第18回 格式を重んじた結果、だそうです(後半)
地下への入り口は、普通のビルの非常口にしか見えなかった。
詩音が先に歩き、紅葉が続く。ディーラー風のベストと蝶ネクタイは、蛍光灯の下で妙に目立った。受付らしき男に軽く目を光らせられたが、詩音が自然な態度で通ると、特に止められることはなかった。中に入った瞬間、赤い照明と煙草の匂い、低い話し声が混じった空気が流れている。
卓はいくつか並び、すでに勝負が始まっていた。チップの音が、規則的に響く。
『目立ちすぎです……』
紅葉は小さく呟いた。周囲の視線が、二人の制服に短く止まる。詩音は気にした様子もなく、空いている卓の近くで立ち止まった。
『ここが、一番空気が読めます』
『空気より、まず目立ってます』
詩音は答えず、静かに卓を見ていた。やがて、その卓のディーラーが席を外し、代わりに座っていた客の一人が手を上げた。相手を探しているらしい。詩音が自然な足取りで近づき、短く会釈をする。
『参加してもよろしいでしょうか』
相手は四十代くらいの男だった。目つきが鋭く、手元のチップの扱いが慣れている。ただの素人ではなかった。男は詩音のベストを一瞥し、短く頷いた。
「座れ。後払いだ」
紅葉は後ろで顔面を青くした。詩音が客として勝負に参加するとは、夢にも思っていなかった。
チップが積まれる。詩音は「雰囲気に必要な額」と言わんばかりに、淡々と数字を示した。男の眉が、わずかに動いた。周囲のディーラーの一人が、別のディーラーに小声で言う。
「今の、だいたい三千万は行ってるぞ」
「後払いとはいえ、あの金額……」
紅葉の目が、完全に白くなった。
勝負が始まる。
最初の数ハンドは、明らかに相手が優勢だった。男は冷静にポットを積み、詩音の反応を測るように賭けてくる。詩音は感情をほとんど出さず、淡々とカードを見る。紅葉にはルールの詳細がわからない。ただ、場の空気が徐々に変わっていくことだけは感じ取れた。
中盤、男が大きなブラフをかけてきた。周囲の視線が集中する。詩音は数秒だけ沈黙し、静かにコールした。男の表情が、初めて崩れた。
そこから先は、一方的だった。
詩音は相手の読みを一つずつ外し、必要なときにだけ大きく乗せていく。男の手元のチップが減り、最終的に彼はカードを伏せて手を挙げた。
「……もういい。お前、何者だ」
『ただの、雰囲気を大切にする者です』
勝ちが確定した。本来なら、三千万近いチップが詩音の手元に来るはずだった。だが、詩音はチップの山を見ると、真顔で男の方へ戻し始めた。
『勝った側が全てを受け取るのは、美しくありません。格式を重んじて、お返しします』
男も、周囲のディーラーも、完全に固まった。紅葉は後ろで、魂が抜けた顔になっていた。
「……は?」
『格式です』
男はしばらく詩音の顔を見ていたが、結局、短く息を吐いてチップを受け取った。そして、静かに席を立った。
「今日から、この店は畳む。負け知らずでやってきたが、お前には負けた。潔く、引く」
地下を出たあと、紅葉は壁に背中を預けて、しばらく動けなかった。
『三千万、返して……店まで畳ませましたね』
『はい。美しくないと思いまして』
『美しさの問題じゃないです……』
詩音は首を傾げたまま、夜風にベストの裾を揺らしていた。紅葉はその横顔を見ながら、心の中で静かに結論づけた。
この人は、やっぱりただのバカではない。
だが、天才でもない。
そのどちらでも説明がつかない、何かだ。
翌朝。
紅葉が自席に着くと、鷲尾が短く声をかけてきた。
「昨夜の件、先方から連絡があった。向こうが店を畳むそうだ。トップが潔く引いたらしい。うまくやったな」
『……はい』
鷲尾はそれ以上聞かず、去っていく。隣では詩音が、朝のコーヒーを飲みながら普通に資料を開いていた。ディーラー服の疲れは、彼女には見えない。
紅葉は画面に向かいながら、小さく息を吐いた。
『格式を重んじた結果、店がなくなりました……』
誰にも届かない声だった。




