第17回 格式が、いいそうです(後半)
更衣室の蛍光灯の下で、紅葉は赤いドレスの裾を整えていた。
生地は重く、歩くたびに静かに揺れる。肩のラインは落ちており、肌の露出は思ったより少なかったが、それでも「仕事着」には程遠かった。隣では詩音が、深い紫のドレスを静かに着ている。髪をゆるくまとめ、小さなピアスを確認している。真顔だった。
『……源氏名、本当にこのまま行くんですか』
『はい。私はシオン。紅葉さんはルージュです』
『違和感しかないです』
『格式のある場では、名前も雰囲気に合わせた方がいいと思います』
紅葉はもう追及しなかった。鏡を見ると、自分が完全に別の世界の人間に見えた。詩音は自分のクラッチバッグを手に取り、紅葉の方を見る。
『行きましょう』
港区の高級クラブは、外観からして静かだった。
入り口で名前を告げると、すぐに通された。店内は照明が落ち、琥珀色の光がグラスに反射している。客のほとんどが落ち着いたスーツ姿で、声を荒げる人間はいない。だが、奥のボックス席にいる数人の男たちの空気だけが、明らかに違った。
依頼主から事前に聞いていた通り、その中心にいるのが組長らしき男だった。五十代くらい。笑顔はないが、目だけがよく動いている。
シオンは迷わず、その方向へ歩いた。ルージュは半歩遅れて続く。近づいた瞬間、男たちの視線が集中した。特にシオンに。紫のドレスが、照明の下で静かに沈んでいる。
『失礼します。今夜の席に、少しだけお邪魔してもよろしいでしょうか』
声は穏やかだった。恐れは感じられない。男たちは一瞬沈黙し、組長がゆっくりと顔を上げた。
「……誰だ、お前」
『シオンと申します。隣がルージュです』
組長はシオンの顔を、しばらくじっと見ていた。やがて、短く手を振って近くの者に命じた。
「座れ」
グラスが運ばれてくる。組長は自分でボトルを傾け、シオンのグラスに酒を注いだ。ルージュの分には、目もくれない。
シオンはグラスに触れず、真っ直ぐに相手を見た。
『ここで行われている取引を、やめていただきたい』
場の空気が、一気に変わった。組長の隣にいた男が椅子を軋ませ、別の一人が低い声を漏らす。ルージュは爪を深く握り、思わず身を乗り出しかけて止めた。
「……何だと」
『この店での、危ない取引です。やめていただきたい』
「ふざけんな」
若い衆の一人が声を荒げた。別の男も続き、ボックス内の温度が急上昇する。ルージュの顔色が、明らかに変わった。
『先輩……』
だがシオンは動かない。組長は肘をついたまま、シオンの顔を改めて見る。
「やめないと言ったら、どうする」
シオンは少しだけ首を傾げた。
『格式ある組のトップが、そのような駄々をこねるような発言をされるのですか』
若い衆が一気に立ち上がりかけた。誰かが「こいつ」と吐き捨てる声がする。ルージュは完全に顔を青くして、詩音の裾を握りそうになった。
『待ってください、先輩、空気が……』
組長はしばらく沈黙していた。そして、突然、低く、大きく笑い出した。
「はははは! 面白い女だ」
笑いは、ボックス内の張り詰めた空気を一気に崩した。若い衆は顔を見合わせ、徐々に座り込む。組長は笑いを収め、グラスを傾ける。
「いいだろう。お前がそこまで言うなら、もう手を引く。この店からは、引く」
ルージュは耳を疑った。あまりに急な着地だった。組長は立ち上がり、シオンにだけ小さく頷いて見せた。
「また会うことはないだろうが、覚えておく。シオン」
それだけ言って、彼は部下を連れて席を外した。残されたボックスは、急に静かになった。
ルージュは自分のグラスを見下ろしたまま、動けずにいた。
『……今の、何だったんですか』
『格式を示した結果だと思います』
『格式、ですか』
『はい』
ルージュは紫のドレスの背中を見ながら、心の中で静かに呟いた。
『この人は、ただのバカな先輩なのか。それとも、天才なのか……』
どちらでも、説明がつかなかった。
翌朝。
紅葉が自席に着くと、鷲尾が短く声をかけてきた。
「昨夜の件、先方から連絡があった。向こうが引くそうだ。うまくやったな」
『……はい』
鷲尾はそれ以上聞かず、去っていく。隣では詩音が、朝のコーヒーを飲みながら普通に資料を開いていた。ドレスの疲れは、彼女には見えない。
紅葉は画面に向かいながら、小さく息を吐いた。
『格式、か。本当に訳がわからない』
誰にも届かない声だった。




