第21回 ちっぽけな女では、ないそうです(前半)
レースの一件から、数日が経っていた。
紅葉は「教習所以来初めて」という言葉を、まだ時々思い出す。あの加速は異常だった。走り屋たちが黙って引いた理由も、わかる気がする。なのに詩音は、新車のカタログを真顔で眺めていただけだった。有能とバカが、同居している。その事実が、最近特に扱いづらかった。
その日の仕事が終わり、紅葉は一人で駅に向かっていた。
社用のバッグを下げ、普通の私服に着替えたあとの時間だ。人通りの少ない路地を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「おい」
振り返ると、そこにいたのは、違法カジノで詩音に敗北した男だった。あの夜、負け知らずで店を畳むと言った男。スーツではなく、地味なジャケットを着ている。目つきは鋭いが、敵意は感じなかった。
「……お前、あの時の」
紅葉は思わず身構えた。男は短く手を挙げて見せる。
「敵意はねえ。ちょっと、話がしたかっただけだ」
紅葉は数秒間迷い、結局、男についていくことにした。近くの屋台で、二人分のラーメンが置かれる。湯気が、夜の空気に白い筋を作っている。
男は麺をすすりながら、いきなり本題を切り出した。
「あの女は、何者なんだ」
『……ただの、バカな会社員です』
男は箸を止めた。そして、低く短く笑った。
「嘘つけ。あんな女が、ただの会社員なわけがねえ」
『本当です。自販機の前で迷うし、複合機の使い方もわからないし、変な服ばかり買うし……』
「勝負の最中、あいつの目は違ってた。感情がねえ。読みだけが、異常に深い。負けたのは、運じゃない。完全に、実力でやられた」
男はスープを一口飲み、続けた。
「店を畳むと決めたのも、仕方なかった。ああいう目をした人間に、もう一度同じ卓で向かい合いたくなかった。ちっぽけな女じゃ、ああはならねえ」
紅葉はラーメンの麺を、静かに噛んだ。男の言葉が、胸の奥に少しだけ残る。あのポーカーのときの詩音の横顔が、脳裏をよぎった。
二人はそれ以上深くは話さなかった。ラーメンを食べ終え、男は短く手を挙げて闇の中へ消えていった。紅葉はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
『……すごいやつなの、かな』
その気持ちが、夜の空気の中で、少しだけ大きくなった。




