第3回 警護といえば、だそうです(前半)
詩音と組んでから、一週間と少しが経っていた。
紅葉はすでに、いくつかのことを学習していた。
詩音は朝の挨拶を欠かさない。資料のまとめ方も丁寧だ。現場での判断は、正直なところ的確だった。倉庫街の件も、結果だけ見れば文句のつけようがない。シオンとして動いているときの彼女は、確かに「信頼できる先輩」だった。
だが——。
今朝も、詩音は自動販売機の前で立ち尽くしていた。
『紅葉さん。これ、温かい方と冷たい方、どっちを選べばいいんでしょう』
『……ボタンの上に書いてありますよ。赤い方が温かいです』
『ああ、記号だったんですね』
詩音は納得したように頷き、普通に温かい缶コーヒーを買った。紅葉はその横顔を見ながら、静かに息を吐く。現場ではあれほど鋭いのに、なぜ社内に戻るとこうなるのか。その温度差が、日を追うごとに紅葉の胃を重くしていた。
昨日は複合機の前でも同じだった。詩音が「両面印刷の仕方」を真顔で聞いてきて、紅葉が説明すると「そういう機能があったんですね」と感心された。感心される側の気持ちも考えてほしかった。
そして今日。
午前中、鷲尾から短い指示が来る。
「詩音、紅葉。午後、役員の身辺警護。詳細は資料を見ろ」
内容はシンプルだった。取引先の重要人物が最近、特定の人物に付きまとわれている。直接的な危害はないが、不快なので事を荒立てず遠ざけてほしい——という依頼だ。会場は都内のオフィスビル。昼間の任務で、比較的まともな現場に見えた。
紅葉は資料を閉じ、いつもの黒ジャケットに袖を通す。普通のスーツだ。ボディスーツの二の舞は避けたい。せめて今日は、まともに見られる格好で行きたかった。鏡に映った自分は、新卒らしいきちんとした印象をしている。これでいい。これ以外いらない。
支度を終えて廊下に出ると、詩音が先に立っていた。手には、またしても大きな袋がある。紙袋の底が、また歪んでいる。
『紅葉さん。まだです』
『……何ですか、その袋』
詩音は袋から、真新しい黒のスーツを取り出した。ジャケット、スラックス、そして黒いネクタイ。さらに、黒いサングラスが二つ。生地はわずかに艶やかで、シルエットは今紅葉が着ているものよりタイトだった。
『こちらに着替えてください』
『今、スーツ着てますけど』
『違います。雰囲気が出る方のスーツです』
紅葉は自分の袖を見下ろし、詩音が差し出したスーツを見る。どちらも黒で、どちらもスーツだった。違いがあるとすれば、詩音が持ってきた方の方が、わずかに映画のエキストラが着ていそうな「それっぽさ」を纏っていることくらいだ。
『スーツからスーツに着替える必要、ありますか』
『あります。警護といえば、これです』
詩音は真顔でサングラスをかけた。室内なのに、外す気配はない。蛍光灯の光がレンズに反射して、紅葉には詩音の目元が見えなくなった。
『メン・イン・ブラック、見ました?』
『メン・イン・ブラック? 黒い服の人たちですか。やっぱり雰囲気が大事なんですね』
紅葉は数秒間、何も言えなかった。前回のボディスーツのときより、諦めが来るのが早かった自分に気づいて、少し嫌になる。
『室内でサングラスいらないですってば』
『外すと雰囲気が崩れます』
『崩れていいです。普通に崩れてください』
詩音は首を傾げたまま、袋を紅葉の方へ押し出した。拒めない空気だけが、静かに二人の間に落ちる。紅葉は数秒間抵抗する姿勢を保ったが、結局力なく肩を落とした。
『……着替えます』
前回より、明確に諦めが早くなっていた。
更衣室でスーツを着替えた紅葉は、鏡の前で自分を見る。黒のジャケットに黒のスラックス。ネクタイを締めて、最後にサングラスをかける。室内なのに視界が少し暗くなる。隣では詩音が、同じ格好ですでに準備を終えていた。
『……なんですか、この感じ』
『警護の雰囲気です』
『映画のエキストラみたいです』
『それくらいの方が、相手に緊張感を与えられます』
紅葉はサングラスの位置をずらし、額を抑えた。まだ現場にも着いていないのに、すでに疲れていた。




