第24回 いないと、困るそうです(後半)
詩音の方は、紅葉が思っていた以上に不安定だった。
別任務を与えられてから二日目、詩音は朝から服装選びに時間をかけていた。いつものように「雰囲気」を基準に選ぼうとするのだが、決定打がない。鏡の前で何度も袖を直し、最終的に零子に「お前、今日は普通にしろ」と止められる始末だった。
社内でも、様子がおかしかった。
自販機の前で立ち止まる回数が増え、複合機の前で一人で首を傾げている時間が長くなっている。三奈が遠目に見て、短く呟いた。
「紅葉がいないと、ああなるのか」
零子も、詩音の報告を聞きながら一度だけ言った。
「調子、悪そうだな」
詩音は真顔で答えた。
『紅葉さんがいないと、空気の調整がうまくいかないんです。一人だと、どこか落ち着かない』
零子はそれ以上何も聞かなかった。聞いても、詩音なりの答えしか返ってこないことを知っていた。
三日目の午後、二人は社内で顔を合わせた。
紅葉が先に席に着いていると、詩音が静かに戻ってくる。お互い、直接的な敵意はない。ただ、この前の言葉が、まだ空気の中に残っている。
紅葉は資料から手を離し、詩音の前で一度、頭を下げた。
『この前は、言いすぎました』
詩音はまっすぐに紅葉を見ている。
『教育係なのに、突き放すようなことばかり言って。限界だとか、消耗するとか……あれは、私の言い分が過ぎていました。すみません』
謝罪の言葉は、適当に並べたものではなかった。紅葉なりに、本気で選んだものだった。
詩音は少しだけ間を置いてから、静かに言った。
『紅葉さんがいないと、困ります』
紅葉が顔を上げる。
『空気が、安定しないんです。紅葉さんがいると、場の雰囲気がちょうどよく整う。一人だと、それができない』
感情を込めた言い方ではなかった。詩音にとっての事実を、事実として口にしただけだった。それでも紅葉には、これまでの「雰囲気です」とは、少し違う響きに聞こえた。
『……わかりました』
紅葉は短く答えた。それ以上の言葉は、まだ持っていなかった。ただ、スーツの袖を無意識に摘まみながら、この前の現場で感じた「物足りなさ」の正体が、ようやく少しだけ言葉になった気がした。
詩音は小さく頷き、自分の席に向かう。紅葉も資料に目を戻した。
以前と、完全に同じではない。
かといって、劇的に何かを語り合ったわけでもない。
ただ、二人の間の空気が、以前よりわずかに安定していることだけは、確かだった。




