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第1回 詩音、襲来(後半)

本部長室は、思っていたより静かだった。

大きな机の向こうに、一慶が座っている。細いフレームの眼鏡をかけ、両手を顔の前で組むようにして、紅葉を見ていた。光の加減で目元が影になり、表情はほとんど読み取れない。まるで、何か重大な決断を下す前の人間のような座り方だった。

「紅葉」

低い声が落ちる。

「詩音に乗れ」

紅葉は思わず瞬きをした。

『……はい?』

「詩音に乗れ」

一慶は同じ言葉を、同じ調子で繰り返した。説明はない。補足もない。ただ、そう告げているだけだった。

紅葉は軽く息を吸う。

『あの、私は営業希望で入社したんです。警備部への配属自体も少し驚いているんですが……ここはネルフでしたっけ? 逃げちゃダメだ……とは、ならないですよ?』

一慶の眉が、ほんのわずかに動いたかどうか。それすら判然としない。

「乗れ」

それだけだった。

紅葉が次の言葉を探していると、ドアがノックもなく開いた。

入ってきたのは、長い紫の髪を持つ長身の女性だった。立ち居振る舞いは静かで、礼儀正しい。紅葉が想像していた「悍ましい」という形容とは、少なくとも第一印象では結びつかない。

詩音は一慶の前で軽く頭を下げると、紅葉の方を向いた。そして、開口一番こう言った。

『乗ります。

紅葉は、詩音に乗ります。』

紅葉の思考が、一瞬止まった。

『なんであなたが言うんですかそれ……てか誰?』

詩音は首を傾げる。

『本部長がそうおっしゃったので』

当然だ、と言わんばかりの声だった。紅葉は口を開きかけて、何も言えずに閉じる。一慶は満足したように短く息を吐き、机の脇に置いてあった内線に手を伸ばした。

「鷲尾。あとのことは頼む」

ほどなくして、別の女性が入ってきた。鷲尾零子だった。落ち着いた色のスーツを着て、目の下に薄い影がある。明らかに疲れているが、声は明瞭だった。

「了解しました」

鷲尾は一慶に軽く一礼すると、紅葉と詩音の方を見る。

「紅葉さん。これから詩音の横についてくれ。細かいことは後で説明する」

『は、はい……』

紅葉は曖昧に頷くしかなかった。

本部長室を出て、廊下を少し歩いたところで、鷲尾が足を止めた。

「詩音。彼女の教育は任せた。あまり無理はさせるな」

『はい』

詩音は素直に答える。その態度は、少なくとも今のところは普通だった。鷲尾は紅葉に短く「何かあったら私に言え」とだけ言い残し、先に歩いていく。

残された二人きりになる。

詩音は紅葉の方を向き、少しだけ笑顔を作った。

『紅葉さん、でしたね。これからよろしくお願いします』

『……はい。こちらこそ』

紅葉は一応、丁寧に返す。詩音の物腰は柔らかく、声のトーンも落ち着いている。社内で見たあの反応たちが、嘘のように思えた。

『なんだ……みんなが言うほど、変な人じゃないのかも』

紅葉は内心でそう結論づけた。大きな勘違いであることに、彼女はまだ気づいていない。

詩音は少しだけ歩み寄り、真顔で言った。

『次の任務から、よろしくお願いします』

紅葉は反射的に背筋を伸ばす。

『はい。頑張ります』

詩音は満足そうに小さく頷くと、先に歩き出した。紅葉はその背中を見ながら、静かに息を吐く。

営業志望で入った会社で、なぜか現場の先輩に「乗る」ことになった。

とりあえず、今日のところは無事に終わった——そう思っておくことにした。

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