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第7回 必要な投資、だそうです(前半)

着ぐるみの翌日、社内の空気が明らかに変わっていた。

紅葉が朝、自席に着いた時点で、すでにその予兆はあった。七瀬が経理の席にいるのではなく、鷲尾のデスクの近くで書類を抱えて立っていたのだ。二人の間で、低い声のやり取りが続いている。詩音はいつも通りの時間に出社し、いつも通りの顔でコーヒーを買いに行っていた。自販機の前で一瞬立ち止まったが、今回は紅葉が説明する前に自分でボタンを押した。成長の兆し、と呼ぶにはあまりに小さい。

午前中の途中で、鷲尾に呼ばれた。

「詩音、紅葉。少し来い」

会議室ではなく、鷲尾のデスクの前だった。七瀬もそこにいる。手元には、ここ数回分の経費申請がまとめて置かれていた。ボディスーツ、サングラス付きスーツ、正絹の巫女装束、着ぐるみ。数字が並んでいる。七瀬の顔は、もう怒っているというより、諦めと怒りの境界で凍っているように見えた。

「説明してくれ」

鷲尾の声は、意外と穏やかだった。だが、目は笑っていない。

詩音は書類を一瞥し、真顔で答えた。

『必要な投資です。雰囲気を出すための』

七瀬の眉が、ぴくりと動いた。

「四十三万円の巫女装束が、投資ですか」

『はい。正式なものを用意しないと、神聖な雰囲気が出ません』

「着ぐるみが、投資ですか」

『親しみやすさです』

七瀬は深く息を吸った。吐き出すまでに、数秒かかっている。鷲尾が横から話を被せる。

「詩音。お前の現場の結果は認めている。だが、経費の使い方は認められない。紅葉、お前も止めてくれ」

紅葉は思わず身を硬くした。

『……私に言われても』

「お前が教育係だろう」

七瀬の声が、静かに重なる。

「詩音さんに言っても、この通りです。だから、あなたがなんとかしてください」

紅葉は口を開きかけ、何も言えずに閉じた。詩音は隣で、不思議そうな顔をしている。悪いことをしている認識が、本当にない。鷲尾は額を押さえ、短く言った。

「今回は私が頭を下げる。次はないと思え。特に、本物の神具と、着ぐるみの再購入は禁止だ」

詩音は素直に頷いた。

『わかりました。次は別の雰囲気で工夫します』

その一言で、七瀬の顔がさらに青くなった。紅葉は会議室でもないこの場所で、すでに心が折れていた。

午後、紅葉は席を外した。

社内にいると、請求書の数字と七瀬の顔が重なって見える。エレベーターに乗り、駅の反対側へ歩く。五郎食堂の暖簾は、前回と同じように古かった。

「いらっしゃい」

五郎は紅葉の顔を見て、すぐに茶を出した。注文を聞く前に、出汁の匂いがする定食の準備を始めている。

「また、詩音ちゃんか」

『……わかりますか』

「顔に出てる。特に、経費のあとだな」

紅葉はカウンターに座り、短く息を吐いた。四十三万円の話は、すでに一度している。だが、今日はそれだけでは済まなかった。教育係としての責任を、正式に突きつけられた形になっていた。

『止められないんです。止める気もない人なので』

五郎は魚を返しながら、背中越しに言った。

「止めようとするな、とは言ったな。だが、お前さんまで一緒に沈む必要はない」

『一緒に沈んでます。経費の矢面に立たされてます』

「詩音ちゃんは、昔からああだった。理由にならない理由で動いて、結果だけはなぜか残す。周りが疲れるタイプだ」

紅葉は茶を飲みながら、五郎の背中を見ていた。この人は詩音を擁護する。だが、紅葉の疲れを否定はしない。そのバランスが、今は救いだった。

定食が置かれる。紅葉は箸を取り、静かに食べ始めた。社内の空気を、少しだけ外に置いてこられた気がした。

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