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第6回 親しみやすさ、だそうです(後半)

更衣室の蛍光灯が、今日は特に残酷に見えた。

紅葉は黒い着ぐるみの胴体部分を抱えながら、鏡の前に立っている。パンダの頭はまだ被っていない。ただでさえ視界が悪くなりそうな形を、斜めから睨んでいた。隣では詩音が、白いウサギの着ぐるみを静かに着ている。ファスナーを上げる音だけが、部屋の中に小さく響いた。

『これ、本当に着るんですか』

『着ます。子供向けのイベントですので、親しみやすさが必要です』

『親しみやすさの前に、視界と温度と尊厳があります』

『尊厳より、雰囲気です』

紅葉は天井を仰いだ。四十三万円の巫女装束を着た翌日に、着ぐるみを着せられるとは思っていなかった。詩音はウサギの頭を試しに被り、すぐに外す。中の匂いを、軽く確認していた。

『サイズは合っています。動きやすい方を選んでおきました』

『動きやすさの問題じゃないです』

結局、紅葉は着た。黒いパンダの着ぐるみは予想以上に厚く、腕を通しただけで体温が上がるのがわかった。頭を被ると、視界が極端に狭くなる。正面は見えるが、足元と横がほぼ死角だった。詩音は白いウサギの頭を被り、鏡の前で一度手を振ってみた。真顔だった。

『……笑ってください。せめて』

『笑わなくても、雰囲気は出ています』

商業施設のイベントスペースは、週末の午後ということもあり、子供と親で混雑していた。

ステージの上ではキャラクターが踊り、周囲には小さなゲームブースが並んでいる。黄色い風船と、甘いお菓子の匂い。紅葉はその中を、黒い着ぐるみのまま歩いていた。子供が寄ってくる。袖を引っ張られる。頭を叩かれる。毎回「中の人」として反応しなければならず、視界の悪い中でバランスを取るのが精一杯だった。

『ルージュ』

狭い視界の端で、白いウサギが近づいてくる。シオンの声は、頭の中で少し篭って聞こえた。

『あそこに、子供の親から距離を取ろうとしていない大人がいます』

『……どこです』

『ステージ左手の、柱の陰。写真を撮るふりをして、同じ子供の近くに何度も戻っています』

紅葉は頭の向きを変え、なんとかその方向を捉える。確かに、一人の男がいた。笑顔は作っているが、目が笑っていない。子供に直接触れはしない。だが、親の死角に入るタイミングを、明らかに測っていた。

『どうしますか』

『親しみやすい外見のまま、自然に間に入ります。排除するのではなく、居場所をなくす』

シオンの声に、迷いがなかった。着ぐるみの中でも、現場モードだけははっきりと切り替わっていた。紅葉は自分のパンダのを、視界の端で確認する。恥ずかしい。暑い。だが、指示の内容自体は理解できた。

二人は分かれて動いた。

シオンは子供たちに手を振りながら、ゆっくりと男の近くまで寄っていく。写真をねだる子供の列に、自然に混ざる形だ。ルージュはその外側を回り、男が再び子供に近づこうとしたタイミングで、大きなパンダの体を使って進路を塞いだ。ぶつからない。だが、進行方向を変えるには十分な大きさだった。

男が立ち止まった隙に、シオンが短い声をかける。内容はイベントの案内だった。次のステージの時間を教えるような、穏やかな声。着ぐるみの頭からでも、その間合いだけは正確に伝わった。

男は数秒間こちらを見ていたが、やがて写真を撮るふりをやめ、人混みの中へ戻っていった。追いかけてはこなかった。

事が終わったあと、ルージュはイベントスペースの端で、頭を外して息を吐いた。髪が額に張り付いている。シオンもウサギの頭を外し、少しだけ顔を出した。汗はかいていないように見えた。

『……なんとか、なりましたね』

『親しみやすさが、功を奏しました』

『功を奏したのは、着ぐるみの大きさだと思います』

シオンは首を傾げたまま、頭を再び抱え直した。子供が遠くから手を振っている。紅葉は強制的に手を振り返しながら、心の中で明日の筋肉痛を予約していた。

翌朝。

紅葉が自席に着くと、三奈がコーヒーを持って通りかかった。彼女は紅葉の顔を一瞥し、短く息を吐く。

「着ぐるみ、だったな」

『……噂が速いです』

「速いというより、写真が上がっていた。イベントの公式に、白うさぎとパンダが映っていたぞ」

紅葉は机に突っ伏した。三奈はそれ以上何も言わず、自分の席へ歩いていく。隣では詩音が、朝のコーヒーを飲みながら普通に資料を開いていた。着ぐるみの疲れは、彼女には見えない。

紅葉はデスクの上で、小さく呟いた。

『次は、人間の服がいいです……』

誰にも届かない声だった。

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