第2回 雰囲気が出る、だそうです(前半)
詩音と組んでから、三日が経った。
紅葉はまだ、この先輩が「社内で合掌されるほど悍ましい」という評価を、実感としては理解できていなかった。むしろ、詩音は丁寧で、仕事の話も要領を得ている。朝の挨拶も欠かさず、紅葉の名前をきちんと覚えて呼ぶ。資料のまとめ方も綺麗だったし、会議室での発言も的外れではなかった。
ただ、小さな引っかかりは、確かにあった。
昨日の午後、社内の自動販売機の前で、詩音が長時間立ち止まっていた。紅葉が声をかけると、詩音は真顔でこう言った。
『紅葉さん。この機械、お金を入れたあと、どれを押せばいいかわからないんです』
『……ボタンに値段と商品名が書いてありますよ』
『ああ、あれがそうなんですか』
詩音は納得したように頷き、普通にコーヒーを買った。紅葉はその背中を見ながら、微かな違和感だけを飲み込んだ。普段あんなに冷静だった人が、なぜ自販機の前で立ち尽くすのか。その温度差が、まだ消化しきれていなかった。
そして今日。
午前中、鷲尾から短い指示が飛ぶ。
「詩音、紅葉。午後から現場。詳しくは資料を見ろ」
渡された資料は薄かった。夜間に倉庫街で小規模な貨物の盗難が続いており、死角を突かれているらしい。警察に届けるほど大きな被害ではないが、依頼主が「穏便に調べてほしい」と希望している案件だった。表沙汰にしたくない、というニュアンスが資料の端々から滲んでいた。
紅葉は資料を閉じ、自分のデスクでスーツの襟を整える。黒のジャケットにスラックス。新卒らしい、きちんとした装いだ。現場に出るならこれが無難だろうと判断していた。このあとの悲劇をこの時点ではまだ想像していなかった。
詩音の席を見ると、彼女は既に席を外していた。
『先に現場に向かっているのかな』
紅葉はそう思い、自分も準備を終えて廊下へ出る。エレベーターホールまで来たとき、後ろから声をかけられた。
『紅葉さん』
振り返ると、詩音が立っていた。手には大きな紙袋を持っている。中身の形が、どう見ても衣服のそれだった。紙袋の底がわずかに歪んでいる。
『どこかへ行きますか』
『現場に向かおうと……』
『まだです』
詩音は紙袋を差し出した。中から出てきたのは、黒くて光沢のある、ぴたりと体に張り付きそうなスーツだった。首元まで覆うデザインで、ファスナーが中央に一本通っている。とても、夜間の倉庫街で着るようなものには見えなかった。光の下で、生地がねっとりと光っている。
紅葉は黙ってそれを見る。数秒間、言葉が出なかった。
『……これ、何ですか』
『雰囲気が出るそうです』
詩音は真顔で答えた。疑っている様子も、冗談を言っている様子もない。
『夜間の潜入には、目立たず、かつプロフェッショナルな印象を与える服装が必要だと思いまして。経費で購入しておきました』
紅葉の口から、思わず低い声が出る。
『峰不二子じゃないんだからさ……こんなテカテカのスーツ着て、どうするんですか』
『峰不二子? ああ、雰囲気の出る人ですね。参考にしました』
詩音は嬉しそうにさえ見えた。紅葉は紙袋の中身を見下ろし、静かに息を吐く。自分の今着ている普通のスーツを、無意識に袖で摘まんだ。
『普通のスーツでいいと思います。私、今これで……』
『紅葉さん』
詩音が一歩近づく。目は真剣だった。声のトーンは穏やかなままなのに、なぜか逃げ道がない。
『雰囲気は大事です。お願いします』
その声には、押し付けがましさよりも、純粋な信念のようなものが混じっていた。紅葉は数秒だけ沈黙し、やがて力なく肩を落とす。
『……わかりました。着ます』
最初の諦めだった。




