第23回 止まれなかった、だそうです(前半)
最近、紅葉は詩音という人間の輪郭を、何度も描き直していた。
ポーカーで負け知らずを下し、店を畳ませた目。走り屋を沈黙させた加速。あれは確かに異常だった。なのに日常に戻れば、ティーバッグを捨ててお茶を淹れたつもりになり、自販機の前で立ち尽くす。有能と欠落が、同じ体に収まりきっていない。
その日の午後、紅葉は零子に呼ばれた。
経費の確認が終わったあと、零子は書類を閉じ、ペンを置いた。窓から差し込む光が、机の端を白く照らしている。零子はしばらく何も言わず、紅葉の顔を見ていた。
「お前、詩音のことがわからなくなってきてるだろ」
紅葉は否定しなかった。否定する材料が、もう自分の中になかった。
「私にあいつは似ていた。現役の頃な」
零子の声は低かった。昔を思い出すときの、少しだけ遠い響きがある。
「感覚で動く。空気を読んで、理屈より先に体が反応する。当時の私は、それで結果を出していた。周りも認めてくれていた。『零子に任せておけばなんとかなる』と、そう言われることが多かった」
紅葉は静かに聞いていた。零子が自分の過去を語ることは、ほとんどなかった。
「だが、あるとき気づいた。感覚だけでは、人を守れない。守りたいものがあるなら、感覚を一度止めなければいけない。止めて、考えて、選ばなければいけない。私は止めた。意識的に、抑え込んだ」
零子はこちらを見ないまま、続けた。
「詩音は、止まれなかった。止める必要がないと思っているのか、止め方がわからないのか。どちらにせよ、あいつは今もあの頃の私のまま走っている。結果は出す。だが、周囲の消耗の仕方も、当時の私に似ている」
短い沈黙があった。
「私は止まれた。あいつは止まれなかった」
その言葉が部屋に落ちた。紅葉は返す言葉を探したが、見つからなかった。零子は短く息を吐き、書類を再び手に取る。
「話はそれだけだ。あとはお前が、どう付き合うかを決めろ」
紅葉は静かに頭を下げ、部屋を出た。廊下の蛍光灯が、いつもより少し白く見えた。




