を被った最悪の悪党たちだった。腕にぎらついた腕章を巻いた憲兵一等兵。手にした三八式歩兵銃を無骨に肩にかけ、下劣な笑みを浮かべて地面に唾を吐き捨てる古参の上等兵。そして、うだるような酷暑のなかで不気味に糊の効いた三揃いの背広をビシッと着こなし、ソフト帽を深々と被った、あの謎の東洋人のブローカー。

「おい、本当にこの寺の坊主どもが、あのクロスボウの行き倒れを匿(かくま)っているんだろうな」

背広の東洋人が、ソフト帽の庇(ひさし)を指先で直しながら、冷酷な客観的な聲音(こえ)で憲兵に問いかけた。

「間違いない。あの時、現地の坊主がそこの草むらで南無阿弥陀仏と読経をしていた手順が、どうにも生真面目すぎて腑に落ちん。あいつらがケシの密造ルートに気づいて英国の密偵と結託しているなら、この寺ごと一分(いちぶ)の慈悲もなく叩き潰す必要がある」

憲兵一等兵が、腰の十四年式拳銃のホルスターに手をかけながら、ぎらついた狂犬のような目で本堂の扉を睨みつけた。お線香の香る本堂のなかから静かに出てきたのは、橙(だいだい)色の法衣を纏(まと)った、ディアの父親である住職の男性だった。住職は、銃を構えた我が国の兵隊たちの前に毅然(きぜん)として立ちはだかり、彼らの身勝手な悪行を記述するように、現地の言葉で厳かに詰問を始めたのだ。

「――うるさい、現地の坊主が知った風な口を利くな! 隠れていないで、あの草むらにいた若い坊主をここへ出せ!」

憲兵一等兵は怒鳴り散らし、腰から引き抜いた黒光りする十四年式拳銃の冷たい銃口を、容赦なく住職の男性の眉間へと突きつけた。万事休すか。

ヒュッ!! という、密林の強烈な湿気を切り裂く鋭い風切り音が響いた。本堂の物陰に衣服を改め(変装し)て潜んでいた英国人女性キャロラインが、かつて回収していたあの重厚なビルマ民族のクロスボウの引き金を、寸分の躊躇(ちゅうちょ)もなく引き絞ったのだ。放たれた鋭利な弓矢は、至近距離から、正確無比に憲兵一等兵の頭部を深々と撃ち抜いた。

「――が、ふ……」

憲兵一等兵は短い絶叫すら上げられず、十四年式拳銃を手放して、その場に崩れ落ちるようにして即死した。

「何っ⁉ ――このアマ、よくもやりやがったな!」

相棒の即死を目の当たりにした古参の上等兵が、ぎらついた狂犬のような形相で叫び、手にした三八式歩兵銃の銃口をキャロラインへと突きつけ、その薄い唇を歪めて引き金を弾こうとした。

「――やめろ、引き金を引くな!!」

私はガジュマルの木の影から飛び出し、お腹の底から烈しい怒号を張り上げて突進した。私の姿を捉えた古参の上等兵は、その醜悪な顔を一瞬にして驚愕(きょうがく)に染め、次に下劣な嘲笑(あざけり)へと反転させた。

「……へぼ兵長、貴様、白骨街道でウジの餌にならずに生きてやがったのか! 敵の密偵の女と結託して国を裏切るとは、万死に値するぞ! 貴様ら全員、生きて帰れると思うなよ!」

古参兵が銃口を私へと向け直した、まさにその直後だった。

私の後ろから、風を切るような鋭い影が再び飛び出した。ディアだった。彼女は両手にしっかりと抱えていたあの鋭利な伝統刀『ダ』を大きく振りかざすると、かつて巨大な大蛇の首を刎ね絶ったあの凄まじき野生の力の手順で、古参の上等兵の右腕に向けて、容赦なく一刀を振り下ろしたのだ。

ザシュッ!! という、肉の裂ける悍(おぞ)ましい衝撃音が響き渡る。

「ぎゃあああああああッ!!」

古参の上等兵は悲鳴を上げて悶絶(もんぜつ)し、ディアによって完全に切り落とされた自らの右腕と、三八式歩兵銃を泥塗れの地面へと無様に叩き落とした。

私はその隙を見逃さず、地面に転がった重厚な三八式歩兵銃を一瞬にして奪い取ると、銃床(じゅうしょう)を自らの汗ばんだ肩に固く押し当て、照準を敵の胸元へと完全にロックした。一介の真面目な兵長としての正義感と、ディアとキャロラインを守り抜くための、これが本当の最後の引き金だった。

バァン!! と、密林の酷暑を切り裂いて、強烈な銃声が轟(とどろ)いた。弾丸は古参上等兵の胸を正確に射貫き、奴は泥塗れの地面へと引っくり返り、二度と動かなくなった。

