第24回 いないと、困るそうです(前半)
終業間際、紅葉は詩音の席の前で立ち止まった。
手には、今日の経費の仮申請書を持っている。金額自体は以前ほど高くない。だが、内容がまたしても「雰囲気」だった。紅葉はそれを机に置き、詩音の顔を見た。
『先輩。もう、限界です』
詩音は資料から顔を上げた。驚いた様子はない。ただ、紅葉の周囲の空気が普段と違うことを、感じ取っている目だった。
『私は教育係として、ここまで付き合ってきました。変な服も着ました。高額な請求も、矢面に立ちました。でも、先輩は何も変わってない』
声が、少しだけ震えた。
『相談するって言ったのに、結論はいつも同じ。経費を気にするって言ったのに、また雰囲気です。成長してるつもりなら、行動で見せてください。私はもう、ただ消耗するだけの係は、やりたくない』
詩音は静かに紅葉を見ていた。反論しない。否定もしない。ただ、紅葉の言葉を「尖った雰囲気」として受け取っているような顔だった。
その沈黙が、紅葉には余計に堪えた。
結局、その場は平行線のまま終わった。零子が後で二人を呼び、短く言った。
「しばらく、別々に動いてくれ。互いに頭を冷やす時間も必要だ」
気を遣っての分離だった。紅葉はそれを、素直に受け入れるしかなかった。
翌日、紅葉は一人で現場に向かった。
普通の黒スーツ。ブラウスにスラックス。ジャケットの襟を整え、鏡に映った自分を見る。変な光沢もない。フリルもない。露出もない。ただの、仕事着だ。
更衣室を出るとき、胸の奥で小さく何かが弾けるのがわかった。
嬉しい。
本当に、嬉しかった。
コスチュームを着せられない。詩音に「雰囲気です」と真顔で言われない。七瀬に請求書を突きつけられない。ただ、普通のスーツで、普通の任務に出られる。その解放感が、身体の端々まで広がっていく。
だが——。
現場に着いて、資料を確認しながら周囲を見渡したとき、明確に違う感覚があった。
物足りない。
理由はわからない。楽なはずなのに、どこかが空虚だった。判断に迷う局面で、隣に「あの人ならどうするか」と考える自分がいる。詩音の的外れな提案を、頭の中で一度想定してしまう。そのたびに、スーツの袖が少しだけ重く感じられた。
任務自体は、無事に終わった。
問題なく、普通に、終わった。
なのに紅葉は、帰路の電車の中で窓の外を見ながら、小さく息を吐いた。
『いない方が、楽なはずなのに……』
その言葉の続きを、彼女はまだ自分では認められていなかった。




