第一章:『白骨街道の天使』
一九四五年。牟田口廉也中将(第十五軍司令官)による無謀極まるインパール作戦の失敗ののち、ビルマの戦線は名実ともに崩壊していた。さらに、ビルマ方面軍司令官である木村兵太郎大将をはじめとする軍の上層部は、前線の兵士たちを見捨てて、とっくに首都ラングーンから逃亡を企てており、組織の命令系統は完全に破滅していた。あとに残されたのは、退却する兵士たちの死体が文字通り延々と連なる、世にもおぞましい『白骨街道』の地獄絵図だけだった。うだるような強烈な酷暑と湿気が泥を焼き、いたる所に転がる日本軍兵士の死体の山からは、無数のウジが湧き、不気味な羽音を立てていた。
陸軍の重厚な九二式重機関銃の部隊に所属していた高橋兵長は、そのウジの湧く死体の山の片隅で、泥にまみれて横たわっていた。
「……う、あ……」
喉から乾いた息が漏れる。高橋は、限界を超える飢えと、脳を直接焼くような猛烈なマラリアの高熱によって、意識が完全に朦朧としていた。病の熱と真夏の密林の熱気によって、彼の体からは滝のような汗がとめどなく溢れ出ている。軍服のシャツはぐっしょりと濡れそべり、泥を吸って皮膚にじっとりと張り付いていた。目の前が真っ白になり、ウジの羽音すら遠のいていく。自分もこのまま、木村大将に見捨てられた死体の山の一部になるのだと、彼は薄れゆく意識のなかで自らの過酷な運命を呪っていた。
その時だった。うだるような熱気の向こうから、一人の人影が近づいてきた。高橋の濁った瞳に映り込んだのは、この世のものとは思えないほどに純実な、一人の現地ビルマ人の少女の姿だった。少女は、ウジの湧く凄まじき死体の山を恐れる風でもなく、虫の息だった高橋の元へ歩み寄ると、その小さな白い手で彼の汗まみれの額にそっと触れた。彼女の名前は、ディア。
牟田口中将や木村大将といった最高指揮官たちの冷酷な考え方によって泥沼に捨て去られた一介の日本軍兵長。その命の灯火が完全に消えかける地獄の底で、高橋は一人のビルマ人の少女によって、文字通り奇跡的に命を救われたのだ。うだるような密林の静寂のなかで、生真面目な一人の兵長と、異国の少女の、過酷な戦火を生き抜くための本当の生存の戦いが、いま静かに幕を開けた。
「マスター、マスター……」
うだるような熱気のなか、横たわる私の耳元で、少女は熱心にそう問いかけ続けていた。激しいマラリアの熱のせいで、私の頭脳は完全に麻痺しており、声を発することすら出来なかった。私はただ、かすむ視界のなかで、彼女の現地の深い闇を宿した黒い瞳を見つめ、微かに無言で頷くことしか出来なかった。
私の生存を確かめた少女は、一度その場を引き返していった。やはり見捨てられるのか、という絶望がよぎったのも束の間、彼女はすぐに現地の男と二人で、竹で組んだ即席の担架を抱えて戻ってきた。私は泥まみれの身体を担架へと乗せられ、ウジの湧く死体の山から、静かに救い出されたのだ。
揺られるうちに辿り着いた彼女の家は、密林の奥にひっそりと佇む、由緒ある厳かな仏教寺院だった。彼女もまた、この地に深く根を下ろした熱心な仏教徒だったのだ。狂気と殺戮が支配する戦場から隔絶されたその聖域は、お線香の静かな香りに満ちていた。
少女――ディアは、私の身体を寝台に横たえると、すぐに温かい湯水を用意した。そして、激しい戦火のなかでこびりついた私の大量の汗、硝煙の煤、と白骨街道の泥にまみれた身体を、手拭いで一枚ずつ、本当に丁寧に、優しく拭い去ってくれたのだ。
やがて、彼女の手は私の泥塗れの軍服を脱がせ、最後の褌にまで伸びた。その褌が外され、無防備な裸体を温かい湯水で拭われていく瞬間。かつての戦場の野蛮な現実のなかで生きてきた私にとって、そこには無様な羞恥心を覚えるだけの気力すら一分たりとも残されてはいなかった。ただ、彼女の手の温もりと、仏の前での無償の慈悲の深さに、自らの心身を完全に委ねるしかなかった。
ディアは衣服をすべて改めると、私にビルマの清涼な新しい衣服を着せてくれた。そして、私の乾ききった頭部を優しく抱き起こし、手際よく土瓶からブリキの器へと冷たい真水を注いで、その薄い唇へと運んでくれたのだ。
ゴクゴク、ゴクゴク……。
冷たい真水が、熱で干からびていた私の喉を鳴らして、身体の芯へと染み渡っていく。
生きている。私は、まだ生きている。
牟田口廉也中将や木村兵太郎大将といった冷酷な司令官たちに戦線ごと見捨てられ、ただの捨て石としてウジに喰われるはずだったこの我が命が、今、ここに救われたのだ。その圧倒的な現実が脳髄に満ちた瞬間、私の閉じた目蓋の端から、熱い一筋の涙が、あふれる汗と混ざり合いながら静かに頬を伝い落ちていった。




