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第5回 神聖な雰囲気、だそうです(後半)


更衣室の空気は、いつもより少し重かった。

紅葉は白い上衣の紐を結びながら、鏡の中の自分を見ている。黒の袴は予想以上に生地が厚く、動くたびに裾が静かに揺れた。袖を通した瞬間から「コスプレ感」を覚悟していたが、着てみるとそうではなかった。縫製が丁寧で、生地の落ち方にも無理がない。安価な既製品には見えない。

『……これ、本物っぽいです』

『本物です。神社での任務ですので、正式なものを用意しました』

詩音はすでに着終えていた。白い上衣に赤い袴。長い紫の髪を、ざっくりとまとめて背中に流している。手を合わせるような仕草を、鏡の前で一度やってみた。真顔だった。

『正式なものが、経費で落ちると思ってるんですか』

『雰囲気には、投資が必要です』

紅葉は袴の裾を持ち上げ、自分の足を確認する。白足袋に草履。倉庫街のヒールよりはマシだが、それでも「仕事でこれを履いている」という事実が重い。詩音は布袋を畳みながら、紅葉の方を見た。

『神聖な場所ですので、心も整えていきましょう』

『心は、すでに割れています』

神社の境内は、午後の光で少し白く見えた。

参道を歩く人の流れは穏やかで、社務所の前には短い列ができている。空気自体は静かだった。だが、その静けさの中に、明らかに場違いな熱を持った男の声が混じっている。

客引きは、すぐにわかった。

五十代くらいの男性が、参拝を終えた女性客のそばに寄り、笑顔で何かを話し続けている。相手は明らかに困っているが、強く拒めずにいる。距離が近い。声のトーンが、丁寧なようで粘着質だった。

シオンは参道の端で立ち止まり、静かに手を合わせた。目を閉じ、短い黙祷のような時間を置く。ルージュはその横で、袖の中で拳を握る。

『……何をしてるんですか』

『心を整えています。神聖な場所ですので』

『整えるなら、あの人を先になんとかしてください』

シオンは目を開け、客引きの方を見た。サングラスのときのような鋭さではない。だが、状況を切り取る目だけは、確かに現場モードに入っていた。

『あの人は、金銭が目的ではない。ただ「自分の話を聞いてもらえる相手」を探している。拒まれると、余計に長引くタイプです』

『じゃあ、どうしますか』

『自然に、別の対象へ意識を移させる。こちらから構ってはいけません』

二人は役割を分担した。

シオンは参道をゆっくりと歩き、客引きの視界に入る位置で足を止める。手を合わせる仕草をもう一度見せる。ルージュはその外側を回り、困っている女性客が自然に離れられる隙間を作った。客引きがこちらに気づいた瞬間、シオンは穏やかな声で声をかけた。内容は普通の案内だった。社務所の場所を教えるような、短い言葉。

だがその間合いが、男のペースを崩した。

男は数秒間こちらを見ていたが、やがて話の続きを諦め、別の方向へ歩いていく。追いかけてはこなかった。女性客は小さく頭を下げ、足早に参道を戻っていった。

事が終わったあと、ルージュは袖の中で息を吐く。

『……なんとか、なりましたね』

『神聖な雰囲気が、功を奏しました』

『功を奏したのは、雰囲気じゃないと思います』

シオンは静かに手を合わせたまま、何も答えなかった。境内の風が、二人の袖を同じように揺らしていた。

翌朝。

紅葉が自席に着くと、七瀬がすでにそこにいた。手に持っているのは、いつものレシートの束ではなかった。一枚の請求書だった。紙の質が違う。数字の桁が、明らかに違った。

「紅葉さん」

『……はい』

七瀬の声が、今までで一番低かった。眼鏡の奥の目は、怒っているというより、何かが切れたあとの静けさを帯びている。

「巫女装束、二着。正絹。特注。足袋と草履付き」

『え……』

「合計、四十三万円です」

紅葉の思考が、一瞬止まった。七瀬は請求書を机に置き、指で数字を一度叩く。

「コスプレ衣装なら、まだ許せました。本物を経費で申請する人間が、どこにいるんですか」

『なんでわたしに……』

「詩音さんに言っても"意味"がないので。もう一度言います。詩音さんに言っても"意味"がないので」

紅葉は口を開きかけ、すぐに閉じた。説明できる言葉が、どこにもなかった。七瀬は深呼吸を一つすると、声のトーンをさらに落として言った。

「次に本物の神具を買ったら、私は経理を辞めます。いいですね」

それだけ言い残し、七瀬は去っていった。紅葉はその背中を見送ったまま、動けずにいる。隣の席では、詩音が朝のコーヒーを飲みながら、普通に資料を開いていた。

紅葉はゆっくりと机に突っ伏す。

『四十三万……。とほほ……』

声にならない声が、デスクの上に落ちた。

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