第2回 雰囲気が出る、だそうです(後半)
更衣室の蛍光灯は、妙に白くて冷たい。
紅葉は鏡の前で、黒く光るスーツのファスナーを上げる。生地は予想以上に薄く、体のラインを容赦なく拾った。動くたびに光が滑り、とても「目立たない」服装には見えなかった。袖を通した瞬間から、すでに後悔していた。
『……光りすぎです。夜間なのに目立ちます』
詩音は自分のスーツも着終え、鏡の横で紅葉を見ている。彼女の方は、なぜか自然に着こなしていた。同じものを着ているはずなのに、詩音には「選んで着ている」ような余裕がある。
『プロ感が出ていますよ』
『出てないです。ただのテカテカです』
紅葉は袖を引っ張り、裾を整える。どう動いても落ち着かなかった。詩音は紙袋から高いヒールを取り出し、紅葉の前に差し出す。
『これもセットです』
『倉庫街にヒールですか』
『雰囲気です』
紅葉はそれ以上何も言わず、黙って靴を履いた。靴音が更衣室の床に小さく響く。自分の足元を見下ろして、紅葉はもう一度だけ小さく息を吐いた。
倉庫街に着いたのは、日が沈んでからだった。街灯は少なく、建物の隙間に深い影が落ちている。空気は冷えていて、光沢のあるスーツの上からでも肌に寒さが滲みてくる。依頼主から共有された地図では、被害が集中している区画は奥の方だった。
シオンは歩きながら、周囲を静かに見渡している。紅葉が「どう動きますか」と小さく聞いても、すぐには答えなかった。数分後、シオンが足を止める。
『ルージュ』
突然呼ばれて、紅葉は思わず足を止めた。
『……今、なんと?』
『ルージュ。あそこに死角があります』
『ルージュってなんですか?』
『雰囲気です』
紅葉は一瞬だけ沈黙し、額に手を当てた。
『……そうですか』
それ以上追及しても無駄だと判断した紅葉は、地図を確認する。確かにその通りだった。シオンの声のトーンは、社内にいたときとは明らかに違っていた。迷いがない。状況を切り取る目だけが、急に鋭くなっている。紅葉は小さく息を吸い、仕方なく応じた。
『……わかりました』
二人は分かれて位置についた。紅葉はシオンの指示通り、死角の出口側に回る。少し離れた場所から、シオンの姿が見えた。黒く光るスーツが街灯の明かりをわずかに反射している。目立つはずだった。だがシオンは、まるで最初からそこにいたかのように、静かに立っていた。無駄な動きがない。
やがて、人影が動いた。
シオンはすぐに動かない。相手が荷物に手をかけた瞬間を見計らい、短く紅葉に合図を送る。
『ルージュ、今です』
紅葉はそれに応じて通路を塞ぐ形で出ていく。相手が動揺した隙に、シオンが別角度から接近し、逃げ道を封じた。派手な取っ組み合いにはならなかった。シオンの読みが正確で、紅葉の動きもそれに乗っただけだった。相手は短時間で観念し、荷物を置いてその場に座り込む。
事が片付いたあと、紅葉は少し離れた場所で息を整えていた。アドレナリンが引いたあと、スーツの光沢が急に恥ずかしくなる。シオンが近づいてくる。
『ルージュ。お疲れさまです』
『……はい。お疲れさまです。あと、社内に戻ったら普通に呼んでください』
『現場ではこの方が雰囲気が出ます』
紅葉は光る自分の腕を見下ろす。
『これ、やっぱり目立ちすぎです』
『でも、雰囲気は出ていました』
シオンは真顔でそう言った。紅葉はもう何も返さず、額を突く。今夜のことは、できるだけ早く忘れたいと思った。
翌朝。
紅葉が自席に着くと、すでに七瀬がそこにいた。手には長いレシートの束を持っている。眼鏡の奥の目は、完全に死んでいた。朝からこの人がデスクにいること自体が、不吉だった。
「紅葉さん」
『……はい』
七瀬はレシートを紅葉の目の前で広げて見せる。光沢ボディスーツ二着と、ヒールの明細が並んでいた。数字の並びが、妙にリアルだった。
「これ、なんですか」
『え? なんでわたしに言うんですか?』
「詩音さんに言っても意味がないので。あなたが教育係でしょう?」
紅葉は思わず口を開いたまま固まった。七瀬の声は静かだったが、どこか突き放したような冷たさがある。反論の余地を最初から奪いに来ている話し方だった。
『教育係って……私、入社してまだ二週間も経ってないんですけど』
「知っています。だからこそ、早めに止めてください。次はありませんから」
七瀬はレシートを机に置くと、踵を返して去っていった。紅葉はその背中を見送ったまま、動けずにいる。隣の席では、詩音が朝のコーヒーを飲みながら普通に資料を読んでいた。何事もなかったかのような横顔だった。
紅葉はゆっくりと机に突っ伏す。
『なんで。わたし……』
小さな声が、デスクの上に落ちた。




