第6回 親しみやすさ、だそうです(前半)
四十三万円の請求書が経理を通過してから、三日が経っていた。
紅葉はその三日間、社内で七瀬の視線を感じるたびに背筋が強張るのを自覚していた。直接何か言われるわけではない。ただ、すれ違うときの沈黙が重い。詩音はいつものように朝のコーヒーを飲み、資料をまとめ、自販機の前で時々立ち止まっていた。本人に、反省の色は見えない。
『四十三万を、雰囲気で済ませる人の神経が知りたい』
紅葉は昼休み、その思いを抱えたまま社外に出た。社内にいると、請求書の数字がまだ目の裏に残っている気がした。駅の反対側に、小さな定食屋がある。入社してから一度も寄っていなかった店だ。暖簾が古く、のれんの文字も少しかすれている。
「五郎食堂」
看板の字を確認して、紅葉は暖簾をくぐった。
店内は狭く、カウンターが六席ほど。奥に小上がりが一つある。昼間だというのに客は少なく、カウンターの奥で白い前掛けをした男が、黙って出汁の匂いを立てていた。五十代くらいだろうか。顔に浅い皺があり、目尻が少し下がっている。
「いらっしゃい」
声は低かったが、不快ではなかった。紅葉は端の席に座り、定食のメニューを見る。焼魚定食を頼むと、男は短く頷いて厨房に戻った。
食事が運ばれてくるまでの間、紅葉はスマホをいじるでもなく、ただカウンターの木目を見ていた。詩音の顔が浮かぶ。巫女装束を着て、真顔で手を合わせていた姿。四十三万円。正絹。特注。
「……疲れてる顔だな」
突然声をかけられて、紅葉は顔を上げる。店主の男が、茶を置いていた。
『……はい。少し』
「新しく入った子か。蒼月の」
紅葉は少しだけ目を見開いた。男は肩をすくめる。
「顔でわかる。あそこ、最近も人がよく辞めるからな」
『辞める、んですか』
「まあ、色々あるだろ。詩音ちゃんのところに行ったんじゃないのか」
その呼び方に、紅葉は思わず箸を止めた。
『詩音ちゃん……?』
「ああ。小さい頃から知ってる。ここに時々、変な顔して来る子だ」
男——五郎は、湯気の立つ定食を紅葉の前に置いた。焼魚の皮が、少しだけ焦げている。
「文句があるなら聞く。ただし、詩音ちゃんの味方をするとは言っておく」
紅葉は箸を取り、魚を崩しながら、短く息を吐いた。誰かに話すつもりはなかった。だが、四十三万円という数字が、胸の奥でまだ消化しきれていなかった。
『巫女装束を、本物で買うんですよ。二人分。四十三万です』
五郎は目を細めた。怒ったようには見えなかった。むしろ、どこか懐かしいものを見るような目だった。
「……やつらしいな」
『らしい、ですか』
「小さい頃から、そういうとこあった。雰囲気とか、空気とか、理由にならない理由で動く子だった」
紅葉は魚を口に運びながら、静かに聞いた。五郎は紅葉の茶を少しだけ注ぎ足す。
「お前さんが止めても、たぶん止まらない。だから、無理に全部止めようとするな。自分が壊れない程度に付き合え」
『……優しいんですね。先輩に』
「優しいんじゃない。慣れてるだけだ」
五郎は短く笑い、厨房に戻っていった。紅葉は定食を食べ終えるまで、ほとんど何も言わなかった。ただ、四十三万円の重さが、少しだけ軽くなった気がした。
会社に戻ると、午後の指示がすでに出ていた。
「詩音、紅葉。明日、商業施設のイベント警備。子供向け。詳細は後で回せ」
紅葉は資料のタイトルを見て、微かな不安を覚えた。子供向け。イベント。詩音が「雰囲気」を言い出しそうな匂いが、すでにした。
案の定、夕方近くになって詩音が席に戻ってきたとき、彼女の手には大きな袋があった。紙袋ではない。ビニールの、内側が透けて見えるタイプだ。中に入っているものの形が、どう見ても普通の服ではなかった。大きな耳のようなシルエットが、袋の外からでもわかる。
『紅葉さん。明日の雰囲気です』
『……何ですか、それ』
『親しみやすさです。子供向けのイベントなので』
紅葉は袋の中を見て、静かに目を閉じた。白いうさぎと、黒と白のパンダ。着ぐるみだった。




