第3回 警護といえば、だそうです(後半)
オフィスビルのエントランスは、昼間だというのに空気が少し冷えていた。
ガラス張りの天井から白い光が落ちてきて、床の大理石を淡く照らしている。人の往来はそこそこあるが、誰もが自分の用事に急いでいて、こちらに目を止める者はいない。シオンとルージュは、その流れに混ざるようにして建物の中へ入った。
シオンは入館手続きのときもサングラスを外さなかった。受付の女性が少し不思議そうな顔をしたが、社員証を提示されると特に何も聞かず、通行を許可した。ルージュは自分のサングラスを何度かずり上げたくなったが、隣を歩くシオンが微動だにしないので、仕方なくかけたままにした。
『室内ですよ』
エレベーターを待ちながら、ルージュは小さく呟く。
『わかっています』
『外してもいいんじゃないですか』
『外すと雰囲気が崩れます』
『崩れていいって、さっきも言いました』
シオンは軽く首を振った。レンズの奥の表情は読めない。ルージュはため息をつき、エレベーターの表示灯を見上げる。まだ現場にも到着していないのに、すでに気力を削られていた。
警護対象の役員は、上層階の会議室にいた。五十代くらいの男性で、貫禄ある顔立ちをしている。二人を見るなり、目を細めた。
「……本格的な感じだな」
シオンは静かに一礼する。サングラスは外さない。
『お任せください』
役員は少しだけ苦笑し、会議室の隅を示した。特に文句は言われなかった。むしろ「安心感がある」とまで言われたことが、ルージュには複雑だった。この格好で安心されることの方が、よほど不安だった。
付きまとう人物は、午後の早い時間に姿を現した。
ロビーのソファに座っていた男が、役員の移動に合わせてゆっくりと立ち上がる。距離は詰めない。だが、明らかにこちらを意識している。目線の送り方が、普通の来訪者ではなかった。
シオンはそれを、サングラス越しに静かに観察していた。ルージュが「どうしますか」と小声で聞いても、すぐには答えなかった。役員が次の会議室へ移動するまでの一分ほどを、シオンはただ見ていた。
『ルージュ』
短い呼びかけだった。
『あの男は、役員本人に興味があるのではない。役員が持っている案件の情報を、外側から測っている』
『……どういうことです?』
『直接危害を加えるつもりはない。だが、近づける位置にいること自体が目的。だから、強引に排除すると逆に反応する。自然に、別の場所へ誘導する』
シオンの声は低かったが、迷いはなかった。社内で自販機の前に立ち尽くしていた人と同じとは思えない。ルージュは小さく息を吸い、頷いた。
二人は役割を分担した。
シオンは役員の少し斜め後ろを歩き、視線で男の動きを抑え続ける。ルージュはその外側を回り込み、男が役員に近づこうとしたタイミングで、自然に通路を塞ぐ形に立つ。ぶつからない。だが、進行方向をわずかに変えるには十分な位置だ。
男が立ち止まった隙に、シオンが短い言葉を投げた。内容は普通の案内だった。次の会議室の場所を教えるような、事務的な声。だがその間合いと角度が、男のペースを完全に崩していた。
男は数秒間その場に残り、やがて黙って方向を変えた。追いかけてはこなかった。
事が終わったあと、役員は二人に軽く頭を下げる。
「助かった。思ったよりスムーズだな」
シオンはサングラスをかけたまま、静かに応じた。
『雰囲気を大事にしました』
役員は何かを言いかけて、結局何も言わずに去っていった。ルージュはその背中を見送りながら、自分のサングラスをずり下げ、目を閉じる。
『……なんですか、これ』
『警護の基本です』
『基本じゃないです。映画です』
シオンは首を傾げたまま、エレベーターのボタンを押した。室内なのに、結局最後までサングラスを外さなかった。
翌朝。
紅葉が自席に着くと、三奈が通りかかった。彼女は紅葉の顔を一瞥し、短く息を吐く。
「また変なのを着ていたらしいな」
『……噂、速いですね』
「速いというより、目立つ。室内でサングラスとはな」
三奈はそれ以上深くは聞かず、自分の席へ歩いていく。紅葉はその背中を見送ったあと、隣の詩音を見た。詩音は朝のコーヒーを飲みながら、普通に資料を開いていた。サングラスはもうしていない。社内モードに戻っている。
紅葉は机に肘をつき、静かに額を押さえた。
『次は、何を着せられるんだろう』
考えただけで、胃が重くなった。