憲兵と古参兵、二人の悪党のあっけない破滅。その凄まじい戦闘の手順を目の当たりにし、腰を抜かしかけていた麻の三揃いのスーツを着た謎の東洋人ブローカーは、頭のソフト帽を振り落とすほどの勢いで、慌てて密林の奥へと脱兎のごとく逃げ去っていった。

「……一郎、追わないの?」

キャロラインがブラウンの瞳を揺らして尋ねたが、私は銃口を下げ、静かに首を振った。

「いい。あいつはただの商人のパーツ(ロボット)だ。武器を持たぬ者を後ろから撃つのは、本官の規律に反する。……それよりも、やるべきことがある」

私は三八式歩兵銃を肩に担ぎ直すと、ディアとキャロラインの二人を伴って、裏山の隠しケシ畑へと足早に向かった。そこでは、使役(強制労働)させられていた何十人ものビルマ人の若者たちが、銃声を耳にしてガタガタと震えていた。私は彼らの前に立つと、拙い英語とジェスチャーを総動員して、彼らに向かって力強く告げたのだ。

「――もう安心だ。悪党たちはすべて排除した。君たちは、自由だ! 今すぐ自分の家(家族の元)へ帰りなさい!」

私のその生真面目な言葉の理屈が彼らに伝わった、まさにその瞬間だった。若者たちは一瞬だけ顔を『ポカン』とさせたものの、次の瞬間、地鳴りのような歓喜の叫び声を上げ、互いに抱き合って涙を流しながら、密林の家へと向けて一斉に走り去っていった。彼らを見送るディアの黒い瞳にも、キャロラインの美しい顔にも、心からの温かい笑顔が溢れていた。私もまた、胸の奥の重苦しい防壁が綺麗にすすがれていくのを感じ、心の一番底から、深くホッとしたのだった。

すべては終わったのだ。私は、衣服を改めたばかりのビルマの衣服のなかで、手元に残されていたあの独特な香りを放つビルマタバコを取り出し、静かに火を付けた。細い紫煙が、うだるような酷暑の密林を赤黒く染め上げる壮大な夕闇のなかへと、ゆったりと立ち上っていく。お線香の香る由緒ある寺院の境内で、私はキャロラインの白く細い手をそっと握り締め、ようやく訪れた二人の平穏を噛み締めようとしていた。

――まさに、その時だった。

ババババババババババ……!! という、耳をつんざくような巨大な複数の金属音が、大空の彼方から響き渡った。私とキャロライン、放置されていたディアの三人がハッと驚いて頭上を見上げた瞬間、夕焼け空を完全に覆い尽くすかのようにして、英国軍の巨大な爆撃機の編隊が、悠然(ゆうぜん)と姿を現したのだ。

しかし、奴らは爆弾を落としには来なかった。爆撃機の腹から、まるで白い雪の結晶のように、ぎらぎらとした日の光を浴びてきらきらと輝く、大量の『紙切れ(ビラ)』が、密林のなかへと一斉に、文字通り豪雨のように降ってきたのだ。

ひらひらと舞い落ちてきた一枚の紙切れを、私は生真面目な手つきでそっと受け止め、その黒い瞳で内容を検閲(確認)した。そこには、英語と、そして不器用な我が国の文字で、決定的な歴史の事実が刻まれていた。

『――昭和二十年八月十五日。大日本帝国陸軍および海軍は、連合国に対して無条件降伏を受諾した。戦争は、完全に終結した』

「……あ、あ……」

私の口から、かすれた声が漏れた。戦争が終わった。大日本帝国という巨大な狂気の組織も、上層部たちの撒き散らした不条理な戦火も、すべてが名実ともに崩壊し、終わりを迎えたのだ。

もう、誰の目を気にして隠密(カモフラージュ)を続ける必要もない。もう、銃を握って誰かを傷つける手順を踏む必要もないのだ。私は、あの関東地方の田舎で、親父と共に泥にまみれて真っ白な米を作る、ただの農家の青年へと、本当の意味で復員(生還)できたのだという圧倒的な現実が脳髄に満ち満ちた。

気がつけば、私の閉じた目蓋の端から、大粒の熱い涙が、あふれる汗と混ざり合いながら静かに頬を伝い、とめどなく流れ落ちていた。私は声を上げて泣きながら、ただひたすらに、大空から雪のように降り注ぐ降伏のビラを見つめ続けていた。

隣では、キャロラインがその長い黒髪をビルマの夕風になびかせながら、私の手を強く、温かく握り締め、美しいブラウンの瞳に涙を湛(たた)えて優しく微笑んでいた。ディアの念仏のような優しいハミングが、静まり返った寺院のなかに、どこまでも穏やかに響き渡っている。

世界の終わりを迎えたビルマの密林の向こうから、私たちの新しい未来の始まり(復員)を祝福するかのように、静かで、穏やかな遠き内地の土の匂いが、夜の帳の向こうからどこまでも優しく、どこまでも暖かく、私を包み込んでいくのだった。

(ビルマ編・完)

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