第4回 地味な方がいい、だそうです(後半)
取引先のオフィスは、駅から少し歩いた場所にある中規模のビルだった。
エントランスは清潔で、受付の人の対応も丁寧だった。派手な装飾はなく、全体的に落ち着いた印象の空間だ。紅葉は自分の服を軽く確認しながら、詩音と並んで歩いた。淡いブルーのブラウスにダークグレーのスラックス。鏡で見たときは普通だった。今も普通のはずだった。
だが、受付を通るときに、相手の視線がわずかに止まった。
一瞬だけだった。すぐに普通の対応に戻る。だが、紅葉にはその「一瞬」がわかった。詩音の方を見た。詩音はいつも通り、穏やかな顔で社員証を提示している。袖口の小さなフリルが、蛍光灯の下でわずかに揺れていた。
『……目、止まってませんでした?』
エレベーターを待ちながら、紅葉は小さく聞く。
『気のせいだと思います』
『気のせいじゃない気がします』
詩音は首を傾げただけだった。紅葉は自分のブラウスの裾を、無意識に摘まんだ。生地の質が、社内で着ているものよりわずかに良すぎる。アイロンの効き方が、丁寧すぎる。普通のオフィスカジュアルのつもりが、どこか「きちんとしすぎている」方向に振れていた。
担当者との面談は、小会議室で行われた。
相手は四十代くらいの男性で、最初から少し警戒した目をしていた。契約の細部について、何度も同じ説明を求められたらしい。声のトーンは丁寧だが、どこか疲弊している。
シオンは相手の話を遮らず、最後まで聞いた。ルージュも隣でメモを取りながら、適宜頷く。普通の対応だった。派手な動きも、奇抜な発言もない。
だが、相手の視線は、会話の合間に何度かシオンの袖口や、ルージュのブラウスの襟元に落ちていた。
『……やはり、目が行ってませんか』
短い休憩のタイミングで、ルージュは小声で確認する。
『地味な中にも、最低限の雰囲気は出しています』
『その「最低限」が、普通の人の「上限」なんですよ』
シオンは特に答えない。代わりに、再開後の会話で相手の不満の核を短く突いた。契約書の条文そのものではなく、「説明を繰り返させられていることへの苛立ち」が本質だと見抜いたのだ。相手は最初こそ反論したが、すぐに言葉を失い、やがて小さく息を吐いた。
「……そう言われると、確かに」
温度が、少しだけ下がる。シオンはそれ以上深く踏み込まず、ルージュが用意していた代替案を静かに提示した。相手は資料を見つめたまま、しばらく黙っていたが、最終的には「一度持ち帰る」とだけ言って席を立った。
決して悪い結果ではなかった。だが、紅葉の中の安堵は、すでに崩れていた。
会社に戻る電車の中で、紅葉は窓の外を見ながら小さく呟く。
『普通の服だったはずなのに』
『普通ですよ』
『普通の服で、普通に目立ってました』
詩音は首を傾げたまま、吊革を握っている。車内の蛍光灯が、彼女のブラウスの袖口を淡く照らしていた。紅葉はもう何も言わず、座席に深く沈み込んだ。
翌朝。
紅葉が自席に着くと、六花が書類を持って近づいてきた。受付の彼女は、紅葉の顔を見て少しだけ目を細める。
「昨日の服、きれいでしたね」
『……きれいで、困ってるんです』
「あ、やっぱり。なんか、浮いてる感じがしました」
六花は苦笑しながら書類を置いていく。紅葉はその言葉を受け取り、静かに机に突っ伏した。隣では詩音が、朝のコーヒーを飲みながら普通に資料を開いている。
『地味な方がいい、って言ったの誰ですか』
小さな声は、誰にも届かなかった。




