第5回 神聖な雰囲気、だそうです(前半)
詩音と組んでから、三週間が近づいていた。
紅葉は、ようやく「紙袋を持った詩音が廊下に立っている」パターンを学習していた。学習したからといって避けられるわけではないのだが、少なくとも「また来た」と即座に悟ることはできるようになった。自販機の前で立ち尽くす詩音、複合機の前で首を傾げる詩音、そして紙袋を持って廊下に立つ詩音。日常の脅威は、だいたいこの三つに集約されていた。
今朝も、給湯室で短いやり取りがあった。
『紅葉さん。このお茶、淹れる順番があるって本当ですか』
『……ティーバッグを入れて、お湯を注ぐだけです』
『順番、なんですね』
詩音は真剣な顔で頷き、普通にお茶を淹れた。紅葉はその横で、自分の分を黙って作る。もう驚かなくなっていた。驚くための気力を、別の場所に温存するようにしていた。
そして今日。
午前中、鷲尾から短い指示が来る。
「詩音、紅葉。午後、神社の件。客引きが参拝客に絡んでる。穏便に扱え」
資料を読むと、観光地の神社で、特定の人物が参拝客に過剰に近づいているらしい。危害を加えるわけではないが、写真を強要したり、妙な話を長くしたりして、迷惑がられている。神社側も表沙汰にしたくないので、目立つことなく追い払うよう依頼してきた案件だった。
紅葉は資料を閉じ、深呼吸をした。
今日こそは、先に動く。
詩音が紙袋を持って廊下に立つのを待たない。自分から先に現場へ向かえば、少なくとも「着替えさせられる」プロセスを短縮できるかもしれない。そう判断した紅葉は、いつもより早めに席を立ち、着替えたての普通のスーツのまま、裏口寄りのエレベーターホールへ向かった。
『見つからなければ、普通の服で行ける』
そう自分に言い聞かせながら、角を曲がる。
——そして、そこで詩音と正面からぶつかった。
詩音は紙袋ではなく、大きめの布袋を持っていた。廊下に立っていたわけではない。ちょうど別の通路から出てきたタイミングだった。紅葉の回避ルートを、まるで読んでいたかのように塞ぐ形になる。
『紅葉さん』
『……なんで、ここに』
『現場に向かう途中です。紅葉さんも、ですね』
詩音は布袋を少し持ち上げた。中から見えたのは、白と赤の生地だった。袖の形が、どう見ても普通のスーツではなかった。
『今日は、神聖な雰囲気が必要だと思いまして』
『……何を着せようとしてるんですか』
『巫女装束です。神社での任務なので』
紅葉は数秒間、完全に沈黙した。回避したつもりが、むしろ綺麗に捕捉されていた。詩音は真顔のまま、袋の中の白衣を整えている。
『普通の服でいいと思います。参拝客に紛れるなら、私服の方が……』
『神聖な場所ですので、こちらも格式を合わせた方がいいです』
『格式、ですか』
『ええ。雰囲気です』
紅葉は天井を仰いだ。三週間で学んだことの一つは、「雰囲気です」と言われた時点で、もう逃げ道がないということだった。
『……着ます。着ますから』
声に、すでに力がなかった。




