第14回 可憐な女の子は、ピンクだそうです(後半)
更衣室の蛍光灯の下で、紅葉は青いスーツのファスナーを上げていた。
生地は厚く、関節部分が少し硬い。ヘルメットを被ると、視界が極端に狭くなる。正面は見えるが、足元と横がほぼ死角だった。隣では詩音が、ピンクのスーツを静かに着ている。ベルトのエンブレムを整え、ヘルメットを抱えている。真顔だった。
『……視界、悪くないですか』
『慣れます。子供には、この方が正義感が伝わります』
『正義感より、転びそうです』
『転ばないように、気をつけます』
紅葉はもう何も言わなかった。鏡を見ると、自分が完全にイベントの出演者にしか見えなかった。詩音はピンクのヘルメットを軽く叩き、紅葉の方を見る。
『行きましょう』
商業施設のイベントスペースは、週末の午後ということもあり、子供と親で混雑していた。
ステージの上では音楽が流れ、周囲には小さなゲームブースが並んでいる。黄色い風船と、甘いお菓子の匂い。紅葉はその中を、青いスーツのまま歩いていた。子供が寄ってくる。袖を引っ張られる。ヘルメットを叩かれる。毎回「ヒーロー」として反応しなければならず、視界の悪い中でバランスを取るのが精一杯だった。
『ルージュ』
狭い視界の端で、ピンクのスーツが近づいてくる。シオンの声は、ヘルメットの中で少し篭って聞こえた。
『ステージ裏の搬入口付近です。関係者以外の人間が、器材の陰に入ろうとしています』
『……何です?』
『イベント用の景品を、数箱まとめて外に出そうとしている。警備の目がステージ前に集中している隙を突いています』
紅葉は頭の向きを変え、なんとかその方向を捉える。確かに、作業着に近い服を着た男が二人、台車を引いて搬入口付近をうろうろしていた。スタッフの名札はない。動きが、搬入作業にしては落ち着きすぎていた。
『どうしますか』
『ヒーローとして、自然に近づきます。排除するのではなく、声をかけて正体を確認する』
シオンの声に、迷いがなかった。この格好でも、状況を切り取る目だけは正確だった。紅葉は自分の青いヘルメットを、指で軽く叩く。恥ずかしい。暑い。だが、指示の内容は理解できた。
二人は分かれて動いた。
シオンは子供たちに手を振りながら、ゆっくりと搬入口の方へ寄っていく。通りすがりのヒーローが、ふと足を止めたような形だ。ルージュはその外側を回り、台車の逃げ道を塞ぐ位置に立った。ぶつからない。だが、進行方向を変えるには十分な存在感だった。
男たちが立ち止まった隙に、シオンが短い声をかける。内容はイベントの案内だった。搬入口の使用許可を確認するような、穏やかな声。ヘルメットの中からでも、その間合いだけは正確に伝わった。
男たちは数秒間こちらを見ていたが、やがて台車を置き去りにし、別の出口へ歩いていった。追いかけてはこなかった。景品の箱は、後から正規のスタッフが回収した。
事が終わったあと、ルージュはイベントスペースの端で、ヘルメットを外して息を吐いた。髪が汗でびちょびちょだ。シオンもピンクのヘルメットを外し、少しだけ顔を出した。なぜ同じ衣装なのにこの人は汗をかいていないのか。
『……なんとか、なりましたね』
『可憐な雰囲気と正義感が、功を奏しました』
『功を奏したのは、スーツの目立ち方だと思います』
シオンは首を傾げたまま、ヘルメットを抱え直した。子供が遠くから手を振っている。紅葉は強制的に手を振り返しながら、太ももには筋肉痛が早くも訪れていた。
翌朝。
紅葉が自席に着くと、三奈がコーヒーを持って通りかかった。彼女は紅葉の顔を一瞥し、短く息を吐く。
「お前ら、昨日のイベント、SNSで上がってるぞ」
『……は?』
「ピンクの方だ。スタイルが凄すぎるとか、ナイスバディとか、そういう話で少し回ってる。公式の写真に、はっきり映ってたらしい」
紅葉は机に突っ伏した。三奈はそれ以上何も言わず、去っていく。隣では詩音が、朝のコーヒーを飲みながら普通に資料を開いていた。ピンクのスーツの疲れは、彼女には見えない。
紅葉はデスクの上で、小さく呟いた。
『とほほ……』
誰にも届かない声だった。




