第二章:『祈りの灯火、酷暑の迷宮』
冷たい真水で一度は繋ぎ止めた我が命だったが、マラリアという病魔の爪は、そう容易く私を解放してはくれなかった。
私は再び、脳髄を直接炙られるような凄まじい高熱に襲され、意識が深い闇のなかへと朦朧と沈んでいった。うだるようなビルマのじっとりとした不気味な熱気が、私の衰弱しきった皮膚を包み込んで離さない。身体からは、病の発汗による滝のような汗が再びとめどなく溢れ出ていた。
だが、その死の淵を彷徨う私の傍らから、ディアは片時も離れようとはしなかった。
彼女は、私が熱にうなされて身をよじるたびに、寺院の片隅に置かれた素焼きの大きな土甕から、驚くほどひんやりと冷えた水を真鍮の器へと汲み出した。そして、真っ白な布を浸して丁寧に絞り、私の焼けるように熱い額の上へと、その冷たい布をそっと置き直してくれるのだ。
そのひんやりとした刺激が、混濁していく私の意識を、操作するように辛うじてこの世へと繋ぎ止めていた。
お線香の煙が静かに棚引く由緒ある寺院の暗がりのなか、私の耳の奥には、彼女の小さな、客観的な呟きのような声が絶え間なく響いていた。
それは、熱心な仏教徒である彼女が、異国の行き倒れの兵士のために、ただひたすらに仏へと捧げている、小さく、優しい念仏の響きだった。
(……何故だ。何故、この子は俺を助けてくれたんだ……)
私は、薄らぐ意識のなかで、その答えのない問いを何度も、何度も反芻し続けていた。
我が国の大日本帝国陸軍という組織は、戦況が行き詰まれば一介の兵長などただの捨て石として白骨街道へ置き去りにし、ウジの餌にすることを選んだ。牟田口中将も、木村大将も、私たちの命など爪の先ほども顧みなかった。
それなのに、言葉も通じない、国籍も違うこのビルマ人の少女は、何故我が身の危険も顧みず、硝煙と泥にまみれた私の身体を拭い、褌を外してまで、こうして片時も離れずに命を救おうとしてくれるのか。
彼女の黒い瞳のなかに宿る無償の慈悲の考え方が、私にはまだ分からなかった。ただ、額に置かれた冷たい布の感触と、耳元で繰り返される静かな念仏の音だけが、世界の終わりを迎えたビルマの密林のなかで、私の孤独な魂をどこまでも優しく温め続けていた。
それから数日後。ディアの献身的な看病と、仏への祈りが通じたのか、私の脳を焼いていたマラリアの猛烈な高熱は奇跡的に引き、私はようやく寝台の上に起き上がって、自らの手で食事を取れるまでに回復した。
素焼きの土甕から汲まれた冷たい水と、ディアが私の衰弱した身体を労って作ってくれた、温かく味の優しい流動食。それを一口ずつゆっくりと喉へ流し込むたびに、乾ききっていた私の肉体に、確かな健康の灯火が少しずつ取り戻されていくのが分かった。
ある朝、私は部屋の奥にお線香を上げにやってきた、ディアの父親と思われる壮年の男性と対峙した。橙色の法衣を纏った、この由緒ある寺院の住職と思しきその男性に対し、私は寝台から這い出ると、一介の日本軍兵士としての生真面目さを総動員し、規律正しく深々と頭を下げて感謝の意を示した。住職の男性は、静かに私を見つめ、ただ一度だけ深く頷いて去っていった。
命は救われた。身体も動くようになった。
しかし、私の頭脳のなかでは、あの白骨街道の泥の中で薄れゆく意識のなかにあった時からずっと、一つの大きな疑問が消えずに残り、何度も反芻され続けていた。
(……しかし、何故彼女は、俺を救ってくれたのだろうか)
牟田口中将や木村大将といった冷酷な司令官たちに見捨てられ、ウジの湧く死体の山の一部になるはずだった敵国の兵士だ。我が身の危険を冒してまで、褌を外して身体を拭い、片時も離れずに看病してくれた理屈(考え方)が、どうしても分からなかった。
私は、お線香の煙が静かに棚引く部屋の中で、流動食の器を片付けてくれているディアに向き合った。そして、かつて学校の机の上で必死に覚えたカタコトの英語と、不器用な身振り(ジェスチャー)を交えながら、私の胸に手を当て、次に彼女の黒い瞳を見つめて、真っ直ぐに尋ねた。
