第4回 地味な方がいい、だそうです(前半)
詩音と組んでから、二週間が近づいていた。
紅葉は、徐々に「この人のペースに飲まれる」という感覚に慣れ始めていた。慣れというより、抵抗する気力の配分を覚えた、と言った方が正確かもしれない。毎朝の自販機、複合機、そして突然の紙袋。どれも予測はつくようになったが、予測できたところで避けられるわけではなかった。
今朝も、詩音は給湯室で立ち尽くしていた。
『紅葉さん。この給湯機、お湯と水、どっちがどっちだかわかりません』
『……左がお湯で、右が水です。表示が出ていますよ』
『ああ、絵がそう意味だったんですね』
詩音は納得したように頷き、普通にお湯を注いだ。紅葉はその横で、自分のコーヒーを黙って淹れる。もう説明すること自体に、感情が乗らなくなってきていた。
そして今日。
午前中、鷲尾から短い指示が来る。
「詩音、紅葉。午後、取引先のクレーム初期対応。派手にやるな」
資料は薄く、内容も地味だった。先方の担当者が、契約内容の細かい点で不満を募らせている。暴力や脅しがあるわけではないが、放置すると関係が悪化しかねない。穏便に話を聞き、温度を下げることが目的の案件だった。
紅葉は資料を閉じ、自分のデスクで服を確認する。今日は最初から、オフィスカジュアル寄りの服装にしていた。ジャケットを着ず、ブラウスにスラックス。ボディスーツもサングラスも、今日こそは関係ないはずだった。
『今日は普通でいける……はずだ』
そう自分に言い聞かせて廊下に出ると、案の定、詩音が紙袋を持って立っていた。
紅葉の足が、わずかに止まる。
『……何ですか、その袋』
『今日の雰囲気です』
詩音は袋から服を取り出した。淡い色のブラウスに、きちんとアイロンの効いたスラックス。ジャケットはなく、全体的に落ち着いた色味をしている。一見、普通のオフィスカジュアルだった。
紅葉はそれを見て、思わず安堵の息を漏らす。
『……普通ですね』
『ええ。地味な方が、相手に警戒されないと思いまして』
『本当に普通ですか』
『普通です。経費で購入しました』
紅葉は服を受け取り、軽く確認する。奇抜な光沢もない。極端に肌が露出しているわけでもない。これまでの二回に比べれば、明らかにまともだった。
『……着替えてきます』
更衣室で着替えた紅葉は、鏡の前で自分を見る。淡いブルーのブラウスに、ダークグレーのスラックス。アクセサリーは最小限。確かに普通だ。ようやく「変な服を着せられる回」ではない日が来たのだと思った。
隣では詩音も同じ系統の服に着替えていた。ただ、よく見ると、詩音のブラウスの袖口に小さなフリルがあり、襟元のデザインがわずかに凝っている。紅葉のものと比べると、どこか「選んで着ている感」が強い。
『……少し、華やかじゃないですか』
『地味な中にも、最低限の雰囲気は必要です』
『その「最低限」が、いつも最低限じゃないんですよ』
詩音は首を傾げたまま、自分の袖を整えた。紅葉は鏡に映った自分を再度確認する。まだ普通に見える。今日は大丈夫だ。そう思って、更衣室を出た。




