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第21回 ちっぽけな女では、ないそうです(後半)

翌朝。

紅葉は出社しながら、昨夜の男の言葉を何度か反芻していた。

「ちっぽけな女じゃ、ああはならねえ」

あのポーカーのときの詩音の目を、紅葉も確かに見ていた。感情がなく、ただ状況だけを切り取っている目。走り屋を沈黙させた加速も、異常だった。もしかしたら、本当にすごいかもしれない。その気持ちが、朝の通勤電車の中で、少しだけ膨らんでいた。

社内に着き、自席に向かう。詩音はすでに来ていた。朝のコーヒーを机に置き、資料を開いている。いつもの光景だ。紅葉は軽く会釈をし、自分の席に座った。

『おはようございます』

『おはようございます。紅葉さん』

平和な朝だった。紅葉は「今日くらい、普通でいてくれればいいのに」と、心の中で小さく願った。

その願いが、すぐに砕かれた。

午前中、詩音が給湯室から戻ってきたとき、両手にカップを持っていた。一つは自分の、もう一つは紅葉のものらしい。丁寧に机に置いてくれる。

『紅葉さん。お茶、淹れてきました』

『あ、すみません。ありがとうございます』

紅葉は礼を言って、カップを手に取った。熱い。普通だ。そう思って一口飲んだ瞬間、味がしなかった。いや、水の味しかしなかった。

『……先輩。これ、お茶ですか』

『はい。ティーバッグで淹れました』

『ティーバッグは、どこに行ったんですか』

詩音は少し考えてから、真顔で答えた。

『あ、お湯を注いだあと、邪魔だったので捨てました』

紅葉はカップを持ったまま、固まった。

『……捨てた、ですか』

『はい。中身だけあれば、雰囲気は出ると思いまして』

紅葉はゆっくりとカップを机に戻し、両手で顔を覆った。昨夜の男の言葉が、音を立てて崩れていく。ポーカーの目も、レースの加速も、すべてが遠ざかっていく。目の前にいるのは、ティーバッグを捨ててお茶を淹れたつもりになっている人間だった。

午後も、似たようなことが続いた。

共有のスケジュール表に、詩音が「重要」と赤字で書き込んだ予定があった。紅葉が確認すると、内容は「午後三時、自販機の前で新作の缶コーヒーを買う」。優先度の付け方が、完全に崩壊していた。さらに、郵便物の仕分けでは「親展」と書かれた封筒を「親しい人への展覧会の案内だろう」と解釈して、普通のトレイに入れてしまっていた。

紅葉がそのたびに修正する。修正するたびに、昨夜の「すごいかもしれない」という気持ちが、薄くなっていく。

夕方、紅葉は自分の席で深く息を吐いた。

三奈が通りすがりに、短く言った。

「顔、また死んでるぞ」

『……死んでます』

「詩音の日常に戻ったな」

紅葉は否定しなかった。否定する材料が、もうなかった。

隣では詩音が、朝のコーヒーを飲みながら普通に資料を開いている。ティーバッグを捨てた人間の、平和な横顔だった。

紅葉は机に突っ伏し、小さく呟いた。

『やっぱり、ただのバカだ……。疑った自分が、バカでした』

誰にも届かない声だった。

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