「……何故、私を、助けたのか。何故、白骨街道から、私を連れてきたのか」
私の拙い問いかけが、言葉の壁を越えて彼女の耳へと届いた、まさにその瞬間だった。
ディアは持っていた器の手を僅かに止め、私の顔をじっと見つめると、現地のうだるような酷暑の熱を帯びたように、その白い頬を一瞬にして、林檎のようにぽっと赤らめたのだ。
「――ッ!?」
彼女の予想だにしない可憐な反応を前に、私は空いた口が塞がらなくなり、激しく狼狽した。
言葉の通じないビルマの寺院の静寂のなか、多汗症……いや、私の身体からは別の意味での冷や汗と、激しい高鳴りによる熱い汗が吹き出し、新しいビルマの衣服をじっとりと濡らし始めていた。彼女のその赤らめた顔の理屈を、私の石頭な頭脳はどうしても弾き出すことができず、ただただ、赤面する少女の前で完全に硬直するしかなかった。
ディアは、林檎のように頬を赤らめたまま、しかし今度は私の目を真っ直ぐに見つめて、何事かを必死に語りかけてきた。言葉の通じない彼女の身振り(ジェスチャー)は、激しい感情の昂ぶりを帯びて大きく揺れていた。
その彼女の必死の手つきを見つめているうちに、私の脳裏のなかで、ある日の凄惨な光景が、真夏の密林の幻影のように鮮烈に焼き付き、蘇ってきた。
それは、牟田口中将の無謀なインパール作戦が完全に瓦解し、我が部隊が白骨街道へと追い詰められる少し前のことだった。
退却に次ぐ退却のなか、極限の飢えと病に狂った日本軍の兵士たちは、生き延びるために現地のビルマ人の民家を次々と襲撃し、彼らの貴重な蓄えである食べ物や家畜を、力ずくで強奪していったのだ。時には拒む現地の人々を銃口で脅し、日本軍が日常の規律として好んだ、あの強烈な往復ビンタを容赦なく浴びせる。帝国の兵隊たちが撒き散らす野蛮な振る舞いによって、ビルマ人たちのなかに渦巻く激しい反日感情は、日に日に増すばかりだった。
そんなある日のことだ。私が所属していた九二式重機関銃の部隊の陣地近くで、私は耳を疑うような激しい怒号と、悲痛な悲鳴を聞いた。
駆けつけた私の目に飛び込んできたのは、我が部隊の悪辣な古参の上等兵二人が、一人の現地のビルマ人の少女を取り囲み、激しく怒鳴りつけている姿だった。少女は恐怖のあまり全身をガタガタと小刻みに震わせ、涙を流して悲鳴を上げている。
あろうことか、その古参兵たちは、少女の家の全財産とも言える大切な水牛を強引に奪い去り、そればかりか、抵抗する彼女を力ずくで組み伏せて強姦しようと、その汚れた手を伸ばしていたのだ。
規律を失い、獣へと成り下がった戦友たちの狂気。
しかし、私は一介の兵長でありながら、内に秘めた生真面目な正義感をどうしても抑え込むことが出来なかった。私は激しい怒りの汗を全身から噴き出させながら、手にした小銃の銃床を固く握り締め、自分より遥かに軍歴の長い、恐ろしい古参の上等兵二人の前に、行く手を阻むようにして真っ直ぐに詰め寄っていったのだ。
「――そこまでにしてください! われわれは大日本帝国の軍人だ、このような野蛮な行いは断じて許されない!」
お線香の香りが静かに棚引く由緒ある寺院の寝台のうえで、私はハッと我に返り、目の前のディアの黒い瞳を見つめ返した。
そうだ。あの時、泣き叫ぶ彼女の前に立ちはだかり、古参兵たちの暴力から命がけで彼女と水牛を守り抜いた男。それこそが、白骨街道の泥の中で死にかけていた、この私だったのだ。
彼女の頬を伝う赤らんだ血色と、その必死な手つきの理屈(理由)が、今、完全に私の頭脳の中で結実した。彼女は、自らのすべてを救ってくれた「恩人」の命を救うために、あのウジの湧く地獄の底へと、我が身の危険も顧みずに飛び込んできてくれたのだ。私は言葉の壁を越えた彼女の無償の恩返し(慈悲)の深さに、ただただ圧倒され、胸の奥が熱い衝撃で満たされていくのを感じていた。




